第85話 三つの任務、三つの餌
通知音が重なる時は、たいてい誰かが考える前に流している。
準備室の外で鳴った短い音を聞いたあと、玲司は三枚の紙を見たまま動かなかった。
一つ。間を置いてもう一つ。
別の場所から、同じような乾いた音。
ユラが先に言う。
「これ、もう誰か転がし始めてるね」
「ええ。しかも一人じゃない可能性が高いわ」
カナデは扉の方へ一度だけ視線をやった。
慌てる顔ではない。
むしろ、予定より早く始まった時の顔だ。
ミオは端末を持ち直す。
「廊下側の近距離通信ログ、少しだけ増えてます」
「ここを中心に、二方向です」
「拾われたか」
玲司は短く言った。
まだ外へ出していないつもりでも、準備室に集まる頻度、紙の扱い、ユラが誰かと雑に喋る位置、カナデの見回り動線。
それだけで、勘のいい相手なら何か始まると読む。
だからこそ、今回はそれを利用する。
同時に、一歩間違えればこちらの“何を隠したいか”まで読まれる。
三つの紙は、ただの任務書に見える。
だが本当は、触れさせるための餌だ。
食いつかせるだけなら簡単でも、噛まれ方を誤ればこちらの喉元まで見せることになる。
「確認する」
玲司が三枚の紙を指で押さえた。
「三つとも本物じゃない」
「でも、流し方は本物に見せる」
「誰にどう拾わせるかまで決める」
レナが壁際で腕を組む。
「で、分け方は」
「違法採掘の再調査は外向きだ」
玲司が一枚目をずらす。
「外部実習、スポンサー補助、搬入関係の耳に触れるように流す」
ユラがすぐに反応した。
「それならやりやすい」
「“前の件、まだ尾引いてるらしいよ”くらいの軽さでいいんでしょ」
「軽すぎるな」
「でも自然じゃん。重くしたら逆に噂っぽくなくなるし」
そこは確かにユラの領分だった。
明るい輪の中で、深刻に見せずに深刻な情報を落とす。
それは才能に近い。
「証人移送は教務系」
カナデが二枚目を引く。
「時間と経路がある分、誰が見たがるか分かりやすいわ」
「ただし、本物の移送計画に見せるなら、雑な言い回しは使えない」
「そっちは冬月さん向きだね」
「ええ。あなたに触らせると、半日で廊下中へ広がるもの」
「信頼が厚いなあ」
「警戒が正しいだけよ」
二人のやり取りに、レナが低く笑う。
「いつも通りで安心するな」
ミオは三枚目を見たまま、小さく言った。
「倉庫の方は、わたしが数字を寄せます」
「申請番号と鍵照合の形式だけ本物に近づければ、“知ってる人”ほど自分で補完します」
「やれるか」
「はい」
ミオはうなずく。
「でも、全部は寄せません。半分だけです」
「詳しい人ほど、足りない方が気になるので」
玲司は短く目を細めた。
「いい」
「それでいく」
準備室の机の上で、三つの嘘は少しずつ役割を帯びていく。
違法採掘は外へ抜ける餌。
証人移送は内部の手を測る餌。
倉庫調査は、鍵に近い人間を炙る餌。
同じ嘘じゃない。
噛みつく口の形まで変える嘘だ。
「わたしは違法採掘を回す」
ユラが言う。
「協賛の補助やってる大人の前では、聞いた話っぽく軽く」
「生徒側には、“またやるらしいよ”で止める」
「深掘りされたら、逆に知らないふりで逃がす」
「逃がし方まで考えてるのね」
カナデが言う。
「そうしないと広がり方が雑になるから」
ユラは肩をすくめた。
「噂って、止める位置も作らないと不自然なんだよ」
レナが紙の端を指で弾く。
「こっちは?」
「表では何もしない」
玲司は即答した。
「現場を見る役だ」
「反応が出た場所に痕が残る。そこを拾ってくれ」
「了解」
短い返事。
でも一番頼れる種類の返事だった。
ミオは端末の画面を細く追っている。
「……今、倉庫側の形式だけ、閲覧窓が一つ増えました」
「まだ中身じゃないです。形式だけ見てます」
「鍵に近い線か」
玲司が言う。
「たぶん」
「じゃあ、倉庫は今夜撒く」
カナデがすぐにうなずく。
「証人移送は明日の朝」
「違法採掘は昼休み前後ね」
「ズラす理由は?」
レナが聞く。
「反応時間を見るためだ」
玲司は答える。
「すぐ動く線と、寝かせてから動く線で質が違う」
「同じ日に重ねると混ざる」
「ほんとに嫌な組み方するよね」
ユラが言った。
だが嫌そうではない。
必要だからやる顔だ。
玲司は三枚の紙を重ね、また広げた。
「今回、捕まえることが目的じゃない」
「まず見る」
「誰が、どの餌に、どの速さで、どこまで反応するか」
「反応しなかったら?」
ミオが小さく聞く。
「その時は一段深い」
玲司は答えた。
「でも、見てるなら何かは動く」
自信ではない。
向こうも今は、こちらを読みたがっている。
黒峰だけじゃない。
学校の中の誰か。
外と繋がる誰か。
善意の顔で拾って流す誰かまで含めて。
TRACEの動きが読まれすぎていた。
なら、読ませるものを偽物にすればいい。
準備室の外で、また通知音が鳴る。
今度は一つだけ。
短く、乾いて、すぐ消えた。
全員が顔を上げる。
「……早いな」
レナが言う。
「ええ」
カナデが答えた。
「思った以上に、近くにいる」
玲司は扉の向こうを見たまま、低く言った。
「今日のうちに倉庫を撒く」
「ユラ、違法採掘の下準備」
「カナデ、証人移送の文面」
「ミオ、閲覧窓の監視」
「レナは明日の朝、外を見ろ」
全員が短くうなずく。
誰が敵か。
まだ顔は出ない。
でも、食いつく形だけはもう作った。
玲司は一枚目の紙を手に取った。
違法採掘。
前に潰された現場。
向こうにとっても、こちらにとっても、まだ終わっていない話だ。
だから食いつく。
そう確信できるだけの理由がある。
「明日には分かる」
玲司が言う。
「先に動いたのが、誰か」
準備室の空気が静かに締まる。
ここから先は、疑う段階じゃない。
炙り出す段階だ。
その時、廊下の向こうで誰かが小走りに過ぎた。
足音は短い。
でも、通り過ぎるには少しだけ遅かった。
誰かが聞き耳を立てていた。
それだけで充分だった。
餌はもう、撒かれ始めている。




