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第六話 初期資金の倍増劇
液晶画面が発する微かな青白さが、薄暗い部屋の壁を淡く照らしていた。
画面に並ぶ数字は「184,200円」。これが、田中佐紀の現在の「全財産」だった。
「……まずは、この端金からね」
ベッドの端に腰掛け、佐紀は静かに息を吐き出した。
終末の地獄を生き抜き、そして太ももを削がれて死んだ女の思考は、三十年前の生温い日常に戻ってもなお、極めて冷酷かつ合理的だった。
【未来視】の力を使って資産を増やす。
その方針に迷いはない。だが、佐紀は己に一つだけ絶対の制限を課していた。
「信用取引、レバレッジ、借金……それらは絶対にしない」
一見すると、未来が見えるならば借金をしてでもレバレッジを極限まで掛け、一瞬で億単位の金を稼ぐのが効率的に思える。だが、佐紀は終末の世界で「不確定要素」がどれほど容易に人間を破滅させるかを知り尽くしていた。
未来視で見えるのは、あくまで「このまま行けば起こる確率が極めて高い事象」の断片だ。もし自分が過剰な資金を市場にぶち込み、市場そのものの生態系を急激に変えてしまったら? あるいは、自分の予期せぬ突発的な世界的事件が起きて未来の分岐線が変わったら?
破産して追証に追われれば、警察や金融機関にマークされる。
三十年後の終末に向けた準備において、国家や社会機構に「不審人物」として記録されることほど愚かなリスクはない。
「現物取引のみ。手元の現金だけで増やす。失敗してもゼロになるだけで、マイナスにはならないやり方を通す」
リスクを極限まで削ぎ落とし、ただ純粋な確率の優位性だけを貪り食う。それが佐紀の選んだ戦術だった。
目を閉じ、意識を脳内の「未来視」へと集中させる。
脳裏に、ざらついたノイズと共にチャートの波形と日付が浮かび上がった。
『銘柄コード:4891 サンライズバイオ』
『現在値:142円』
『3日後の後場終値:890円(ストップ高配分)』
弱小の創薬ベンチャー企業。長年赤字を垂れ流し、市場からも見放されているボロ株だ。だが、3日後の昼、この企業が開発中だった抗癌剤の初期治験において、奇跡的な有効データが得られたというニュースが突如として駆け巡る。
「よし」
目を開けた佐紀の瞳には、一切の躊躇がなかった。
証券口座の購入ボタンを押す。
指値は現在の売気配値。142円で1,200株。手数料を差し引くと、残高はほぼピッタリゼロになった。
「これで、第一段階は完了」
スマホをベッドの上に放り投げ、佐紀は背もたれに体を預けた。
普通の人間なら、全財産を弱小ボロ株に注ぎ込んだ直後は動悸が激しくなり、夜も眠れなくなるだろう。だが、佐紀の心拍数は驚くほど平穏だった。
自分の肉体が削ぎ落とされる感覚に比べれば、口座の数字が上下する程度の刺激など、ただの記号の羅列に過ぎない。
翌日。そして翌々日。
サンライズバイオの株価は140円から145円の間を力なく漂っていた。掲示板には「また騙された」「早く倒産しろ」といった個人投資家の悲鳴や罵詈雑言が書き込まれている。
佐紀はそれらを冷ややかな目で見つめながら、スーパーで買ってきた一番安い食パンに水道水を合わせてかじっていた。
「愚かね。目先の動きしか見えないから、いつでも食われる側になる」
そして、運命の3日目。
午後1時15分。
サンライズバイオから適時開示情報が発表された。
【開発中新薬『SR-01』のフェーズ2治験における画期的な有効性および安全性データの確認について】
市場が弾けた。
一瞬にして買い注文が殺到し、株価のチャートは垂直な断崖絶壁を描いて跳ね上がった。
145円、200円、300円――あっという間にストップ高に張り付き、買気配のまま板が固まる。
翌日も、その翌日も、寄り付き段階から圧倒的な買い注文が集中し、連日のストップ高配分。
佐紀は静かに待った。未来視で見えた「売りのピーク」となる4日目の前場。
株価が910円を付け、買い勢力が一瞬だけ弱まるその瞬間に、あらかじめ設定していた売り注文を滑り込ませた。
『約定通知:1,200株 売却価格:905円』
口座残高:1,086,000円(税引前)。
わずか数日で、全財産は約6倍へと跳ね上がった。
「100万円……まずは最低限の種銭ができたわね」
佐紀の唇が、わずかに歪んだ。
歓喜ではない。冷徹な計算が、次の段階へと駒を進めたことに対する確認の笑みだった。
第七話 確実なる資産倍増の方程式
100万円という金額は、一般の感覚からすればまとまった大金だ。だが、三十年後の終末を生き抜くためのシェルター建設、大量の備蓄物資、特殊機材の調達費用を考えれば、塵に等しい。
「目標は、最低でも数十億円。できれば百億規模」
そのためには、この100万円をさらに効率よく膨らませなければならない。
佐紀は再び自室に籠もり、未来視の精度を高める訓練を開始した。
未来視は万能ではない。意識を集中しすぎると激しい頭痛と眩暈が襲い、長時間の閲覧は精神を削る。だからこそ、閲覧する情報は「最も効率よく資金が増えるポイント」に絞り込む必要があった。
『ターゲット:決算発表時の下方修正および上方修正によるギャップアップ・ギャップダウン』
『ターゲット:海外の突発的な地政学的リスクによる原油・貴金属価格の変動』
佐紀はノートを開き、未来視で見えた情報を淡々と書き留めていった。
「〇月〇日:大手電機メーカーC社、深夜の粉飾決済発覚で急落」
「〇月〇日:中東でのパイプライン爆発事故により、石油関連株が一時的に高騰」
「〇月〇日:中堅ゲーム会社D社、新作アプリの世界的ヒットで株価10倍化」
彼女の手法は徹底していた。
信用取引や先物取引のレバレッジは絶対に使わない。
常に「現物買い」のみ。
株価が急上昇する直前の銘柄に100万円を全額投入し、ピークで即座に売り抜ける。
あるいは、確実に底値を打った大型株に資金を集中させ、数週間で20%から30%のリターンを確実に回収する。
一回ごとの増益幅は、無理なレバレッジを掛けない分、爆発的ではないかもしれない。
しかし、「負けがゼロ」なのだ。
複利の効果は、投資の世界において最も恐ろしい悪魔であり、最強の味方でもある。
100万が、130万になる。
130万が、180万になる。
180万が、250万になる。
250万が、400万になる。
一ヶ月後、佐紀の口座残高は500万円を超えた。
三ヶ月後、口座残高は2,400万円に達した。
半年後、口座残高は1億2,000万円を突破した。
現物取引だけで半年で1億円を作り出すなど、通常の金融市場では都市伝説かインサイダー取引を疑われるレベルだ。事実、証券会社のコンプライアンス部門から佐紀の口座に対して何度か確認の連絡が入った。
だが、佐紀の取引履歴には何の落ち度もなかった。
インサイダー情報を入手した形跡もなければ、違法な情報交換の形跡もない。ただ「運良く、驚異的な相場観を持った個人投資家が、自分の判断で売買を繰り返している」ようにしか見えないのだ。
「確認のお電話ですか? ええ、すべて自分の判断で購入しています。何か問題でも?」
電話口で、佐紀はどこにでもいる少しラッキーな若い女性の声を装って対応した。相手の担当者は「いえ、確認でございます。素晴らしい投資成果ですね」と舌を巻いて引き下がるしかなかった。
「……ふう」
電話を切ると、佐紀の顔から一瞬で感情が消え去った。
「1億円……ようやく、本格的な『準備』が始められるわね」
第八話 物資収集の第一歩と空間収納の検証
資金が1億円を超えたことで、佐紀は単なる「資金運用」から「物資の本格的な試行収集」へと行動をシフトさせ始めた。
彼女はまず、郊外にある大型のレンタル倉庫を匿名性の高い契約方法で一つ借り受けた。
そして、ネット通販や業者向けの卸売サイトを利用し、大量の物資を注文し始めた。
注文した品々は多岐にわたる。
・保存水(2Lペットボトル換算で数千本)
・米、缶詰、乾麺、フリーズドライ食品(数千食分)
・医療用消毒液、抗生剤、包帯、解熱鎮痛剤、サージカルマスク
・業務用防寒具、頑丈な作業服、軍手、タクティカルブーツ
・ソーラーパネル、ポータブル電源、LED投光器
これらをレンタル倉庫へと配送させ、配達員が去った後、佐紀は一人で倉庫に入り、引き戸の鍵を固く閉ざした。
倉庫の中には、ダンボールの山が天井近くまで積み上がっている。
普通の人間であれば、この量を運ぶだけでも途方に暮れるだろう。だが、佐紀は静かに右手をかざした。
「収納」
無音。
ダンボールの山が一瞬で消え去り、広い倉庫の中にポツンと佐紀一人が残された。
脳裏にある「暗闇の空間」を確認する。
整然と積み重ねられたダンボール群。それらは時間の流れを完全に停止させた状態で、無限の広がりを持つ虚無の中に静かに浮遊していた。
佐紀は空間から缶詰を一つ取り出し、缶の表面に触れた。
常温で買い取ったはずの缶詰だが、収納内部の絶対的な状態維持のおかげで、劣化の兆候すら一切ない。
「……完璧ね」
佐紀の瞳に、確信の光が宿る。
食料や水だけではない。
今後、三十年かけて集めるべきものは山ほどある。
ガソリンや軽油などの燃料(通常なら数ヶ月で劣化して使い物にならなくなるが、空間収納なら三十年後も新品同様で使える)。
精油や各種医薬品(化学変化を起こさず、薬効を保ち続ける)。
防弾・防刃ベスト、大型の発電機、防犯カメラシステム、浄水設備。
金さえあれば、この世界のあらゆる「文明の産物」を、最高品質のまま三十年後の地獄へと持ち越すことができるのだ。
「お金は、まだまだ足りない……」
1億円など、序の口だ。
一家族が生き延びるためだけなら十分かもしれない。だが、佐紀が目指しているのはそんな生ぬるいサバイバルではない。
「私だけの完璧な要塞を造る。誰も入れず、誰も奪えず、私一人だけが絶対的な神として君臨する場所を」
そのためには、数十億、いや百億円単位の資金が必要になる。
佐紀は再びパソコンの前に座り、証券口座を開いた。
「次のターゲットは……海外市場ね」
国内の株式市場だけでは、自分の取引金額が大きくなりすぎて市場に影響を与えてしまう(マーケットインパクト)。だからこそ、次は膨大な流動性を誇る米国株、そして世界的な貴金属相場へと資金を流し込む計画を立てた。
米国企業の大型買収劇、巨大IT企業の上場、原油先物の暴落と急騰。
未来視で見える「世界の波」に乗れば、1億円を10億円にするのは、それほど難しいことではない。
「着実に……借金もせず、誰にも怪しまれず、ただ静かに膨らませる」
佐紀の指が、キーボードの上を滑らかに踊った。
第九話 日常の皮を被った怪物たち
夕方、買い出しから戻った佐紀は、アパートの古い階段を上っていた。
手には、スーパーの安いビニール袋。中身は卵と豆腐と、見切り品のキャベツ。
どこからどう見ても、慎ましく一人暮らしをする若い女性の姿そのものだった。
階段の踊り場に差し掛かった時、上の階から足音が響いてきた。
「あ、田中さん。お疲れ様です」
爽やかな声だった。
手すりを掴んで降りてきたのは、隣の部屋に住む青年――佐藤だった。
ヨレヨレのTシャツにジーンズを履き、ギターケースを背負っている。バンドマンを目指してバイトに励んでいるという、どこにでもいる気弱そうで親しみやすい青年だ。
かつての終末の世界で、飢餓に苦しむ佐紀に「これ、余ったから食べてください」と、乾パンの袋を照れくさそうに差し出してきた男。
そして――数年後、肉に飢え、狂気に目を血走らせながら、佐紀の両腕を体重で押さえつけていた男。
『おい、しっかり押さえろ! 動かされると肉がうまく切れねえだろ!』
『分かってるよ! 痛そうに泣き叫ぶなよ田中さん、俺たちだって生きるために必死なんだからさ!』
佐紀の脳裏に、あの日耳元で囁かれた男の濁った声と、皮膚に擦れ落ちた汗の感触が、一瞬でフラッシュバックした。
息が詰まるような殺意が、喉の奥まで込み上げてくる。
だが――
佐紀の表情は、ピクリとも動かなかった。
瞳の奥に凍りつくような冷気を秘めたまま、彼女は完璧な「隣人としての笑顔」を作ってみせた。
「あ、佐藤さん。お出かけですか? 練習頑張ってくださいね」
「あはは、ありがとうございます! なかなか曲がまとまらなくて……あ、そういえば昨日、実家からミカンが届いたんですよ。良かったら後で少し分けますね!」
「本当ですか? 嬉しいです、ありがとうございます」
頭を下げ、すれ違う。
佐藤は何の疑いもなく、軽やかな足取りで階段を下りて行った。
その背中を、佐紀は振り返ることなく、ただ無感情に見送った。
(そう……今はまだ、その顔をしていて)
心の中で、佐紀は静かに呟いた。
(今はまだ、親切で、気弱で、優しい『佐藤さん』でいてちょうだい)
殺すのは簡単だ。
今、この場でナイフを突き立てて殺すことも、空間収納を使って跡形もなく消し去ることも、今の佐紀なら造作もない。
だが、そんなものは復讐ではない。
ただの突発的な殺人であり、警察に追われて自分の計画を台無しにする愚行だ。
(本当の地獄はね、佐藤くん……)
佐紀は自分の部屋の鍵を開け、中に滑り込んだ。
(三十年後、世界が崩壊し、お前たちが飢えと乾きで狂いそうになった時に訪れるの)
お前たちが「助けてくれ」「一口でいいから食べ物をくれ」と地面に這いつくばって泣き叫ぶ中、私は完全な要塞の中で、腐ることのない温かいご馳走を食べながら、高みの見物をしてやる。
お前たちが互いの肉を喰らい合い、惨めにお互いを殺し合う姿を、特等席で見届けてやる。
「それが、私があなたたちに用意してあげる、最高のエンディングよ」
暗い室内で、佐紀はカチリと部屋の明かりをつけた。
第十話 三十年後の絶対領域に向けて
夜。パソコンの画面には、米国株式相場のリアルタイムチャートが描かれていた。
佐紀は未来視の力を使い、数日後に控えた大手IT企業の決算発表に伴うボラティリティを予測していた。
『1億2,000万円を、全額投入』
『米国株「N-VIDIA」現物購入』
レバレッジは掛けない。だが、完璧なタイミングでエントリーし、完璧なタイミングでイグジットすれば、1億の資金は一ヶ月で2億、3億へと確実に成長する。
「資金が10億円を超えたら、法人を設立しよう」
佐紀はノートに今後のロードマップを書き加えていった。
第一段階(1年目〜3年目):資産形成期
・未来視を用いた株式・為替・貴金属の現物取引。
・自己資金のみで無借金で資産を50億円規模まで拡大。
第二段階(4年目〜10年目):土地・拠点確保期
・ペーパーカンパニーを通じ、国内の過疎地および水源豊かな山林地帯(地下水脈が豊富な場所)を広大に買収。
・表面上は「環境保護団体」や「民間リゾート開発」を装い、極秘裏に地下シェルターの建設を開始。
第三段階(11年目〜25年目):完全備蓄期
・世界中からあらゆる物資(食料、燃料、医薬品、兵器級の防犯設備、循環型発電プラント)を無制限に買い集め、空間収納へ格納。
・時間の停止した収納庫内に、人類の文明そのものを保存する。
第四段階(26年目〜30年目):最終待機期
・要塞の最終確認。
・かつての「加害者たち」の居場所と生活環境を完璧に把握・監視し、終末の瞬間を待つ。
「三十年……」
ペンを止め、佐紀は窓の外の街並みを見下ろした。
眩いネオンサイン。楽しそうに歩くカップル。酔っ払いの歓声。
この街にいる誰もが、三十年後に訪れる地獄を知らない。
自分たちが、最終的には互いの肉を削ぎ落として貪り食う「けだもの」へと変貌することすら知らずに、平和な日常を貪っている。
「愚かで、惨めで、愛おしい世界」
佐紀の瞳には、一切の哀憐はなかった。
彼女はもう、食われる側の「餌」ではない。
神から与えられた圧倒的な時間と、絶対的な力【空間収納】と【未来視】を携えた、この世界の裏に潜む「絶対的な捕食者」だ。
「借金もしない。ボロも出さない。誰にも邪魔させない」
指先で液晶画面をタップし、数千万円単位の買い注文を次々と確定させていく。
画面上で口座の数字が跳ね上がり、彼女の絶対的な帝国の礎が、また一つ強固に築き上げられていく。
三十年後のカウントダウンは、すでに始まっていた。
そして田中佐紀は、漆黒の微笑みを浮かべながら、その一歩を踏み出し続けるのだった。




