第74話 素知らぬ顔の距離感
無関係のふりは、近づかないことより難しい。
学園祭準備二日目。
中央棟搬入口は、昨日より明らかに人が多かった。
朝から模擬店用の消耗品が運び込まれ、展示パネルの順番が変わり、三年の実行委が通るたびに空気だけ忙しくなる。
祭り前の浮つきが増えるほど、細い通路は狭く感じた。
玲司は台車を押しながら、物より人を見ていた。
誰がどこに立つか。
どのタイミングで声をかけるか。
誰がどの事故を先に見ているか。
近くない。
だから安全、ではない。
遠さを演じるための手間が、むしろ目立つことがある。
「水城、それ持てるか?」
クラスメイトの一ノ瀬が、展示用の軽量パネルを指した。
玲司が手をかける前に、少し離れた場所からユラの声が飛ぶ。
「それ、上だけ外れるやつだよ」
「先に留め具見た方がいいって」
一ノ瀬が手を止める。
「まじ?」
「朝比奈、そんなの分かるの?」
「さっき別の班がやらかしてた」
ユラは友人と並んだまま答えた。
「映えないけど学びはあるよね、裏方」
笑いが起きる。
そのまま会話は流れる。
玲司が留め具を見れば、たしかに片側だけ浅かった。
そのまま運べば角が抜ける。
「助かった」
一ノ瀬が言う。
「朝比奈、今日だけ裏方ガチ勢じゃん」
「今日だけって何」
「明日も働く予定なんだけど」
ユラは軽く返しながら、やはり玲司を見ない。
見ないまま助ける。
その不自然さは、知っている側にだけ分かる種類の綻びだった。
昼前には別の綻びが出た。
搬入口から体育館側へ抜ける細い通路で、玲司が台車を一時的に寄せた時だ。
「水城くん」
カナデが、記録板を抱えたまま足を止めた。
「そこ、置き方が逆よ」
「その向きだと三分後に長材が通れない」
「……悪い」
「謝る前に直して」
カナデは表情を変えない。
「通路は人の方が先。物を優先しないで」
近くにいた実行委の男子が苦笑した。
「冬月、今日も厳しー」
「水城もよく毎回捕まるな」
「危ない配置を見逃す方が面倒でしょう」
カナデは淡々と返す。
「私は風紀委員として見てるだけです」
その言い方なら、周囲も深く取らない。
だが玲司には分かった。
カナデは台車の向きそのものより、その先に来る人の流れを先に読んでいた。
午後、階段脇の資材棚前ではレナだった。
玲司が脚立を取ろうと手を伸ばす。
その上段に積まれた軽い金属フレームが、わずかに前へ滑った。
落ちるほどではない。
でも、頭上へ腕を伸ばすには嫌な角度だ。
「それ、後ろだ」
横から伸びた手が、玲司の手首を軽く払う。
レナが代わりに後方の脚立を乱暴に引き抜いた。
上段の重心がずれかけて、すぐ戻る。
「先輩、今の危なくないですか」
一年が言う。
「こいつが鈍いだけ」
レナは鼻を鳴らした。
「前ばっか見て上見ねえからだろ」
「ひど」
一年が笑う。
それで終わる。
でも玲司は、レナが脚立ではなくフレームの滑りを先に見ていたことを知っている。
庇う。
止める。
気づく。
その全部が、四人とも少しずつ早い。
放課後、玲司は時間を七分ずらして中央棟の裏階段へ向かった。
校舎の死角になる踊り場。
ここは表の通路から角度がつく。
しかも今日は、ミオが一つ上の踊り場で本を開いたまま見張っている。
先にいたのはユラだった。
壁に寄りかかり、わざとスマホをいじっている。
「ねえ、今日ちょっと多くない?」
「何が」
「みんなの“ついで”」
ユラは画面から目を上げない。
「わたしもやったし、冬月さんもやってたし、レナ先輩とか分かりやすすぎ」
「これ、守れてるようで守れてなくない?」
「分かってる」
玲司が短く返したところへ、さらに三分ずらしてカナデが来た。
最後にレナが一段下から顔を出す。
「なら調整するしかないわ」
カナデが言う。
「近づかないだけでは足りない」
「助け方まで薄くする必要がある」
「薄くするって何」
ユラが眉をひそめる。
「助けるなって話?」
「違う」
玲司は即答した。
「助ける前に、周りの視線を切る」
「位置を変える」
「理由を先に作る」
「反射だけで動くな」
最後の一言で、ユラが少しだけ黙った。
「……それ、今日のわたしに言ってる?」
「全員に言ってる」
玲司は答える。
「学校は現場より狭い。目撃の密度が高い」
一つ上の踊り場から、ミオが小さく落とす。
「今は人、来てません」
「でも、二分後に掃除当番が通ります」
「十分ね」
カナデが頷く。
「今のうちに決める」
レナが壁へ肩を預けた。
「面倒くせえな」
「面倒だからやるのよ」
カナデが言う。
「今日は三回とも、“たまたま気づいた”で押し切れた」
「でも同じ相手に偏ると、たまたまじゃなくなる」
ユラが唇を尖らせる。
「分かってるけどさ。見えたら動くでしょ、普通」
「普通じゃないから困ってる」
玲司は低く言った。
「俺たちは学校で、普通より少しだけ他人でいないといけない」
軽口の消えた沈黙が落ちる。
ミオがまた静かに言う。
「……昨日から、掲示板の短文が少し増えてます」
「“中央棟の搬入口、やたら同じ顔ぶれがいる”って」
「名前はまだ出てません」
ユラが顔をしかめる。
「うわ、もうそこ見られてる?」
「直接じゃないです」
ミオは首を振る。
「でも“何か偏ってる”くらいは見られてます」
玲司は窓越しに資材置き場の方を見た。
昨日から気になっている備品棚。
脚の噛み。
養生位置。
上段へ寄せられた軽金属。
「……明日、あの棚の前に寄るな」
三人の視線がそろう。
「何かあるの?」
ユラが聞く。
「まだ形になってない」
玲司は答える。
「でも嫌な置き方だ」
「直すなら今日のうちだけど、理由が弱い」
「変に触る方が目立つ」
「倒れる可能性は?」
カナデが問う。
「ある」
玲司は短く言う。
「しかも、人が多い日に限って起きるタイプだ」
レナが舌打ちした。
「だったら見張るしかねえな」
「見張る。でも露骨には寄るな」
玲司は階段を降りる前に言った。
「明日は“先に気づく”より“気づいても自然に切る”を優先する」
その言葉を残して散った。
最後に残ったミオが、踊り場の影から小さく告げる。
「……明日の当番表、さっき更新されてました」
「その棚の前、水城先輩の名前が入ってます」
玲司は振り返らないまま足を止めた。
見えているのに、学校では切りにくい。
それがこの場所の厄介さだった。




