5話 現実
3月3日。月曜日。時刻は6時5分。転移してから次の日の朝がやってきた。
目が覚めたら元の日本に戻ってないかなと淡い期待を抱いたがそれは無かったようだ。
まあ、元の日本に戻ったとて彼女無し、貯金無し、激務ありだし、友人と呼べる友人も数えるほどしかいないので別にこの世界で生きていくのも悪くないと持っている。
実を言うと昨日の夜はあまり眠れなかった。
成り行きとはいえ美少女4人と同居することになったし、なにより今日が初めてのトレーニングだ。
ウマ娘たちの走りをこの目で生で見られることの期待と、ゲームでは失敗したらリセット出来るが彼女たちはこの世界で生きていて、僕にすべてを託したのだ。
結局なかなか寝付けなかった僕は、午前2時まで先代のトレーナー達が書き残したトレーナーノートの記録を読み返していた。
このノートを読み返すとそれぞれに方針があり、優しいだけではトレーナー職を続けられないことを理解した。
実際にトレーナーの名前がコロコロ変わっていて、問題を起こしたトレーナーに替わってから劇的に成績が向上していた。
その代わりトレーニングはかなり厳しくなっていた。筆舌に尽くしがたいほどに。
メダルゲームの育成でも【坂路SPからの温泉ループ】が最適解なのかそれしかしないプレイヤーは多いが、僕はデータとはいえ愛馬にメダルを稼ぐ機械になって欲しくなかったので日替わりで調教も替えて、例えば芝強めを走らせて散歩した後、次の日にウッドチップを馬なり(軽い調教)に走らせてマッサージするなどで育成してきた。
強いプレイヤーが聞いたら鼻で笑うかもしれないが、特別、一杯調教は滅多に使わなかった。
あの負け続けていたハルウララの馬主はこう言っていた。
「きっと強い調教を課せば一度は勝ってくれると思う。でも一度の勝利の為に壊したくない」
僕はまだ2階の各自の部屋で寝ている皆を起こさないように気を付けながら、リビングに行き眠気覚ましのコーヒーを淹れた。
コーヒーは昨日買い物に行った際に半額になっていたネスカフェのインスタントコーヒー。
社会人になるまではこんな苦い飲み物をなぜ大人は好んで飲用しているのか不思議でならなかったが、自分自身大人になってからはコーヒーを朝に飲まなければ一日が始まった気がしない。
テレビの音量を下げて天気予報を見つつ、コーヒーを飲みながらぼんやりとしているとリビングのドアがゆっくりと開いた。
「朝早いな~、おはよ。トレーナー。朝はちっちゃい怪獣に起こされたわ・・・。」
時刻は朝6:32。意外にも一番早く起きたのはクロちゃんことクロユリだった。
ウマ娘たちは2階に各自の部屋を持っており、もちろんナナも自分の部屋を持っているのだが、夜一人で寝るのは寂しいらしく、これまではユキヒメかツクヨミどちらかの部屋を気分次第で選んで一緒に寝ていたらしい。
昨日は約一週間ぶりだったらしいがクロがこの家に居候のお願いに来て結局、話の流れで我が家に転がり込むことになり昨日の夜はナナはクロと一緒に寝ていたらしいのだが、ナナの寝相が悪かったのか寝返りを打ったナナの足、正確にはかかと落としがクロのお腹に直撃し飛び起きたらしい。
可愛い怪獣は夢の中だったので起こさないように寝かせてあげて、時間も二度寝するには微妙な時間だったのでやむなく起きて来たらしい。
「優しいな、クロは。」
コーヒーをテーブルに置きながら小声で笑いながら僕が答える。
・・・若干目のやり場には困る格好だったが。
「まあ怒るに怒れないからね、私もコーヒー貰うわ。ブラックで。」
僕の向かいに座りながら意外にもコーヒーを要求するクロ。
「意外だな。君たちってコーヒー大丈夫なのか?」
実際の馬には基本的にコーヒーを与えてはならないとされている。
理由はカフェインは馬の心臓や神経系に強い負担をかけ、中毒症状や体調不良を引き起こす危険があるからだ。
ただしとある馬・・・ポニーだったか覚えてないがはご褒美に缶コーヒーを飼育員から与えられているのをyoutubeで見たことがある。
おそらく日常的に与えなければ問題ないという事だろう。
食事のエピソードでいうなら実際の馬に与えられている飼い葉(馬のご飯)についても触れておく。
飼い葉の中身は主に青草・干し草・燕麦・小麦の皮であり、それに各馬の好みや体調に合わせてニンジン・リンゴ・ニンニク・ハチミツ・豆類・角砂糖・塩・油粕が加えられたものである。
トウカイテイオーはりんごが好物だったが高級品種の「ふじ」しか食べなかったし、ゴールドシップは飼い葉を水に浸して「お茶漬け」のようにして食べるのが好みだった。
ニシノフラワーは放牧先のたんぽぽをむしゃむしゃ食べたら激太りしたこともある。
「別に人間とあまり大差ないわよ。レース前は禁止らしいけど。」
淹れたてのコーヒーにあちっと若干火傷しながらクロが答える。
「クロはユキヒメと仲いいのか?昨日もユキヒメを頼りに来ていたが。」
冷めかけたコーヒーを飲みながら問いかける。
「まあね、幼稚園からの付き合いなんだよねー。」
「なるほどな。そういえば聞いていなかったがレースの成績って聞いてもいいか?」
成績と聞かれたとたんに表情が落ち込むクロ。
「・・・トゥインクルシリーズ(中央)で走ったことは無い。地方だと6戦0勝。走ったのは大井、名古屋。掲示板(5着以内の事である)には何度か乗った事あるけど。」
中央で走った事があるユキヒメやツクヨミと実力の差が浮き彫りになった形だ。
つまりユキヒメと同期でありながら、公開模擬レース後に中央にスカウトされたのはユキヒメだけ。
その後、中央と地方と2人は別々の道を歩むことになったのだろう。
ユキヒメはスカウトされたこの厩舎でツクヨミと、引退したミヤビたちと出会ったのだろうか。
実際ユキヒメは『中央で勝ち鞍』を上げて結果を残している。
中央で条件戦だとしても【1度でも勝つ】ということがどれだけ険しいか競馬好きの僕はよく知っている。
具体的な数字を挙げてみると実際の競馬に使うサラブレッドの約98%は北海道で生まれ育つ。
2020年のデータでは約7300頭の競走馬が生まれた。
その後、約7割の馬が中央競馬への入厩を果たす。
脱落した馬は地方競馬もしくは乗用馬。あるいは・・・その先は言わないでおこう。
さらに入厩してからも5%の馬は体が弱い、能力試験不合格で脱落。
その後中央競馬で1勝を挙げるのは約3割と言われている。
新馬戦、未勝利戦を何度か戦い見込みがない馬は地方に行くことが多い。
そして条件戦を勝ち上がり重賞に出走できる【オープンクラス】に勝ち上がれる馬は約3%である。
人間の偏差値で言うなら約70である。まぎれもない天才だ。
【輝かしい中央に進んだ】ユキヒメ(天才)と【トレーナーが付かなかった】自分(凡人)。
勝負の世界とは言え、残酷なまでの実力の差が二人の未来を変えたのか。
だが、活躍する舞台が違っても2人の友情は変わらなかったみたいだ。
昨日は色々あったからこうやってクロとサシでゆっくり話して色々聞けて良かった。
「そうか。けど約束する。絶対に勝たせてやるよ。」
そう言って慌てて付け足す俺。
「あ、やっぱ絶対は無しな。走るのクロだし。朝ごはん作るよ」
あははと笑ってごまかす僕。
「・・・かっこいいと思って損したんだけど。」
そっぽを向きながら人肌まで冷めたのかコーヒーを飲み干したクロ。
「おはようごじゃいましゅ・・・。」
「おはようございます。トレーナーさん。」
「はよー・・・。」
時刻は7:05。朝靄が乳白色のカーテンのように世界を覆う中全員が揃った。
ツクヨミはもう着替えも終えてジャージ姿。
ナナは昨日と違うパジャマ姿。とにかく寝起きも可愛い。
ユキヒメは寝癖が凄い。ライオンの様だった。
「とりあえずツクヨミ以外顔洗って着がえて来て。朝ごはん作ってるから」
あまりのユキヒメの寝癖に苦笑いしつつクロ、ナナ、ユキヒメを着替えに行かせる。
「じゃあ私は朝ごはん作るの手伝いますわ」
「ありがとう、ツクヨミ」
短く返事をしてからツクヨミと並んで朝ごはんを作る。
ごはん、味噌汁、目玉焼き、ほうれんそうのおひたし、味付け海苔。
ザ、和食と言った朝食を食べながら何気ない会話を楽しむ。
ナナは今月末頃運動会があるらしいが、日時は忘れたにゃ!・・・との事。
大事なので確認する様に念を押しておいた。
明日とか言われたら困るからな。席取りとかあるし。
ここで各自の今日の予定についてまとめて書き記しておく。
ナナは初等部の学校で夕方に帰って来る。
ユキヒメ、クロユリ、ツクヨミはトレーニング。
ただしクロは午後整備のバイトなので午前だけ。
僕は午前中はトレーニングを見てから午後に新人トレーナーとして地方委員会なる場所に登録しに行く。
「さて、行くか。」
全員が食べ終わり、各自外のコースに向かう。
今日は各自の実力を確認する為、ダートコースでの併せと芝の併せをするつもりだ。
ナナは学校に行かなければならないのだが、寂しそうに玄関のドアを出てから、「ちらっ、ちらっ、ちらっ」とまるで今生の別れかとばかりに綺麗に二度見どころか三度見してから出て行った。
・・・正直滅茶苦茶可愛かった。
ついに初めてのトレーニングが始まろうとしていた。




