第52話 必要悪の噂
感謝は、放っておくとすぐ別の名前へ変わる。
翌朝の教室は、いつも通りだった。
担任の声。
眠そうな生徒。
窓際の笑い。
後ろから回ってくるプリント。
消し忘れた板書を見て、誰かが「あ、昨日のままだ」と笑う。
何も変わらない。
変わらないふりをしている。
「水城、それ後ろ」
「……はい」
前から回された束を、玲司はそのまま後ろへ流す。
一秒も止まらない。
目立たない。
こういう時だけ、学校で空気みたいに生きてきたのが役に立つ。
少し離れた席で、ユラは友人たちに囲まれていた。
「昨日の動画見た?」
「影の救助班ってやつ?」
「四人助かったらしい」
「違法じゃないの?」
「でも管理より先に来たんでしょ」
ユラは肩をすくめるだけだ。
「へえ。都市伝説みたい」
軽い。
軽いまま流す。
でも、玲司はその言い方の奥で、ちゃんと話題を止めたのが分かった。
窓際ではカナデが掲示物の歪みを直している。
誰かが「真面目」と言って笑って、カナデは冷たい顔のまま「曲がっていたから直しただけよ」と返した。
距離は遠い。
遠いまま、不自然じゃない。
ミオは図書委員の連絡を持って通り過ぎる。
玲司の机の横で、一瞬も止まらない。
「返却期限、今日の本があります」
ただの業務連絡。
ただ、それだけだ。
学校は監視空間じゃない。
演技空間だ。
無関係を装い、距離を演じ、普通の顔で火種の上を歩く場所。
だからこそ、違和感は小さい方が目立つ。
「そういえばさ」
後ろの席から、別の声が飛ぶ。
「学院の外でも最近、変なのいるらしいよな。管理より先に来るやつ」
「必要悪ってやつ?」
その言葉に、玲司の手だけが一瞬止まる。
ほんの一拍。
すぐにプリントを整える動きへ戻したが、耳には残った。
授業が始まる直前、レナが通りがかりに玲司の机を軽く叩いた。
「あんた、ぼーっとすんな」
「してない」
「ならいい」
雑なやり取り。
他人が見れば、それだけだ。
でも今日のレナは、言葉の割に目が少し硬かった。
放課後、準備室。
最初に口を開いたのはミオだった。
「言い方、増えてます」
「どんな」
玲司が聞くと、ミオは端末を見たまま答えた。
「“影の救助班”」
「“無許可救助屋”」
「“先に来るやつら”」
「それと……“必要悪”」
部屋が少し静かになった。
ユラが先に反応する。
「うわ。最悪な字面」
「でも広がってます」
ミオは淡々としていた。
「否定だけでも賞賛だけでもないです。“制度の外だけど、現場では必要”って意味で使われてます」
カナデが腕を組む。
「厄介ね」
「嫌い?」
ユラが聞く。
「好き嫌いの話じゃないわ。必要だと見なされた瞬間、次は管理したい側が出る」
玲司も同意する。
「好かれるより先に、利用される危険が来る」
助けたから感謝される。
映像を出したから理解される。
そんな単純な話じゃない。
必要と呼ばれたものは、次に囲い込まれる。
都合よく使いたがられる。
責任だけ押しつけられる。
「管理側は?」
玲司が聞く。
ミオがすぐ答える。
「表向きの訂正は出してません。でも、救助時刻には触れなくなりました」
「映像が刺さったな」
カナデが言う。
「少なくとも、“全部こちらの処理でした”とは言えない」
ユラが少しだけ肩を上げる。
「じゃあ今回は勝ち?」
玲司は首を横に振った。
「違う。押し返しただけだ」
「厳し」
「甘く見る方が危ない」
それも本音だった。
そこで、ずっと黙っていたレナが壁から背を離した。
珍しい。
普段ならもう少し早く切る。
「……似てる」
「何が」
玲司が問う。
「昨日の現場も、そのあとの反応も」
ユラの軽さが少し落ちる。
「先輩、前にもあったの?」
レナはすぐには答えない。
その代わり、ミオの端末に表示された“必要悪”の文字列を見ていた。
「助けたのに、名前は出ない」
「遅れたやつが、あとから正しい顔して来る」
「現場にいたやつだけが、先に来た影を覚えてる」
短く区切る。
レナらしい話し方だった。
「……前も、そうだった」
玲司は目を細める。
「黒峰か」
レナはそこで、はっきりうなずいた。
「たぶん、もっと前から」
「たぶんって?」
ユラが聞く。
「証拠はまだ薄い」
レナの声は低かった。
「でも、あたしがあいつら嫌ってる理由、それだよ」
準備室が静まる。
玲司は急かさない。
こういう話は、無理に引くと崩れる。
カナデも黙って待った。
ミオは端末を閉じる。
ユラも、もう茶化さない。
レナは視線を落としたまま続ける。
「前に一回、救助があった」
「ちゃんと助かったやつもいた」
「でも功績は、あとから入ってきた側に持ってかれた」
その言い方だけで十分重い。
「しかも、現場を壊したやつまで曖昧になった」
玲司の中で、嫌な線が一本つながる。
功績の上書き。
現場の改ざん。
遅れて来た正義の顔。
黒峰がやりそうなことだった。
いや、もう“やりそう”では足りない。
「レナ」
玲司が呼ぶ。
「その話、どこまで覚えてる」
レナは少しだけ笑った。
笑ったというより、吐き出したに近い。
「忘れられるわけないだろ」
その一言で、部屋の温度が変わる。
ユラが小さく息を吐く。
「……次、先輩の回だね」
誰に向けた言葉かは曖昧だった。
でも全員に通じた。
必要悪の噂は広がっている。
TRACEは現場で知られ始めている。
その一方で、レナだけは別の場所を見ていた。
今の噂の先じゃない。
もっと前の、まだ名前もついていなかった傷の方を。
帰る前、玲司は机の上の端末を閉じた。
画面にはまだ“必要悪”の文字が残っている。
その呼び名は、たぶんこれからもしばらく付いて回る。
でも、その裏で掘るべきものはもう一つあった。
頼れる先輩の雑な言い方。
前に立つ時の迷いのなさ。
黒峰の名が出た時だけ、少しだけ変わる目。
その理由を、玲司はまだ全部知らない。
準備室の扉を開ける直前、レナが背中越しに言った。
「あの日も、黒峰はあとから来た」
玲司は足を止める。
「正義の顔でな」
それだけ残して、レナは先に部屋を出た。
頼れる先輩の背中は、いつも通り真っ直ぐだった。
でも今日だけは、その奥にまだ聞いていない現場があるのだと、はっきり分かった。




