第7話 床に残るひびの声
危険な場所ほど、見た目は普通だ。
訓練区画Bの床もそうだった。
表面に大きな割れはない。色も均一。点検記録を見せられれば、大半の人間は納得する。
だが《痕跡鑑定》で見ると、そこだけ荷重の流れが濁っている。
床材の沈み。
魔力流の偏り。
靴跡の乱れ。
搬送ラックを雑に寄せた車輪の跡。
全部が同じ一点を指していた。
玲司は採集用コンテナを持ったまま、班の流れに混ざる。
遅すぎず、早すぎず。目立たない速度で。
やるべきなのは事故を消すことじゃない。危険域に立つ一人だけを、半歩ずらすことだ。
前方では、朝比奈ユラが友人と軽口を交わしていた。
「そっちの箱、地味に重くない?」
「朝比奈が軽く見えるだけでしょ」
「いやいや、今日のわたしは繊細だから」
「毎日言ってる」
くだらない会話だ。
それくらい、この実習は安全だと思われている。
玲司は朝比奈の足元を見た。
あと数歩で危険域に入る。
直接声をかけるのは早い。
不自然だ。
教員や周囲の視線も拾う。
玲司は自分のコンテナを持ち直すふりをして、足元の固定ピンを靴先で弾いた。
小さな金属音が鳴り、ピンが床を転がっていく。
それはちょうど、朝比奈の進路の手前で止まった。
「あれ、何これ」
朝比奈が反射で足を止める。
しゃがむ。
その動きだと危ない。
玲司はすぐに一歩詰めた。
「触るな」
思ったより強い声が出た。
朝比奈が驚いて振り向く。
その隣の友人も、何事かという顔をする。
周囲の何人かの視線まで集まり、玲司は内心で舌打ちした。
まずい。だが、もう引けない。
「……その床、沈む」
朝比奈はきょとんとした。
友人の方が先に眉をひそめる。
「は?」
玲司は説明しない。
説明している時間がない。
「一歩だけ、こっち」
短く言って、自分の立ち位置を顎で示す。
朝比奈は半信半疑の顔のまま、それでも玲司の声に押されるように半歩ずれた。
次の瞬間、床が落ちた。
派手な崩落じゃない。
足元一枚分が抜ける、短い沈下。
だが、さっきまで朝比奈が立っていた位置なら確実に足を取られていた。
「きゃっ!」
友人が悲鳴を上げる。
周囲が一気にざわつく。
さらに、沈んだ床に引っ張られる形で横の搬送ラックが傾く。
玲司はそちらへ体を入れ、完全に倒れ込む前に進行方向だけを押し変えた。真正面から支えるには重すぎる。だが角度だけずらせば、脚が床を噛んで止まる。
金属が嫌な音を立てて、ラックが途中で止まった。
「離れろ!」
今度は教員が叫ぶ。
生徒たちがようやく後退し、緩かった空気が遅れて緊張へ変わる。
「怪我は?」
「ない、と思う……」
「なんだ今の」
「床、抜けたよな?」
ざわめきの中で、朝比奈だけが玲司を見ていた。
驚いたまま、状況より先に玲司の方を理解しようとしている目だ。
玲司はすぐに視線を切った。
見られすぎるのは良くない。
「水城、お前……」
班の男子が言いかける。
玲司はコンテナを置いて、一歩だけ引いた。
「たまたま近かっただけ」
「たまたまであの声出る?」
「沈みそうだったから」
言い訳としては苦しい。
けれど、深掘りされたくないのは本当だった。
教員たちは実習中止だの設備点検だのと言い始め、現場は小さく混乱した。
大事故にはならない。
記録には設備の一時不具合くらいで残るはずだ。
でも、前とは違う。
玲司は沈んだ床を見た。
あの位置にいたはずの人間が、もうそこにいない。
それだけで未来は確かにずれている。
助けられた。
たった一人でも。
その手応えが遅れて胸に来る。
同時に、別の感覚も残った。
視線。
事故じゃなく、自分の動きの方を見ていた目。
玲司は反射的に周囲を見た。
ざわつく生徒たち。教員。倒れかけたラック。何人かがスマホを手にしているが、事故で慌てて取り出しただけにも見える。
確信は持てない。
だから、今は切る。
玲司は朝比奈の方を二度と見ないまま、教員の指示に従う顔で列の外へ下がった。
未来は少し変わった。
だが、変えたこと自体は、まだ誰にも知られたくなかった。




