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第十一話 法人設立と表の顔
資金が十億円の大台を破ったのは、佐紀が逆行して二回目の秋を迎えた頃だった。
現物取引のみ、レバレッジ一切なしという徹底したリスク管理を通しながらも、複利の力と【未来視】による全戦全勝の相場選択は、恐ろしいスピードで試算を膨らませていた。
「これ以上、個人の口座で動かすのは限界ね」
六畳一間の自室で、佐紀は薄型ノートパソコンの画面を見つめながら呟いた。
個人投資家として数十億円単位の資産を急激に動かせば、税務署や金融庁のコンプライアンス部門からの監視の目が厳しくなる。インサイダー取引の疑いを持たれ、口座を凍結されては元も子もない。
佐紀はすぐに行動を起こした。
都心のハイグレードなレンタルオフィスに事務所を構え、資産管理会社『サキ・アセットマネジメント』を設立。さらにその傘下として、環境保護事業と不動産開発を名目とした複数のペーパーカンパニーを立ち上げた。
「表の顔は、先見の明を持つ若き女性投資家。そして、自然環境の保全に情熱を注ぐ起業家」
社会的に圧倒的な信用を獲得すること。それこそが、三十年後の終末に向けた巨大な準備を隠蔽するための最強の遮蔽膜になる。
佐紀は一流の弁護士、税理士、そして公認会計士を雇い入れた。彼らには相応の破格の報酬を支払い、法的なスキを一切作らない「完璧な節税と資産管理の構造」を構築させた。
「田中代表、今回の山林買収の件ですが、地元の自治体も非常に前向きです。環境保護助成金の申請も通る見込みですよ」
顧問弁護士が恭しく差し出してきた書類に、佐紀は優雅にペンを走らせる。
「ありがとう、先生。私たちの目的はあくまで『手つかずの豊かな自然をそのままの形で次世代に残すこと』です。現地の住民の方々にも安心していただけるよう、丁寧に進めてくださいね」
「素晴らしいお心心がけです。素晴らしい理念ですよ」
弁護士は感銘を受けたように深々と頭を下げた。
彼の目には、佐紀が「地球環境の未来を憂う美しく気高き聖女」に映っているのだろう。
(愚かな男……)
心の底で、佐紀は冷たく嘲笑した。
自然保護など、心底どうでもよかった。
彼女が買い漁っている山林はすべて、地下水脈が豊富で、土質が強固で、都市部から絶妙な距離を保ちつつも、山脈によって周囲からの視線を完全に遮断できる「天然の要塞」になり得る土地ばかりだった。
表向きは「自然保護区」として人の立ち入りを制限し、防犯カメラやフェンスを巡らせる。それだけで、公的に誰も近づけないプライベートゾーンを作り出すことができるのだ。
「一つ目の拠点は、ここに決めたわ」
地図の上に赤ペンで丸をつけたのは、深い原生林に囲まれた山間部だった。
広大な土地の所有権を手に入れた佐紀は、すぐさま大手の建設会社数社に対し、特殊な条件でのコンペを打診した。
「自社データセンターの設置と、災害時の緊急避難用研究施設の建設」
それが、表向きの工事名目だった。
地下深くを掘り進め、強固な花崗岩の岩盤をくり抜いて造られる巨大な空間。
耐震・耐圧構造はもちろんのこと、放射性物質や化学兵器すら遮断する気密構造、大型のエアロックシステム、そして独立した地熱発電および地下水浄化設備。
工事を担当する建設会社は「外資系IT企業の過剰な防災投資」程度にしか思っていなかった。佐紀が提示する潤沢な資金と、一切の遅延なく支払われる金に目がくらみ、誰一人としてその構造の狂気性に疑問を呈する者はいなかった。
すべては、順調だった。
第十二話 空間収納の限界突破と世界の買い占め
地下シェルターの第1期工事が進行する傍らで、佐紀の「物資収集」は地球規模へと拡大していた。
自室の四方に配置した超小型サーバーの前に座り、佐紀は世界中のBtoB(企業間取引)プラットフォームや競売市場、さらには特殊な闇ルートの流通網にアクセスしていた。
今や彼女の「空間収納」の内部には、一国の軍隊すら数ヶ月は維持できるほどの膨大な物資が格納されつつあった。
・穀物サイロ丸ごと数個分に相当する乾燥米、小麦粉、大豆(数万トン単位)。
・大手製薬会社の工場から直接買い付けた原薬、抗生剤、麻酔薬、ビタミン剤。
・ミリタリーグレードの防弾繊維、特殊カーボン製のヘルメット、防刃衣。
・産業用の大型ドローン、赤外線サーモグラフィーカメラ、通信暗号化装置。
・ガソリン、軽油、重油、ジェット燃料を詰めた数千本の特殊ドラム缶。
空間収納の素晴らしいところは、どれほど重いものを入れても佐紀自身の身体に一切の負担がかからない点だった。
そして何より、「時間停止」の効果だ。
通常の備蓄であれば、燃料は数年で揮発・変質してゴミと化す。薬品は有効期限を過ぎれば毒となり、穀物は虫が湧き、米は酸化する。
だが、佐紀の空間の中では、すべての物資が「格納されたその瞬間の鮮度」を永遠に保ち続ける。
「10年前に入れた熱々のお弁当が、30年後の地獄でも湯気を立てて出てくる……本当に、恐ろしいほどのチート能力ね」
佐紀は世界中の物流拠点や港湾の倉庫を巡り、大量買い付けしたコンテナごと空間収納へと放り込んでいった。
支払いはすべて、ペーパーカンパニーを経由した正規の国際送金。
誰も怪しまない。ただの「資源商社による大規模な在庫確保」として処理されていく。
さらに、佐紀は「食料の質」にもこだわり始めた。
終末の世界で人間を狂わせるのは、単なる栄養不足だけではない。「味覚の絶望」だ。
毎日毎日、腐りかけた乾パンや塩辛いだけの缶詰を泥水で流し込む生活は、人間の正気をじわじわと削り取っていく。
「美味しいものを食べる権利は、私だけに許される」
佐紀は最高級の和牛、新鮮な海鮮類、最高品質のワイン、一流レストランの凍結料理、季節のフルーツ、有名店のスイーツなどを、大量に、惜しげもなく買い集めた。
それらはすべて、真空パックされた状態で空間収納の中へ消えていく。
三十年後、外の世界で人々が泥水をすすり、生き延びるために仲間同士で肉を削ぎ落とし合っているその瞬間にも、佐紀は快適な地下要塞の中で、A5ランクのサーロインステークに舌鼓を打ち、冷えたシャトー・マルゴーを傾けることができるのだ。
「……想像するだけで、ゾクゾクするわね」
赤ワインを一口含み、佐紀は一人、暗い部屋でうっとりと瞳を閉じた。
復讐とは、ただ相手を殺すことではない。
相手がこの世のあらゆる絶望と苦痛を味わっている最中に、己だけが至高の幸福と安全を享受すること。その圧倒的な「格差」こそが、最高の復讐なのだ。
第十三話 未来視の深化と国家レベルの影
逆行から五年が経過した。
佐紀の年齢は二十代半ばとなり、その身に纏う雰囲気はかつての気弱な少女の面影を完全に失っていた。
高級仕立てのスーツを着こなし、洗練された立ち振る舞いと冷徹な判断力を持つ彼女は、日本の財界においても「若き天才投資家」「新進気鋭の事業家」として一目置かれる存在になっていた。
資産額は、もはや円単位で計算する意味すら失われつつあった。
国内外の株式、貴金属、不動産、暗号資産、そして投資ファンドのポートフォリオを合わせれば、実質的な総資産は三千億円を超えていた。
信用取引や借金を一切せず、現物と自己資金のみでここまでの資産を築き上げた佐紀の存在は、政府の金融監視機関や外国の投資機関からも「異常な怪物」として注視されていた。
「田中代表、内閣府の経済財政諮問会議から、有識者メンバーとしての参加要請が届いておりますが……」
秘書が恭しく差し出してきた依頼状を見つめ、佐紀は薄く微笑んだ。
「お断りして。私は政治には興味がないの。ただの投資家に過ぎないわ」
「は、はい……承知いたしました」
秘書は疑問を挟むことなく退室していった。
権力の中枢に近づくことは、一見すると有利に思える。だが、国家機構というものは窮地に陥れば暴走する。三十年後の終末が近づいた時、下手に政府の中枢に突っ込んでいれば、己の資産やシェルターを「国家の危機」を名目に接収されるリスクが生じる。
(国家なんて、どうせ終末が来れば数日で崩壊するゴミくずよ)
佐紀の目的は、国家を救うことでも、人類を導くことでもない。
ただ一人、自分だけの絶対王国を完成させること。
そのため、彼女は政治家や官僚には「巨額の寄付を行う都合の良いパトロン」として振る舞い、一定の距離を保ち続けた。
一方で、佐紀は【未来視】の能力をさらに研ぎ澄ませていた。
日々の訓練により、未来視で見える映像の解像度は格段に向上していた。
単なる「株価の数字」や「ニュースの断片」だけでなく、特定個人の未来の行動や、特定の場所で起こる出来事をピンポイントで手繰り寄せることができるようになっていたのだ。
佐紀は意識を集中させ、かつて自分を裏切った者たちの「現在」と「未来」を覗き込んだ。
『対象:佐藤(元・隣人のバンドマン)』
現在:メジャーデビューの夢は破れ、零細企業の営業マンとしてパッとしない日常を送っている。数年後に同僚の女性と結婚予定。
『対象:小林(かつて佐紀の肉を削いだ包丁を持っていた女)』
現在:地方の短大に通う普通の女子学生。SNSに日常の写真を投稿し、友人とカフェ巡りを楽しんでいる。
『対象:渡辺(佐紀の脚を縄で縛り上げた男)』
現在:体育系の大学を卒業し、消防士として勤務。周囲からは「爽やかで頼れる青年」と評価されている。
画面を見るように、彼らの穏やかな日常が脳裏に浮かび上がる。
誰もが、自分が三十年後に「人間を喰らう化物」になるとは夢にも思っていない。
誰かを愛し、仕事に悩み、酒を飲み、将来のささやかな幸せを夢見て暮らしている。
「……ふふ……」
佐紀の口から、可憐で、そしてあまりにも邪悪な笑い声が漏れた。
「いいわね。とっても素敵な人生じゃない」
彼らが幸せになればなるほどいい。
大切な家族を作り、守るべきものを増やし、この平和な世界に未練を持てば持つほどいいのだ。
積み上げた幸せが大きければ大きいほど、それを奪われ、叩き落とされた時の絶望は深くなる。
「頑張って生きなさい。一生懸命、真面目に、幸せになりなさい」
佐紀は未来視のスクリーンを静かに閉じた。
「三十年後のあの日、私の足元で、その大切な家族と引き換えに一口のパンを乞うまでね」
第十四話 完成する第一要塞と暗黒の計画
逆行から十年目。
佐紀が三十歳を迎えた年、山梨県の深山幽谷の地下に建設されていた『第一地下要塞』が、ついに完全な完成を見た。
表面上は「厳重に管理された自然保護区」として高いフェンスと監視カメラ、そして自動警報システムで塞がれた敷地。
その地下五十メートルに広がるのは、最先端のテクノロジーと絶対的な閉鎖性を兼ね備えた、人類史上例を見ない個人用シェルターだった。
佐紀はエレベーターで地下深くへと降り立った。
重厚なチタン合金製の防圧ドアがシュンと音を立てて開く。
広大なエントランス。
完璧に温調・空調管理された空気は、森の中よりも清らかで澄んでいる。
壁面には最新の有機ELディスプレイが埋め込まれ、地上世界の景色や美しい自然の映像をリアルタイムで映し出していた。
要塞の内部構造は、極めて豪奢かつ機能的だった。
・最高級ホテルと遜色ない広大な居住区(マスターベッドルーム、スパ、シアタールーム、書庫)。
・水耕栽培および自動養殖システムを備えた、永久的な自給自足用グリーンハウス。
・最新の医療機器、手術室、全自動診断AIを備えたメディカルルーム。
・要塞全体のシステムを統括し、自律型防衛ドローンを制御する中央AIルーム。
・そして、何千トンもの物理物資を搬入できる巨大コンテナ格納庫。
「……素晴らしいわ」
誰もいない、静寂に包まれた地下空間で、佐紀は声を弾ませた。
ここには、飢えもない。寒さもない。理不尽な暴力も、他人の裏切りもない。
ただ、佐紀だけの完璧な平和と安全が約束されている。
佐紀は要塞の中央コントロールパネルの前に立ち、空間収納を開放した。
ドシャァァッ……!
地鳴りのような音とともに、十年間かけて世界中から買い集めてきた天文学的な量の物資が、コンテナ格納庫へと移されていく。
腐ることのない食料の山。
数万ガソリンのドラム缶。
最新型の防衛兵器やドローン。
山のような医薬品と、高級嗜好品。
広大な格納庫が、一瞬にして「文明の遺産」で埋め尽くされていく。
「これで、第一要塞の準備は完了ね」
佐紀は満足げに息を吐いた。
だが、彼女の計画はこれで終わりではなかった。三十年という時間は、まだまだ残されているのだ。
「次は……第二要塞の建設ね。九州の水源地帯か、あるいは北海道の地下か」
リスク分散のために、日本全国に同様の地下要塞をあと二つ建設する。
そして、それぞれの要塞を極秘の地下トンネルや自動ドローンネットワークで接続し、どのような事態が起きても絶対に詰むことがない「完全なるネットワーク」を完成させる。
金なら、いくらでもある。
【未来視】を使えば、世界市場から毎日数十億円の資金を無リスクで吸い上げ続けることができるのだから。
「お金で解決できる問題は、すべて問題ではないわ」
佐紀は自嘲気味に笑った。
終末の世界では、紙くず以下の価値しかなかった「お札」や「口座の数字」。
しかし、終末が訪れる前の今、その紙くずは己を「神」へと昇華させるための最強の魔法の資材となる。
「世界が滅びるまで、あと二十年……」
佐紀は要塞の防圧ドアを閉ざし、地上へと戻るエレベーターに乗り込んだ。
光が差し込む地上世界は、相変わらず呑気で、平和で、浅はかな笑顔に満ちあふれていた。
すれ違う人々の顔を眺めながら、佐紀は心の中でカウントダウンを刻み続ける。
(待っていなさい、愛おしい愚か者たち)
(私が創り出す最高の地獄で、あなたたちを待っているわ)
風が、佐紀の黒髪を優しく揺らした。
その瞳には、すでに人間としての迷いも、温もりも、一切存在していなかった。
ただ、氷のように冷たく澄み切った、絶対的な支配者の光だけが宿っていた。
第十五話 忍び寄る終末の影
逆行から二十九年が経過した。
街の風景は様変わりしていた。超高層ビルが立ち並び、街街には自動運転のEVが走り交い、人々はスマートフォンよりも高度なデバイスを手にして日常を謳歌していた。
技術は進化し、社会は一見するとより豊かで安全になったように見えた。
だが――佐紀だけは知っていた。
この表向きの繁栄こそが、破滅の直前に見せる「ロウソクの最後の輝き」であることを。
すでに、佐紀の年齢は五十代半ばに達していた。
しかし、彼女の容姿は三十代前半の若々しさと美しさを保ち続けていた。
空間収納に格納しておいた最高級のアンチエイジング医療、特別な栄養管理、そして何より「ストレスと無縁の絶対的な優位性」が、彼女の肉体を若々しく保ち続けていたのだ。
彼女が築き上げた総資産は、もはや国家の予算すら凌駕するレベルに達していた。
日本国内に三箇所、海外に二箇所建設された地下要塞はすべて完璧な状態で稼働しており、内部には地球上のあらゆる物資が「時間停止」の状態で蓄えられている。
そして、運命の「三十年目」の年がやってきた。
佐紀は都心の最高級タワーマンションの最上階ペントハウスで、グラスに注がれたヴィンテージのシャンパンを静かに揺らしていた。
窓の外には、1000万人の人々が暮らす大都会の夜景が広がっている。
「……今日ね」
佐紀は時計を見た。
午後11時45分。
あと15分で、あの日がやってくる。
【未来視】のスクリーンを開くまでもない。佐紀の記憶の中に、あの惨劇の始まりの光景は焼き付いている。
最初は、突如として発生した全世界規模の通信障害だった。
続いて、原因不明のバイオハザードと、異常気象による大規模なインフラ崩壊。
食料流通が完全にストップし、わずか一週間でスーパーの棚は空になり、一ヶ月後には街中に死体が転がり始め、三ヶ月後には人間が人間を狩る地獄が完成したのだ。
スマホが、不意に短い通知音を鳴らした。
佐紀は画面を見る。
『速報:太平洋上の複数の海底ケーブルにおいて原因不明の断線が発生。現在、国際通信に大規模な障害が……』
ニュースの音声が、途中でノイズ混じりになり、プツリと途切れた。
続いて、室内の照明が一瞬明滅し、静かに消えた。
タワーマンションの窓から見える大都会の夜景が、まるでドミノ倒しのように、端から順番に闇へと呑み込まれていく。
悲鳴。
車のクラクションの不協和音。
遠くで上がる爆発の炎。
平和だった世界が、音を立てて崩れ去っていく。
「ふふ……あはは……っ!」
暗闇の中で、佐紀は声を上げて笑った。
ついに来たのだ。
三十年間、この瞬間のためだけに生き、資金を集め、物資を蓄え、要塞を築いてきた。
佐紀はゆっくりと立ち上がり、漆黒のコートを羽織った。
手には、空間収納から取り出した自動拳銃と、最新型の暗視ゴーグル。
「さあ……パーティの始まりよ」
彼女は誰にも知られることなく、ペントハウスの秘密扉から専用のエレベーターへと足を踏み入れた。
地下深くへ向かって下降していくエレベーターの中で、佐紀の口元には至高の笑みが浮かんでいた。
かつて、太ももの肉を削がれ、惨めに殺された愚かな犠牲者はもういない。
ここにいるのは、崩壊した世界に君臨する、唯一無二の「絶対者」だ。
「喰われるだけの『餌』の時代は終わったの」
暗闇へと消えていくエレベーターの中で、彼女の言葉が冷たく響き渡った。
「今度は私が……あなたたちの絶望を、じっくりと貪り食ってあげるわ」




