第54話 あの日の救助
思い出したのは、顔じゃなかった。
順番だ。
去年の春。
市営側の搬送路。
崩れ方の順。
人が詰まる位置。
遅れて来る正規の灯。
レナの言葉を聞いた瞬間、玲司の頭の奥で、その現場だけが古い埃を払うみたいに浮いた。
当時の自分は、まだTRACEなんて名も持っていない。
一人で動いて、一人で痕を拾って、一人で終わらせる気でいた頃だ。
現場は小さかった。
だから、余計に質が悪かった。
市営管理の搬送路。
資材運搬の一部が止まり、簡易封鎖だけで流していた区画。
一般利用者は少ない。
そのぶん、事故が起きても大ごとになりにくい。
玲司が異変に気づいたのは、管理の警報より先だった。
壁の粉が細い。
支えの削れ方が一方向に揃っている。
床の沈みは浅いのに、逃がす導線だけが妙に狭い。
自然に悪くなった現場じゃない。
閉じるために雑に持たせている現場だった。
その時点で、もう人が中にいることも見えていた。
足跡は五。
うち二つは搬送慣れした大人。
残り三つは若い。
一人は重心が前に強い。前へ立つやつの歩き方だ。
玲司は正規導線を使わなかった。
使えば遅れる。
古い保守脇道から入って、崩れの先へ回り込んだ。
中は、予想より悪かった。
完全に落ちたわけじゃない。
だから余計に逃げ遅れる。
半端に傾いた搬送ラック。
壁際へ寄せられた資材箱。
狭い通路。
奥で怯えて動けない二人。
そして、その手前に立っていたのがレナだった。
今より少し短い髪。
顔には粉。
左腕に擦り傷。
それでも一番前にいる。
「下がってろ!」
当時のレナは、玲司を見た瞬間にそう言った。
自分が危ない側なのに、まず他人を外へやろうとする声だった。
「下がるのはそっちだ」
玲司は短く返した。
「右が落ちる。三歩下がれ。そいつらを先に動かせ」
レナは一瞬だけ眉を寄せた。
見知らぬ相手に命令された顔だ。
だが、次の軋みで理解したのだろう。
迷いは長くなかった。
「おい、立て。歩ける方からだ」
玲司は崩れかけの支えを見る。
まだ持つ。
ただし長くはない。
二人の負傷者は高校生くらいだった。
おそらく外部合同の実習帰りか、搬送補助に巻き込まれた学生だ。
一人は足首。
もう一人は呼吸が浅い。
正規救助はまだ入っていない。
入っていたなら、こんな半端な位置に人が残るはずがない。
「そっちの女子、壁側。男の方はレナ先輩が肩貸せ」
「何であたしの名前」
「知ってるだけだ」
「は?」
「今はいい。前見ろ」
その頃の玲司は、今よりずっと言葉が荒かった。
余裕がなかったとも言える。
レナは食い下がらない。
でも従うべき順だけは外さなかった。
「お前、何者だ」
「今それ聞くか」
「聞くだろ普通」
「普通の現場じゃない」
言い返した直後、右の支えが鳴る。
「今だ。動かせ」
レナが反射で一人を抱え、もう一人へ肩を貸す。
玲司は崩れの連鎖位置へ立ち、足元の資材片を蹴って角度を変えた。
倒すためじゃない。
落ちる向きをずらすためだ。
それだけで、一秒持つ。
一秒あれば、人は通る。
「先輩、前へ」
「お前は」
「あとで行く」
「一人で持つな、馬鹿」
その言い方だけ、今と同じだった。
結局、レナは最後まで一人を支えたまま、途中で一度だけ振り返った。
あの時の視線を、玲司は今になって思い出す。
怪しんでいた。
でも、見捨てられない側の目じゃなかった。
一緒に持つ気の目だった。
三人を細い脇道へ通したあと、玲司も下がる。
その直後、支えが落ちた。
ぎりぎりだった。
外へ抜ける頃、遠くで正規の灯が見えた。
白いライト。
整った声。
遅れて来る秩序の顔。
その中に、黒峰のエンブレムがあった。
玲司はそこで初めて、胸の奥に嫌なものが落ちたのを覚えている。
間に合ったから安心したんじゃない。
間に合ったあとに、誰が来たかを見て冷えた。
外でレナは荒く息を吐きながら、振り返った。
「おい!」
呼ばれたが、玲司は立ち止まらなかった。
あの頃は、名前を残す気がなかった。
「待てよ!」
「待てない」
「何でだ」
「遅いやつが来たからだ」
それだけ言って離れた。
そして、その予感は外れなかった。
あとから来た黒峰は、救助の顔で現場へ入り、
最初に崩れた場所ではなく、玲司が通した脇道の方を先に見た。
助かった人数じゃない。
どこを通ったかを見る目だった。
そこまで思い出したところで、玲司は今の準備室へ意識を戻した。
レナは壁に背を預け、腕を組んでいる。
ユラもカナデも、何も挟まない。
ミオだけが静かに玲司を見ていた。
「……思い出した」
玲司が言うと、レナが目を細める。
「何を」
「先にいたやつだ」
空気が少しだけ止まる。
「先輩を外へ出したの、俺だ」
レナはすぐには答えなかった。
驚いた顔もしない。
その代わり、少しだけ息を吐いた。
「やっぱりな」
「気づいてたのか」
「確証はなかった」
レナは視線をずらさない。
「でも、あの日の動きと、今のあんたの指示、似すぎてる」
ユラが小さく口を開く。
「うわ……それ、先輩の中でずっと繋がってたやつ?」
「たぶんな」
レナの声は低かった。
「あの時も、先にいたやつは名前を残さなかった」
「そのあとで、正義の顔した連中が全部持ってった」
玲司は拳を握らない。
握るより先に、次を見る。
「あの現場、黒峰は偶然じゃない」
「分かってる」
レナは即答した。
「だから嫌ってんだよ」
功績を持っていったからじゃない。
もっと別の、嫌な確信がそこには残っていた。
あの日の現場は、遅れた救助じゃない。
誰かが、そうなる形へ寄せていた。
その答えを掘るなら、次は現場そのものを見直す必要があった。




