第61話 冷たい優等生
噂を消すいちばん早い方法は、別の印象で上書きすることだ。
翌朝の蒼栄学院は、拍子抜けするくらいいつも通りだった。
誰かが提出物を忘れて騒いでいる。
誰かが実技の小テストを嫌がっている。
窓際では朝比奈ユラが、いつもの輪の中心で笑っていた。
その少し離れた場所で、冬月カナデが配布物を揃えている。
乱れない髪。ずれない制服。風紀委員の腕章。
昨日の夜、倉庫で証人を守るために動いていた人間と、同じには見えない。
玲司は自分の席で、何も知らない顔をしていた。
それでいい。
そういう顔でいなければならない。
ホームルームの途中、担任が言う。
「風紀委員から連絡だ。実習資料の持ち出し申請、今週は記入漏れが多いらしい。使ってるやつは気をつけろ」
その直後だった。
「水城くん」
教室の後方から、まっすぐ通る声が落ちた。
玲司が顔を上げると、カナデがこちらを見ていた。
冷たい、というより正確な顔だ。
私情を混ぜない優等生の顔。
「あなた、昨日も申請書の書式を一つ間違えていたわ」
「放課後、風紀委員室へ来て」
教室が少しだけざわつく。
「また?」
「水城、風紀にマークされすぎじゃね」
「何やったんだよ」
軽い笑いだ。
その程度で済むなら、むしろ都合がいい。
玲司は面倒そうに眉を寄せた。
「……分かった」
「最初からそう言えばいいのよ」
カナデはそれだけ言って、前へ向き直る。
会話は短い。
指先も触れない。
必要なことだけを切って終わらせる。
完璧だった。
昼休み。
玲司は言われた通り、風紀委員室へ向かった。
廊下ですれ違った男子が笑う。
「水城、また呼び出し?」
「今度は何やらかしたんだよ」
「別に」
「書類ミスだろ」
投げやりに返すと、向こうはもう興味をなくした。
ただの地味な生徒が、風紀委員に細かく怒られている。
周囲の認識は、その程度に収まっている。
風紀委員室の扉を開ける。
中には誰もいなかった。
机の上に、訂正用の書類が一枚。
その奥で、カナデが端末を閉じる。
「遅いわね」
「指定時間ぴったりだろ」
「そういう言い方が、無駄に反感を買うのよ」
学校の顔のまま言う。
だが声量は落ちていた。
玲司は扉を閉める。
「何だ」
「校内の目が増えている」
カナデは即座に本題へ入った。
「昨日の件のあと、風紀委員の閲覧権限で見られる範囲だけでも不自然な照会が三件」
「資料室の利用履歴。実習区画への立ち入り記録。それから、あなたの校内移動」
玲司の目が少しだけ細くなる。
「誰が見た」
「そこまでは切れていないわ」
「でも、少なくとも一件は風紀委員の端末じゃない」
「生徒会側の仮権限を経由してる」
早い。
思っていたより、ずっと。
「だから距離を上げたのか」
「ええ」
カナデは頷いた。
「あなたに厳しい風紀委員、という印象を先に置いておけば、少なくとも“裏で繋がっている”線は薄くなる」
「冷たく見える方が、今は安全よ」
玲司は机の上の訂正書類を見た。
本当に記入ミスはあった。
だから呼び出し自体は自然だ。
「朝比奈は」
「今日は近づかせない方がいいわね」
「神谷さんも同じ」
名前を出したあとで、カナデは一瞬だけ視線を落とした。
「……少しやりすぎた自覚はあるわ」
「でも、ここで甘くした方が危ない」
玲司は短く息を吐く。
「分かってる」
「分かっているならいいの」
会話はそこで切れた。
長く話す場所じゃない。
カナデが訂正書類を差し出す。
触れない距離。
昨日までと同じだ。
「あと、これは本当に出し直して」
「私用で呼びつけたと思われる方が面倒だわ」
「はいはい、風紀委員さま」
玲司が受け取ると、カナデはわずかに眉を寄せた。
「そういう軽口は、朝比奈さんだけにしておきなさい」
「してない」
「しているわよ」
その返しだけが、ほんの少しだけ学校の外の温度だった。
風紀委員室を出る。
廊下の角を曲がると、ちょうど向こうからユラたちが来た。
友人に囲まれ、いつも通り明るい。
だが、玲司の顔を見た瞬間だけ、彼女の目が少しだけ鋭くなる。
「え、水城じゃん」
「また怒られてたの?」
友人の一人が笑い混じりに言う。
玲司は肩をすくめた。
「書類」
「うわ、地味」
「放っとけ」
ユラはその会話に乗らなかった。
ただ、通り過ぎざまに一度もこちらを見ないまま、友人へ明るい声を返す。
「ほら、次移動だって」
「遅れると今度はわたしたちが怒られるし」
それだけ。
いつも通りの人気者のまま、玲司の横を通り過ぎる。
少し冷たすぎるくらいに。
その日の放課後、玲司は一人で旧校舎側へ向かった。
時間をずらし、経路を変え、いつもより一つ手前の階段で止まる。
壁際に立っていたユラが、最初に口を開いた。
「……冬月さん、今日ちょっと本気すぎなかった?」
軽い声に聞こえるようで、軽くなかった。
玲司は答える前に、階段の上を見る。
まだ誰も来ていない。
「必要だった」
「分かるけどさ」
ユラは腕を組む。
「分かるのと、見てて嫌なのは別なんだけど」
その言葉の直後、上の踊り場から、静かな足音が下りてきた。
冬月カナデが、学校の顔のまま現れる。
そして玲司を見るなり、周囲にも聞こえる程度の声で言った。
「水城くん。放課後の校舎裏うろつきは感心しないわね」
階段の向こうを通った一年生が、何だ何だと少しだけこちらを見る。
玲司は面倒そうに舌打ちしそうになるのを抑えた。
ここでも続けるのか。
そう思った瞬間、カナデは視線だけで続きを告げた。
まだ終わっていない。
そういう目だった。




