09.勿忘星
喪失神性:星海剣舞
総身を捧げて発動する喪失神性
光と闇の化身となり、あらゆる攻撃を無効化する
すべての血肉と、その心を引き換えに
原罪とともに産まれ、過ちとともに育った
流血に錆び付いた魂が、その意義を果たすのならば
いつか見た星空を、忘れるだけの価値がある
再生した眼が最初に捉えたのは、ぼんやりとした黒い影だった。それが黒髪の少女の姿であると気付くのに、少々の時間を要した。
「――リョウ! 気が付いた!?」
潰れた赤い眼が再生し、ぼんやりと焦点を合わせつつあるのに気付いて、少女が声を掛けてきた。少しずつ肌色を取り戻していく崚を見て、安堵の色を見せるその少女の正体について、彼はしばし思考が進まなかった。
はて――この女は、誰だったか?
その記憶を浚う作業は、つまり灼き潰された脳細胞を再生させる作業そのものだった。塩基配列を再生し、細胞組織を復元し、神経系を接続し――そうして機能を復旧させた崚の意識に、一人の少女の記憶が蘇った。
「――……エ……レ、ナ……?」
「大丈夫!? 苦しくない!? 待ってて、今治すから!」
黒髪の少女、もといエレナは改めて“水精の剣”を構え、その権能を稼働させた。鍔元の玲瓏の宝珠が碧く輝き、柔らかな霊気が崚の五体を包む。星剣エウレガラムと玲瓏の宝珠による二つの“祝福”によって、崚の焼け焦げた肉体は急速に再生し、纏いつく穢れを祓って肌色を取り戻していった。全身からゆっくりと激痛が引いていくことで、崚は己の身に起こった事態について把握する余裕を得た。
己は何をしていたのか。どうしてこんな状況に陥っているのか。確か、強大な“魔”と戦っていて――魔界の汚染を浴びて――そうだ、確か“魔王”トガという名前で――
「……ま、お……は……どう、なっ……」
「今はクライドが抑えてくれてるから大丈夫! リョウは回復に専念して!」
「……クラ……イ、ド……?」
視線を巡らせ、周囲を見やる崚を抑えつけながら、エレナは言った。彼女としては崚を安心させるために伝えた情報だったが、脳の再生が終わっていない崚にとっては、さらに意識を混乱させるだけだった。
クライド。クライド。クライド。確か――そうだ、かつて轡を並べて戦った、“魔”の幼生。
「――よっ、この死に損ない! まだ生きてる!?」
そんな二人に向かって、シルヴィアが鋭い声を飛ばした。口角を上げて不敵に笑っているが、その表情は硬い。三重結界越しに魔王の魔力を防いでいるのだから、その負荷は並大抵のものではない。
「そろそろ起きて戦線復帰してほしいんだけど、どうなの!? 戦う元気は残ってる!?」
「シルヴィ、リョウはまだ意識が戻ったばっかりで――」
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないって、あんたが一番分かってるでしょ!」
崚を急かすようなシルヴィアの言葉に、エレナが反発したが、即座に叩き落とされた。ムルムルに霊気の大半を分け与え、結界展開を代行させている状態だ。ただでさえぎりぎりの状況下で、彼女に反論できることはなかった。
どうやら、ゆっくり休んでいられる状況ではないらしい。崚は、全身を苛む痛みを押し退けて身を起こした。彼の目の前で膝をついたシルヴィアは、かつてなく真剣な表情を浮かべている。
「魔王の魔界なら、クライドとムルムル、それとあたしの結界で防御してる。
……正直、あたしの存在はほとんど意味ない。クライドの負担は全然軽減できてないし、玲瓏の宝珠から霊気を分け与えられたムルムルが形勢を崩したら、この安全地帯は一気に崩壊する。
だから、あんたに立ち直ってもらわなくちゃいけないの。あんたのエウレガラムと、エレナの玲瓏の宝珠を攻勢に回せるように」
シルヴィアの真剣な言葉に、脳機能がほぼ復活した崚は、無言で戦意を漲らせた。隣で心配そうにしているエレナには目もくれない。視界の隅で黄金と赤黒の魔力が激突しているのを見せられては、厭でも戦う意志を取り戻させられる。暢気に自己回復を待っている場合ではない。
どば、と強烈な衝撃が轟いたのはその時だった。三人とムルムルを包む黄金の炎が激しく揺らぎ、ごろごろと転がってくるものがあった。
「――クライド!!」
赤黒の瘴気に身を汚し、満身創痍で倒れ伏すクライドの姿に、エレナが悲鳴を上げた。
◇ ◇ ◇
「“魔界創生”――それが、この秘儀の名だ」
全身を赤黒の瘴気に呑まれながら、それでも力を振り絞って立ち上がろうとするクライドを見下ろして、トガが口を開いた。
よく戦った。よく食らいついた。今もなお背後の足手纏い共を庇い、よく抗っている。――だが、それだけだ。“魔の王”たる己と拮抗するには遠く、勝利をもぎ取るにはさらに遠い。
「あらゆる魔術の到達点であり、理を外れた“魔”にのみ許された至高の領域。その魔力を無限に流出させ、世界を歪め、己が定めた“理外の理”を永久展開する窮極の外法。『そうあれかし』と自らを規定し、あらゆる道理を圧し潰す“魔”の本領。
必要なものは唯一つ――『叛意』だ」
その手掌に瘴気を滾らせながら、トガはゆっくりと歩み寄った。
「魔力の大小ではない。魔術の見識ではない。そんなものは、ただの手段にすぎん。
己が裡に宿る渇望を認め、全てを擲つほどに焦がれる熱狂。我こそ至尊と奉り、一切合切を排斥する傲慢。『そのために世界の総てを焼き滅ぼす』という不退転の覚悟。狂おしいほどの憎悪こそが、何者をも認めぬ反逆の意志こそが、この窮極の汚濁に相応しい」
世界を相手に憎悪を滾らせ、その理を歪める叛意――それは世界を穢す瘴気として顕現する。醜く悍ましいモノ、それこそが“魔”の本質。内なる事実から目を背けず、その醜悪をこそ世界に押し広げんとする覚悟を得た者にのみ許される、窮極の汚濁――それが、“魔界創生”という工程だ。
「貴様にはそれがない。神を許容し、使徒に縋り、世界に妥協するだけの貴様には、理を覆すだけの純度が足りんのだ」
魔力とは、摂理を侵す魂の力。どんなに酸鼻極まりない醜悪な本性であろうと、それを容認できる厚顔さを持ち合わせている方が、必然的に強い力を宿す。魔力同士の押し合いともなれば、厚顔無恥の押し付け合いとも言っていい。魔界とはそれを漉し極めた最上位であり、大いなる理すら蚊帳の外に押しやる暴力の具現である。その位階に達していない、躊躇いを抱えた不純物を捻り潰すなど、造作もない。
「……はっ」
だがクライドは、それを嗤った。
「何を、言いだすかと思えば――“魔王”とやらも……存外、底が知れた、ものだな」
「――ほう? この期に及んで、未だ吼えるだけの気概があるか」
全身に纏わりつく瘴気を焼き祓い、燃える長槍を支えにふらふらと立ち上がる。その姿は、傲岸不遜な“魔王”トガをして、思わず瞠目せしめた。ばちばちと燃える黄金の炎も、その勢いを衰えさせる様子はない。
「何のことはない。貴様のそれは、ただの現実逃避ではないか」
ぜえぜえと肩で息をしながらも、震えることなく力強く屹立し、クライドは言い放った。その気勢に応えるように、黄金の炎がゆらりと燃え上がった。
「今の世界が気に食わないから、何もかも拒絶して丸ごとひっくり返す――実に下らない。まるで子供の癇癪ではないか。
それを覚悟だの、憎悪だの、反逆だの……何が“魔界”だ、馬鹿馬鹿しい。厳つい名を与えて礼賛すれば、自らの卑小さを隠せるとでも思ったか」
あれが気に食わない、これが気に食わない、どれもこれも憎たらしい……まるで幼子のように、癇癪のままに暴れ回っている。
クライドの眼には、そのようにしか映らなかった。誰もが現実の辛さに行き当たり、大なり小なり折り合いをつけて生きているというのに、「たまたま力があったから」と我儘を張り通している。その挙句「己は理に縛られない特別な存在なのだ」と自己陶酔しているだけではないか。
そんなものに負けてはいられない。そんなものに、愛する人と愛する祖国を奪われるわけにはいかない。クライドは両足で汚泥を踏みしめ、長槍をぐっと構えた。
「理の冷酷さを知り、世界の厳しさを知り、現実の辛さを知り――それを受け入れ、呑み込んだうえで、『より良い明日』を求める方が、ずっと気高いことに決まっているだろうが! それを諦めないからこそ、オレはあの方に惹かれたのだ!
オレは逃げない! あいつとともに、あの方とともに、この世界の中で足掻き続ける! それこそが、我が絶対の律と知れ!
失せろ、魔王! 貴様ごときが、オレたちの決意を邪魔するな!」
クライドの咆哮とともに、黄金の炎がごおと燃え上がり、エレナたちを包んだ。“魔”の宿敵であるはずの、エウレガラムの使徒である崚すら包み、何者も通さぬ火焔の障壁と化した。
焼き払うためではなく、護るために。窒息させるためではなく、救うために。条理など知ったことかとばかりに、彼の炎は輝く。
「――佳かろう」
その姿を見届けたトガは、しかし何の反論もしなかった。
「ああ、そうだとも。どれだけ卑小であろうと、その階に触れたのであれば、それは紛うことなき超越者。“魔王”たる吾が相対し、全霊を懸けて打倒すべき敵対者である。
誇れよ、若き魔人。この八百年で唯一、貴様は吾が好敵手となった」
それこそが、この魔人クライドなりの反逆。
理に排斥される“魔”でありながら、その現実を否定してでも世界とヒトに寄り添い、その身を焼かれながら共に歩む。それもまた、異端の思想だろう。その決意を薪に燃え上がり、断じて消えぬと決意したのならば――ああ、そうだ。認めてやるほかない。我が身を惜しまぬ不退転の覚悟、それこそが“魔界創生”の要件だ。
――なれば、全力で応えてやるべきだろう。
トガは溢れ出る瘴気を魔剣に纏わせながら、無限に膨れ上がる魔力の汚濁を以て、黄金の炎と衝突した。
◇ ◇ ◇
クライドの咆哮に衝き動かされたのは、何もトガだけではない。
「クライド、負けないで――!!」
大きく燃え上がる黄金の炎に急き立てられるかのように、エレナがいきり立った。それに合わせて玲瓏の宝珠が感応し、火焔の障壁に沿うように清流の結界が現出する。
「ムルムル、お願い!」
「ゴアァァァッ!!」
さらに玲瓏の宝珠から霊気を分け与えられたムルムルが、その口腔をがばりと開き、トガに向けて碧炎のレーザー光を放った。文字通り光速で迫る絶滅の光に対し、トガは瘴気を纏った魔剣を振るって防御した。
「――上等。世界の命運を決める大戦で、“神”が除け者にされては始まるまいて」
びりびりと超常の鍔迫り合いが繰り広げられる中、トガは不敵に笑った。そうだ、そうでなくては始まらない。世界の命運を握る全ての存在が参戦し身命を懸けてこそ、その先にある答えに辿り着く。世界の正しい在り方が決定される。
一方、シルヴィアもまた前代未聞の試みに挑戦した。黄金の炎に堰き止められた赤黒の瘴気、その一角に錫杖を向けたかと思うと、赤黒が僅かに染み出し、這うように錫杖の先端に集まり始めた。
「シル、ヴィ、ア」
「黙ってて! あんたはさっさと治癒に集中しなさい!」
精一杯身体を起こす崚を叱り飛ばしながら、シルヴィアは錫杖の先で魔力の霞を編み上げ、固めていく。ぎゅるぎゅると汚濁が渦巻く中で、指先ほどの小さな輝きが生じ始めた。
「禁術の応用よ! これで魔王の魔力を掠め取って、ついでにあたしの魔力を上乗せして送る! 魔王相手じゃ雀の涙かも知れないけど、とにかく積み上げていくしかないわ! こういうのはね、最後に勝ちゃいいのよ!」
「け、ど――」
「心配しなくても、ちゃんと上手くやるわよ! 何しろあたし、天才だからね!」
脂汗を流すシルヴィアは、言葉ほどに余裕が見られない。魔力汚染の本命たる魔王の魔界、その構成魔力を操って解体しているのだ。一歩間違えれば、自らがその汚染に呑まれる。それでも、彼女は止める気がないようだった。
「――冗談じゃない。こんなところで死なないわよ」
世界を脅かす魔力汚染に晒されながら、シルヴィアは歯を食い縛った。錫杖の先の輝きが、少しずつ大きさを増していった。
「祖国を導く責任があんの! あたしにも、あの子にもね! 現在の勝利のためじゃない。未来のために、何が何でも生き延びるのよ!
――そうじゃなきゃ、未来のために死んでいった兵士たちに顔向けできないのよ!」
多くの兵士が戦った。多くの兵士が死んだ。世界まるごと危機に瀕している今、まさに死にに行っている兵士たちもいる。
彼女たち為政者に、それを悲しむ資格はない。顔を覆っている暇はない。兵士たちが命がけで繋いだ意味を果たすために、社会秩序を守らなくてはならない。こんなところで、黴の生えた魔王の憎悪なぞに焼かれている場合ではない!
きつく口を結んだシルヴィアの目の前で、輝きがその大きさを拳ほどに増す。赤黒の瘴気を可能な限り取り払い、爛々と輝く紅色の珠を前に、しかし彼女は意識が飛びそうになった。除去しきれなかった瘴気の汚濁が彼女の全身を苛む。憤怒渇望侮蔑殺意羞悪狂気絶望憎悪嘲弄厭忌――
(……ちっ、ここが妥協点か!)
欲張って汚染に呑まれてしまっては元も子もない。シルヴィアはぎりぎりのところで見切りをつけると、輝きの照準をクライドに合わせた。
「受け取んなさい、エレナの騎士! 悪いけど後は任せた!」
そして、シルヴィアは輝きを撃ち放った。それは玲瓏の宝珠の結界をすり抜け、黄金の炎に飛び込み、今まさにトガと激闘を交わしているクライドに命中した。実体なき魔力塊はぱしゃりとクライドの火焔に溶け、その火を強く大きく燃え上がらせた。
「――ちゃんと勝って、帰ってきなさいよ。そのために生まれ変わったんでしょう?」
文字通り全力全霊、魔力の一滴まで絞り尽くしたシルヴィアは、がっくりとその場に頽れた。只人の自分にできることは、もうない。あとはあの馬鹿真面目な魔人を信じて、全てを託すしかない。
◇ ◇ ◇
その光景を、崚はぼんやりと眺めていた。
クライドが戦っている。命の炎を全力で燃やし、全てを否定する魔王に抗っている。
エレナも戦っている。ムルムルとともに、最愛の騎士を支えるために立ち向かっている。
シルヴィアは戦い抜いた。条理を越えられない只人でありながら、できることを模索してやり遂げた。
――では、自分は? 何のためにここにいて、何を成せるというのだ?
清廉を保つこともできない。護ることもできない。救うこともできない。敵を殺すことさえできない。
何一つ満足に達成できない、無力なモノに、何の価値があるというのだ?
ぼんやりと視線を落とした崚の眼に、黒白双対の刃が映った。
幾多の犠牲を強いて生まれた刃が。血の地獄の中で鍛錬された、清廉なだけの刃が。
一つだけある。
崚にだけ成せる、崚にしか成せないことが。
全てを擲つことで、それが成せる。全てを諦めることでしか、それは成せない。
崚は緩慢な動きで身体を起こし、前に立つエレナへと視線を向けた。
彼女は立ち向かっている。一人では決して殺せぬ大敵を前に、恐怖を押し殺して立ち向かっている。その視線は、その意識は、摂理という轍で分断されてしまった最愛の騎士にのみ向いている。
――それだけで、全てを諦めることができた。
(……あーあ。どうして、こんなことになっちゃったんだかな)
原罪とともに産まれてきた。
過ちを重ねて育ってきた。
己に成せることを探し求めて、そのたびに間違えて、それでもと這いつくばって、
せめて価値あることを成し遂げて終わろうと、血と泥の中で藻掻いてきたのに。
(ま、しょうがない。“神”なんて怪物を相手に、ペテンができると思い上がったツケなんだろうさ)
全ては傲慢な思い上がりだったのだ。できもしないことを約束し、そのツケが回ってきただけに過ぎない。
崚は黒白双対の刃を支えに、よっと全身の筋骨を軋ませて立ち上がった。満足に筋力も込められない現状だが、気にする必要はない。どうせもう使わない。そうして崚が歩き出したのと、エレナがはっと振り返ったのは、ほぼ同時の事だった。
「リョウ?」
――ああ、どうしてそこで気付いてしまうんだ。
未練がまた生まれる。捨て去らなければならない。あの頑固者に託さなければならないと、たった今決意したばかりだというのに。
崚は双剣を翻し、足元の汚泥にぐっと突き立てると、へらりと相好を崩した。血と汚泥に塗れた手甲を外し、ぽんぽんとエレナの頭を撫でる。
「――お前、クライドと喧嘩するんじゃねーぞ。俺は取りなしてやれないからな」
「リョウ? どしたの、急に」
「間近でラブコメ見せられんのも、そろそろお腹いっぱいだって話」
「らぶ……?」
不可解な言動に、エレナは当惑した。この少年は、こういうスキンシップを好まなかったはずだ。こんな鉄火場のど真ん中で、不釣り合いな行動を取る剽軽さもなかった。こんな風に、何もかも失くしたような笑みを見せることもなかった。
困惑を見せるエレナをよそに、崚は双剣を拾い直し、よっこらせと歩き出した。世界最悪の鉄火場とは思えない、軽やかな足取りで前に進む。何か異様なものを察知したシルヴィアを置き去りに、崚は二人に背中だけを見せて歩き続けた。碧炎を吐き切り、霊気を回復させている最中のムルムルと目が合った。
「よ。後は任せたぞ、ムルムル」
「グルル……?」
「ちょ、待――」
獰猛な瞳で胡乱げに睨むムルムルにも気軽に声を掛けると、崚はようやく立ち止まった。ここでいい。ここがいい。全ての未練を捨て去るには、やはり地獄の釜の蓋の上が似合いだ。
崚は双剣を翻し、自らの胴に突き立てた。
「リョウ!!」
突然の暴挙に、エレナが絶叫する。口からごぼりと血の塊を吐きながら、崚は双剣の刃を強く押し込んだ。全身を苛む激痛に悶えながら、ただ一念を脳裏に刻んだ。
使命を果たせ。あるべき姿を取り戻せ。
怨敵は彼方に。全てを消し去れ。
贄は此処に用意した。さあ、食らい尽くせ。
――そして彼は、世界から消失した。
白と黒に溶け、宙を揺れる双輪の刃を掴んだのは、
◇ ◇ ◇
あるべきものが消失した違和感ほど、形容しがたいものもない。
赤黒と黄金が支配する天地にあっても、それを衝突させる両者にとっても、その事実は変わらなかった。
「――なに?」
瘴気の魔剣と黄金の長槍を交差させる最中、トガとクライドは同時に違和感を抱いた。二つの魔力の鬩ぎ合いの中で、無くなるモノなどあるはずがない。どちらかの斥力が失われたことを意味し、拮抗が破れることを意味するはずだ。第三者が無くなる感覚など、あるはずがない。だが両者は、決定的な消失を嗅ぎ取った。何かが消えたと確信した。あるとすれば、両者の外側にあるモノ――
すぽん、と何かが落ちた音がしたのは、その時だった。
両者は揃って音の源を見やった。見れば襤褸を纏った片腕が一本、トガの足元に落ちている。一瞬遅れて、びちゃびちゃと降り注ぐ赤黒い血に塗れたそれは、しかしあまりにも自然にあり過ぎて、いったい何者の腕なのか、しばしの思考を要した。
トガの腕である。魔力を手繰り、黄金の炎を征しようとしていたトガの左腕が、何者かに斬り落とされていた。遅れてやってきた激痛に、しかしトガは身を捩ることはなかった。久しく感じたことのない痛覚は、むしろそれを成したモノへの動揺に変わった。何だ。何者だ。神に選ばれた使徒さえ征する“魔王”の玉体を、それと気取らせず害してみせたのは何者だ――?
トガとクライドは、同時に振り向いた。魔王の背後、荒廃した“孕魔霊樹”の抉られた樹壁の一角に、揺らめく黒い影が立っていた。
それは影だった。一部の隙もない闇が、照り返しのない黒の塊が、質量を持って屹立している。
その正体を誰何するよりも早く、トガはもう一度正面へ振り向いた。咄嗟に魔剣を構え、目の前に墜落してきた白い影の刃を受け止めた。
それは光だった。一部の隙もない輝きが、艶のない白の塊が、質量を持って屹立している。
「ふんッ!」
瘴気を纏わせた魔剣を振り、白い影の剣戟を振り払った。ぴょーんと高く弧を描いて跳ね飛び、どろりと汚泥の上に着地した。
トガを挟むように屹立する黒白双対の影は、全く同じ輪郭をしていた。顔のないのっぺらぼうの姿で、朧げに揺らめき、左右対称に刀を握っている。その背格好に間違いがなければ、ある少年の姿を模していて――
「――リョウ……!?」
愕然とするクライドの呟きは、黒白双対の影に届かなかった。音もなく刀を構え、前後からトガへと吶喊する。トガは迷わず応戦した。捥げた左腕の代わりに魔力の渦を放出し、瘴気を纏わせた魔剣を以て迎撃する。
放出される膨大な魔力に構わず、黒白双対の影はそれぞれに代わる代わるトガを攻め立てた。魔剣に遮られた白い影の後ろから、黒い影が飛び掛かる。魔力の渦に堰き止められた黒い影の後ろから、白い影が飛び掛かる。その度に撒き散らされる濃密な汚染に構わず、二つの影は一気呵成に攻め立て、うち幾筋かの剣戟が、トガの五体に届き始めた。
(――まさか)
トガの魔剣による強烈な大薙ぎを、回避もせずに攻めかかる黒白の影を見て、トガの脳裏に一つの疑念が生まれた。
瘴気を纏った魔剣は過たず二つの影の手足を、心肺を、首を、頭蓋を斬り裂くが、影たちは水面に揺らぐ影のように、捉えどころなく揺らめくばかり。それどころか、返す刀でトガの肉体を斬り裂いていく。さしもの魔王も、二方から代わる代わる攻める斬撃には防戦一方になるほかなかった。
(間違いない)
トガの疑念は、確信に変わった。
いかに神器の加護があれど、使徒はヒトである。四肢が傷付けば血を流し、臓物が傷付けば衰え、脳が傷付けば死ぬ。万象必衰の理を覆すことができるのは唯二つ、つまり“神”と“魔”のみである。その神の御業に等しき芸当を――ヒトに成せぬはずの芸当を成せる意味は、唯一つ。
「小童が――総身を神器に捧げ、神にその身を明け渡したか!」
すなわち、神そのものに成ること。
トガの咆哮に、二つの影は答えない。いよいよ音速を超え始めたトガの斬撃を押し止め/すり抜け、黒白の影がトガの肉体を斬り裂いていく。
そしてついに、その身に刃を深々と突き立てた。
「ッが――!」
貫かれた激痛に、トガが苦悶の声を上げる。
心の臓は外した。咄嗟に身を捻り、致命の一撃を躱すことには成功したが、黒白の刃はその身を貫き、尚も両断せんと肉を抉る。ごぼり、とトガがせき込み、その口から赤黒い血の塊を吐き出した。
――その双剣の刃を、トガの手が掴んだ。
「……愚か、な」
何という、愚行。
光と闇――魔界すらすり抜け、あらゆる攻撃を透過し無効化する、不滅の神。なるほどそれは、魔王たるトガを滅ぼすには十分だろう。
だがそこに崚の勝利はない。勝利とは、その意志の力によって成し遂げられるものだ。自我すら擲った彼に、勝者の栄誉など与えられない。鍛え上げた技を、積み上げた経験を投げ捨て、神に縋る。それは僧侶共の祈祷と同じだ。都合のいい結果を、ヒトですらない何かに託した挙句、自らの努力を放棄し、天災が諸共に洗い流してくれるのをただ待ち侘びる。そんなものは、ヒトの闘争ではない。世界の命運を決するための、互いの真価を懸けた決戦の末路ではない。
(こんな現象が、吾が宿敵であってたまるか)
世界を呪った。神を相手取った。しかしそこに参戦するのは、神の意志に遣わされた使徒であるはずだ。互いの存在と尊厳を懸けた意志のぶつかり合いであるはずだ。このような、無感情な殺戮機械による伐採作業では断じてない!!
「ッ神の、奴隷ごときが――!」
一段と強く吹き荒れる怨念の暴風が、二つの影を吹き飛ばした。傷付けられた胴の傷は、魔力で強引に塞ぐ。黒白双対の影が吹き飛んでいった辺り、最低限の斥力は機能するようだ。
ならばやることは変わらない。正義も大義も必要ない。彼が怨念であるために、神を打ち倒し、人を滅ぼす。ただそのために、この生成りの神を乗り越える。
“地に伏せよ!”
満身創痍で、呪言をひとつ。ただそれだけで、火焔が、冷気が、雷電が現出した。
「くっ――!」
ぼこぼこと樹壁を荒らしていく魔力の嵐に、クライドはすっかり蚊帳の外に追いやられ、魔界の斥力に押し出された。最高潮に達したトガの魔界に、割り込む余地はほとんどない。
「ちょっと! あれ、どうなってんの!?」
「わかんないよ! わかんないけど――でも――!」
一方、その姿を結界越しに見守っていたシルヴィアは、エレナに詰め寄った。『神器と同化する』など、使徒の権能を超えている。もはやエレナの理解の範疇ではない。口ごもる彼女は、しかし脳裏を不安に支配されつつあった。
ヒトの身を捨て、神威そのものと化した最終手段。それは確かに、魔王に拮抗し打倒する手段たり得るだろう――だが、その後は? 殺すべき敵を失った後、彼はどうなる?
(――止めなければ)
同じことに、クライドも思い至った。
止めなければ――あいつは、一線を越えてしまう。ヒトでない何かになってしまう。
クライドは反射的に長槍を掲げ、大きく弓引くように身を構えた。長槍がぼおと燃え、魔力を濃縮して火焔の大槍に変貌する。魔王の魔力が崚に集中している今、防御に回している場合ではない。一刻も早く魔王を討つ――!
「――おおおオオオッッッ!!」
臨界を迎えた火焔の大槍を、クライドは全力で投擲した。解き放たれた超高熱がごおと疾走し、今まさに交戦中のトガに迫る。最低限の結界維持以外、防御と斥力に回していた魔力を総動員した一撃は、魔王にすら傷を与えうる――
「邪魔だァァッ!!」
トガが咆哮とともに瘴気を噴き出し、それを力ずくで塞いだ。宿敵が本領を発揮した今、第三者にかかずらっている場合ではない。瘴気を結集し、圧縮し、全身を覆う暴風の嵐に変える。黒白双対の影は、それに構うことなくがりがりと瘴気の壁を削り、トガの五体を斬り裂いていった。
「来たれ、“八岐禍津神大蛇”!!」
トガの叫喚とともに、その足元の汚泥がぶわりと揺れ、巨大な蛇の頭が現出した。巨大な頭蓋が八つ、黒白の影を余すことなく襲撃する。黒白双輪の刃がその頭を砕いて回り、夥しい魔力汚染が飛び散った。
「小童共が――! 神、ごときが――!」
次々に破られていく瘴気の壁に、トガは咆哮を上げた。世界を破滅させる汚染も、黒白双対の幻像と化した崚には届かない。
――ついにその刃がトガの胴に達し、十字に斬り裂いた。肉を断ち骨を砕き髄を焼く二連の一撃が、“魔王”の命に届いた。
「――……吾――は……!!」
トガは激痛に耐えながら、何かを掴むように手を伸ばした。だがその手掌は虚空を薙ぐばかりで、何一つ掴み取ることができなかった。次々に斬撃を浴び、千々に斬り裂かれ、見る見るうちに小さく衰えていく魔力が、その末路を表している。
その脳裏に、誰かの顔が浮かんだ。
(――……お前は、誰だ……?)
思い出せないその顔に、トガの意識は一瞬だけ囚われた。大切な人を護ろうとして――奪われまいと奮闘して――その果てに、吾は――
ついに倒れ伏したその身を、しかしトガは自覚していなかった。その眼前に降り立った黒白双対の影が、ゆっくりと刃を掲げ――
黒白双輪の輝きが、“孕魔霊樹”の中腹を呑み込んだ。二つの輝きが晴れたころ、“魔王”トガは何処にも存在していなかった。
戦いの記憶:“魔王”トガ
類稀なる強者との、死闘の記憶
その経験は、新たな地平を切り拓くだろう
あるいは、擂り潰して力の糧にしてもよい
もはや掠れた記憶の中、思い出せぬ霞の彼方
彼の人生は、苦悩と苦痛の中にあった
これが、摂理か。これが、正しき在り方だというのか
ならば要らぬ。総て、跡形もなく滅びてしまえ




