第78話 初めての正面接触
笑顔の方が、刃物より遅く効く。
中央棟の裏通路は、祭りの喧騒から半歩だけ外れていた。
表では呼び込みの声が飛んでいるのに、ここだけ温度が違う。
玲司は点検札の下がった扉を二枚通り過ぎ、中央棟裏配線室の手前で足を止めた。
扉は閉まっている。
だが閉め方が妙だった。
鍵はかかっている。
なのに、最近一度開いた痕がある。
ノブの周りだけ、指脂の擦れが新しい。
「先輩、正面から人、来ます」
ミオの小さな声がイヤホンに落ちる。
「何人」
「一人」
「足音、迷ってません」
玲司は扉から離れ、壁際へ半歩ずれた。
逃げる位置じゃない。
通りかかった学生に見える位置だ。
すぐに、革靴の音が曲がり角から現れた。
年上の男だった。
四十代前後。
穏やかな顔。
高級なスーツ。
胸元には東雲設備管理の臨時名札が下がっている。
だが、その身なりは設備業者というより、もっと別の現場を仕切る側のものだった。
男は玲司を見ると、少しだけ困ったように笑った。
「ごめんね。こっち、立ち入り制限がかかってるんだ」
「生徒さんは表へ戻った方がいい」
言い方は丁寧だった。
学校をよく知っている大人の言い方でもある。
玲司は壁にもたれないまま返す。
「学園祭の実行補助です」
「こっちの通路も担当範囲なんで」
「ああ、そうなんだ」
男はそこで一拍置いた。
ただの会話なら、そのまま名乗るか、退くか、風紀委員を呼ぶかだ。
でも男はどれもしない。
玲司の許可証へ一度だけ目を落とし、それから顔を見る。
「水城くん、だよね」
名札も自己紹介もしていない相手が、名前を知っている。
玲司は表情を変えなかった。
「そっちは」
「東雲設備管理」
男は笑顔のまま答えた。
「今日だけ学院に入ってる、地味なお仕事の人」
「学園祭って、表より裏の方が大変だからね」
その言い回しに、玲司は内心だけで反応する。
現場を知るふりの言葉だ。
でも、汗の混ざらない声だった。
「設備点検なら、担当表と名簿が必要ですよね」
玲司は短く言う。
「今朝の受付、人数合ってなかったけど」
男の目がほんの少しだけ細くなった。
笑顔は崩れない。
崩さないまま、会話の中身だけ変える。
「よく見てる」
「学生さんにしては、裏導線の方へ興味が深いんだね」
「祭りなんで」
「事故る場所くらいは見ます」
「へえ」
その一言が、少しだけ重かった。
イヤホン越しにユラが小さく言う。
『うわ、やだ』
『その人、設備の人じゃなくて“会話の人”だ』
カナデも低く入る。
『玲司、名札の写真、取れたわ』
『東雲のフォーマットじゃない。外部来賓の簡易札を流用してる』
男は玲司の沈黙を、嫌なほど自然に待っていた。
焦らせもしない。
詰めもしない。
ただ、相手がどこまで返すかを見る待ち方だ。
「水城くん」
男が穏やかに言う。
「君、今日ずいぶん忙しそうだね」
「朝から裏ばかり見てる」
「学園祭なんで」
「そうだね」
男はうなずく。
「でも、普通の生徒はもう少し祭りを楽しむ」
「裏で何が動いてるかより、表で何が映えるかの方を気にする子が多い」
ユラが聞いたら文句を言いそうな台詞だった。
けれど今は、その軽さが逆に嫌だった。
「あなたも、設備の人にしては裏通路に慣れてる」
玲司が返す。
男は少しだけ笑った。
「仕事柄ね」
「入っていい場所と、入らない方がいい場所の見分けには慣れてる」
「その配線室、入っていい場所ですか」
今度は、男の方が一瞬だけ黙った。
長くはない。
ただ、“学生相手の会話”としては十分長い間だった。
「君、面白いね」
そう言った時点で、もう答えになっていた。
設備点検の人間は、生徒を面白いとは言わない。
邪魔か、危ないか、どちらかで処理する。
こいつは違う。
観察対象として見ている。
「名前、聞いても?」
玲司が言うと、男は胸元の名札に一度だけ触れた。
それから、名札ではない方の名前を置いた。
「八代宗吾」
「黒峰クランの人間だと答えた方が、君には早いかな」
『黒峰』
ユラの声が低くなる。
『正面から来た』
カナデも即座に返す。
『早すぎる』
『しかも学校の中で』
八代は、玲司が動揺しないのを見て、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「やっぱり、ただの学生扱いは失礼だったかな」
「学院って、たまに面白い子がいる」
「黒峰が学園祭の設備点検に?」
「協賛先が困っていたから、少し手を貸してるだけだよ」
「社会って、名前より手続きを通す方が簡単なことがあるから」
黒峰が正面から名乗らない理由。
スポンサー企業を隠れ蓑にする理由。
どちらもこの一言で足りていた。
玲司は壁際から動かない。
「手続きにしては、名簿が雑だ」
「雑に見える程度にしてるんだよ」
八代はさらりと言った。
「完璧だと、逆に目立つこともある」
その瞬間、玲司の胸の奥で何かが小さく引っかかった。
完璧だと逆に目立つ。
その言い方。
その間の置き方。
どこかで聞いた気がした。
でも、まだ思い出し切れない。
八代はそれ以上踏み込まない。
配線室の扉にも触れない。
ただ、玲司の横を通り過ぎる直前にだけ、少し声を落とした。
「ひとつ忠告しておくよ」
玲司は返さない。
返さないまま、次の言葉を待つ。
八代の声は静かだった。
静かなまま、温度だけが落ちる。
「余計なことを知る学生は長生きできない」
脅しの形をしているのに、怒鳴り声より整っていた。
だから余計に残る。
八代はそれだけ言って歩き出す。
革靴の音は一定のままだ。
玲司は振り返らない。
振り返らないまま、その声だけを頭の奥で反芻した。
どこかで聞いた。
前にも。
もっと、最悪な場所で。
イヤホンの向こうで、ミオが小さく言う。
「……先輩」
「分かってる」
玲司は短く返す。
でも本当は、まだ“分かってる”の中身が揃っていなかった。
黒峰。
八代宗吾。
そして、あの声。
今の接触だけで終わる相手じゃない。
そう分かるには十分だった。
しかも、向こうはもう、こちらを“ただの学生”から外して見ている。




