第8話 ひとりだけ救えた
小規模崩落として処理されたあと、校内実習はそのまま中断になった。
教員たちは点検不足だの設備劣化だの、もっともらしい言葉を並べていたが、玲司には分かる。
あの床の沈み方は、ただの不良じゃない。負荷の寄せ方が不自然だった。
誰かが雑に、でも意図を持って危うくしていた痕がある。
ただ、今はそこまで掘れない。
玲司は壁際で手袋を外しながら、周囲の様子を見ていた。
大怪我はない。医務室送りもいない。泣いている生徒もほとんどいない。
前の時間軸で起きた“小さな事故”は、形を変えて終わった。
それだけで十分だった。
「ねえ」
声をかけられて、玲司は振り向く。
朝比奈ユラだった。
近くで見ると、やっぱり表情がよく動く顔をしている。今も、驚きと困惑と、少しの警戒が混ざっていた。
「さっきの、なんで分かったの?」
やっぱり来るか、と玲司は思う。
「なんとなく」
「いや、なんとなくでああはならなくない?」
玲司は答えない。
朝比奈は少しだけ眉を寄せ、それから声を落とした。
「……助けてくれたのは、ほんとだよね」
軽い礼じゃなかった。
確かめるみたいな言い方だった。
「大げさだ。近かっただけだし」
「でも、あのままだったらわたし普通に落ちてたと思う」
「結果論だろ」
突き放すように言って、玲司は視線を外す。
ここで話し込むのは駄目だ。まだ何も始まっていない段階で、誰かに興味を持たれるのはまずい。
けれど朝比奈は、そこで引かなかった。
「ふーん。そういう感じなんだ」
どこか軽い口調だった。
怒っているわけでも、怯えているわけでもない。
面白いものを見つけた時みたいな響きが、少しだけ混ざっている。
玲司は嫌な予感がした。
「先生呼んでるぞ」
「ほんとだ。じゃ、あとでまた」
その“あとで”が気になったが、玲司は何も言わない。
朝比奈は友人たちの輪へ戻っていく。さっきまで助けられる側だったのに、もういつもの空気に自然に戻っている。
クラスの中心にいる人間は、こういう切り替えが速い。
だから余計に厄介だ。
玲司は小さく息を吐いた。
目立っていない、はずだ。
校内実習の小事故で、たまたま近くにいただけ。
そう処理できる範囲に収まっている。
それでも胸の奥には、消えないものが残っていた。
ひとりだけでも救えた、という手応え。
前の時間軸では届かなかった先へ、今回は手が届いたという事実。
全部はまだ無理だ。
合同実習も、その先の隠蔽も、本命は何も片付いていない。
それでも、未来がずれることだけは確かめられた。
やり直しは、意味がある。
放課後、玲司はひとりで帰路についた。
夕方の廊下はいつも通りで、部活へ向かう声が響いている。
何も変わっていないように見える。
でも、変わった。
たった一人。
それでも、前の時間軸では助けられなかった人間を救えた。
玲司は昇降口で靴を履き替え、スマホの日付をもう一度見た。
二年前のまま。
けれど未来だけが、少しずれた。
なら次は、もっと大きいものも変えられる。
そう思った直後、端末が短く震えた。
学院からの一斉通知だった。
明日の合同実習について、予定通り実施する、という連絡。
玲司は画面を見たまま立ち止まる。
最初の分岐は作れた。
だが、本命はもう目の前まで来ている。
崩落の日が、また近づいていた。
◇
放課後の空き教室は、思ったより静かだった。
窓際の席に腰かけた朝比奈ユラは、さっきから同じ動画を何度も見返している。
訓練区画がざわついた瞬間、反射で回していたスマホの短い映像だ。
揺れた画面。
誰かの悲鳴。
床が沈む直前、低く落ちた声。
――一歩だけ、こっち。
その直後、自分の足が半歩ずれている。
そして、さっきまで立っていた床が抜けた。
朝比奈は動画を止めた。
「……なんで分かったの?」
誰に聞かせるでもない呟きだった。
画面の中の水城玲司は、いつもの空気みたいなクラスメイトには見えなかった。




