第12話 黙っててあげる
「意味が分からない」
玲司の声は低かった。
旧校舎脇の空気は静かだ。
遠くの運動部の声だけが薄く響く。
その静けさの中で、ユラは妙に落ち着いていた。
「表には出さないって言ってるじゃん」
「持ってる時点で同じだ」
「同じじゃないよ」
「同じだ」
言い切ると、ユラは少しだけむっとした顔をした。
けれどすぐ崩す。
「玲司ってほんと極端」
「お前が甘い」
「甘いかどうか、まだ決めてない」
その返し方に、玲司はわずかに眉を寄せた。
「なんで残す」
「保険」
「誰に対する」
「今の玲司に対する」
玲司は意味を測りきれず、数秒だけ黙った。
ユラは壁から背を離す。
「昨日から見てて思ったんだけどさ。玲司、誰も信じる気ないでしょ」
「……」
「たぶんそれ、理由あるんだろうけど。こっちは理由知らないまま、いきなり消せ、忘れろ、関わるなって言われてるわけ」
正論だった。
玲司は何も返さない。
「だからせめて、これを持っておく」
ユラはスマホを軽く持ち上げる。
「脅すためじゃないよ。何かあった時に、“わたしの勘違いじゃなかった”って確認できるように」
「確認してどうする」
「その時考える」
「雑だな」
「玲司にだけは言われたくない」
それはその通りだった。
玲司は短く息を吐いた。
ここで押し切って奪う選択肢はない。そんなことをすれば余計に悪い。
必要なのは、最低限の線を引くことだ。
「誰にも見せるな」
「見せない」
「送るな」
「送らない」
「編集もするな」
「……分かった。しない」
「消さないのに?」
「うん。消さないけど、使わない」
玲司は完全には信じなかった。
だが、この場でそれ以上を取れる感じもしない。
ユラは玲司の顔を見て、少しだけ笑った。
「すごい顔してる」
「お前のせいだ」
「ごめんって。半分くらい」
「半分だけかよ」
「全部はまだ無理」
その言い方が、少しだけ妙だった。
玲司はそこで初めて、ユラがただ面白がっているだけではないと改めて感じた。
怖いのだ。
でも退かない。
そういう顔をしている。
「……何がしたい」
玲司が聞くと、ユラは一瞬だけ答えを探した。
「まだ分かんない。でも、見なかったことにはしたくない」
その言葉は、さっきまでより静かだった。
「助けられたのは本当でしょ」
玲司は黙る。
「しかも玲司、それを大したことじゃないみたいに流そうとするし」
「大したことじゃない」
「いや、あるから」
今度は軽くなかった。
「わたし、落ちてたかもしれないんだよ」
その一言に、昨日の一瞬がよみがえる。
半歩ずれただけで変わった未来。
ひとりだけ救えた、あの感触。
玲司は目を伏せた。
「……だから表に出すなって言ってる」
「出さないってば」
「だったら」
「だったら、黙っててあげる」
玲司が顔を上げる。
ユラは少しだけ笑った。
いつもの明るさに近いが、前よりも静かだった。
「わたし、こういうの広めるタイプじゃないよ。見せ方は好きだけど、何でも流すわけじゃない」
信じてもいいのか、まだ分からない。
ただ、少なくとも今のユラは本気でそう言っているように見えた。
「その代わり」
やっぱり来た、と玲司は思う。
「必要になったら、わたしにも声かけて」
玲司はすぐに首を振った。
「ない」
「即答」
「お前を巻き込む理由がない」
「理由ならあるでしょ。映像とか、人の見え方とか、わたし得意だし」
そこは否定できなかった。
昨日のたった数秒から違和感を拾った時点で、少なくとも感度は高い。
だが、それと巻き込んでいいかは別だ。
「朝比奈」
「うん」
「これは遊びじゃない」
「知ってる」
「知らないだろ」
「全部はね。でも、軽く扱わない方がいいことくらい分かる」
玲司は言葉を切った。
返しが早いくせに、空気を読んで止まる場所も知っている。そういうやつは厄介だ。
ユラは少しだけ笑って、スマホをポケットへしまった。
「まあ、今すぐ使ってとか言わないよ」
「当たり前だ」
「ただ、わたしは黙る。誰にも言わない。玲司が隠したいなら、それは守る」
そのあとで、少しだけ視線をずらした。
「でも、ひとりで全部やる顔してるのは気に入らない」
玲司は何か言い返しかけて、やめた。
図星だったからだ。
沈黙が落ちる。
渡り廊下のガラスが夕方の光を返す。
やがてユラは、いつもの調子へ少しだけ戻った。
「じゃ、そういうことで」
「どういうことだよ」
「秘密共有一名追加、みたいな」
「勝手に増やすな」
「まだ一方的だから安心して」
そう言って笑うと、ユラはくるりと踵を返した。
数歩進んでから、また半身だけ振り向く。
「玲司」
「何」
「わたし、あんたが思ってるより口固いよ」
「自分で言うな」
「言うよ。宣伝大事だし」
最後だけ少し軽い。
それでいて、芯のところは崩していない。
ユラが去ったあと、玲司はしばらくその場に立っていた。
最悪の形ではなかった。
だが、良い形でもない。
秘密は増えていないようで、確実にひとつ増えた。
ひとりだけ救えた、その先。
未来を変えた証拠を、今は朝比奈ユラだけが持っている。
玲司はスマホを取り出した。
メモに残していた実習日程、点検担当、訓練区画の設備番号。
その中の一つへ視線が止まる。
昨日の小事故。
設備不良で片づけるには、処理が早すぎた。
ユラの件は終わっていない。
だが、だからこそ余計に止まれない。
本筋を追わなければ、隠したいものの正体にも届かない。
校内端末で実習記録を開く。
一覧を流し、更新順を追い、担当者欄を見る。
そこで玲司の指が止まった。
一箇所だけ、履歴が不自然に抜けている。
点検実施の記録はある。
事故報告の追記もある。
なのに、その間にあるはずの更新だけが消えていた。
欠けているのは一件だ。
だが、その一件がなければ、誰が何を先に触ったのかが分からなくなる。
改ざんだ。
しかも雑じゃない。
“最初からそうだった”ように見せる消し方だった。




