第75話 思わずかばった手
反射は、隠すための訓練より速い。
学園祭前日。
中央棟搬入口は、朝から人と荷物で詰まっていた。
前日まで裏方を笑っていた連中まで、今日はさすがに働いている。
模擬店の消耗品、展示の仕上げ材、校庭テントの予備部品。
通路を曲がるたびに誰かが「それどこ行き?」「とりあえず端寄せて」と叫んでいた。
玲司は備品棚の前で、展示用資材箱の番号を見直していた。
昨日から気になっていた棚だ。
脚の噛み。
上段の軽金属フレーム。
その手前に置かれた細長い支柱。
前へ滑れば、人の肩口か頭へ落ちる角度。
しかも今日の当番表は、きれいにその前へ玲司を置いている。
偶然なら、出来すぎていた。
少し離れた作業机では、ユラが友人たちと装飾用のリボンを切っていた。
通路を一つ挟んだ向こう側だ。
いつも通り明るく喋っていて、こっちを見ているようには見えない。
「水城、それ三組の布資材な」
担任が奥から言う。
「終わったら次、看板も頼む」
「分かりました」
返事をして箱を持ち上げる。
少し右へずれれば通路は空く。
その時、棚の上段で小さな音が鳴った。
ぱき、というより、浅く外れる乾いた音。
玲司の視界で順番が走る。
先に軽金属フレーム。
次に細い支柱。
最後に、手前へ無理に置かれた箱。
避けるだけなら間に合う。
だが後ろには一年の女子がいる。
横へ切れば巻き込む。
玲司が箱を手放して体をずらそうとした、その前だった。
「玲司!」
声が飛ぶ。
朝比奈ユラだった。
彼女は通路を一つ挟んだ向こう側にいた。
さっきまでハサミを持っていた位置だ。
そこから、ほとんど迷いなく棚二つ分を詰める。
玲司の肩を強く引き、自分の身体を半歩前へ差し込んだ。
次の瞬間、上段のフレームが落ちる。
玲司の肩先をかすめるはずだった角が、ユラの腕の外側へ当たって鈍く跳ねた。
金属音。
短い悲鳴。
箱の崩れる音。
「危なっ!」
「朝比奈!?」
「え、今……」
棚の前へ細い支柱が転がり、紙飾りの入った箱が割れて中身が散る。
さっきまでユラがいた机には、切りかけのリボンとハサミが置かれたままだった。
玲司は引かれた勢いのまま壁へ手をつき、すぐにユラの腕を見る。
骨は大丈夫そうだ。
だが当たりは浅くない。
「朝比奈」
呼んだ瞬間、ユラの目が揺れた。
しまった、という顔だった。
名前。
速さ。
距離。
全部が少しだけ早すぎた。
「っ、近かっただけ!」
ユラはすぐに声を戻す。
「ていうか水城、あんた反応遅くない?」
「そこ地味なくせに危なっかしいんだけど」
無理やり笑いへ寄せる。
うまいやり方だ。
でも今日ばかりは、完全には切れなかった。
近くの女子が、落ちた紙飾りを拾いながら小さく言う。
「今、朝比奈さん向こうにいなかった?」
「ていうか名前……」
隣の男子が声を潜める。
「下の名前で呼んだよな」
「水城とそんな感じだっけ」
一ノ瀬も支柱を拾いながら眉を寄せた。
「いや、それより反応やばくない?」
「見えてから入るまで早すぎたろ」
「机のとこから一気に来てたし」
その声の上から、カナデが通路を割って入ってきた。
「通路、空けて」
低いがよく通る声だった。
「怪我人の確認が先。見物はあとにして」
風紀委員の正論で、人が半歩引く。
カナデはユラの腕を一瞥し、それから玲司を見ないまま告げた。
「水城くん、そこを離れて」
「落下位置の確認をするから」
命令口調だ。
でもその一言で、玲司は事故の中心から自然に外される。
「朝比奈さん、腕、動く?」
カナデが続ける。
「全然へーき」
ユラは即答した。
「ちょっと当たっただけだし」
「痩せ我慢はあと」
カナデは床のフレームと棚脚を見た。
「誰がこの積み方にしたの」
そこへレナも来る。
転がった支柱を片足で止め、棚を前から押してぐらつきを確かめた。
「脚、噛んでんじゃねえか」
レナの声が低くなる。
「誰だ、こんな状態で上積んだの」
実行委の男子が青ざめる。
「え、昨日の番号合わせの時に少し動かして……」
「でも倒れるほどじゃ」
「倒れたろ、今」
レナは切り捨てた。
「笑えねえぞ」
周囲の意識が、少しずつ棚へ移る。
それ自体は助かった。
だが、完全には消しきれない。
「でも朝比奈、よく間に合ったな」
誰かがぽつりと言う。
「ほんとそれ」
別の声が続く。
「水城の位置、見てたってことだよな」
「たまたまでしょ」
「たまたまにしては、呼び方近くなかった?」
小さい。
騒ぎの中に沈む程度の声量だ。
それでも玲司にもユラにも、十分届いた。
ユラは振り返らない。
ただ、わざと少し大きめの声で言った。
「もー、だから危ないって空気出てたじゃん」
「なんか嫌な予感したし」
「そんな空気あったか?」
玲司が短く返す。
「今あった」
ユラは即答する。
「はい成立」
軽口で蓋をする。
一ノ瀬たちは苦笑して流す。
だが蓋の下の温度は、さっきまでと違っていた。
昼休み、保健室の前。
湿布を貼り終えたユラは、椅子に座ったまま天井を見ていた。
「やったなー、これ」
「無茶すんなよ」
玲司が低く言うと、ユラは湿布の端を指で押さえたまま顔を向ける。
「そっちこそ」
「避ける前に後ろ見たでしょ」
図星だった。
玲司は否定しない。
「分かるよ、その顔」
ユラは小さく笑う。
「人巻き込みたくなかったやつ」
「……だからって、お前が出るな」
「出るでしょ、あれは」
即答だった。
戸口にもたれていたレナが、短く言う。
「今日は誤魔化せた」
「でも二回目はないと思え」
「そうね」
カナデも続ける。
「位置も呼び方も速さも見られた」
「一つなら流せても、重なると残るわ」
ユラは笑いを少しだけ落とした。
「分かってる」
「分かってるけど、無理な時あるじゃん」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
無理な時がある。
それが綻びの本質だった。
守る手は本物だ。
だから止めにくい。
でも本物だからこそ、見られた時に重い。
玲司は保健室の窓の外を見る。
校庭ではテントが立ち、校舎には案内看板が増えていく。
教師も生徒も、明日にはこの小事故を笑って忘れるかもしれない。
けれど、全員じゃない。
その夜、学内掲示板に短い書き込みが一つ上がった。
――二年の搬入口で朝比奈さんが水城を助けてた
――あの速さ、前から見てたってことだよな
――しかも、下の名前で呼んでなかった?




