鳥居 夢 境界
蕎麦屋を出て、社務所を訪ねた。お祓いを申し込むと、思いのほかすんなりと受け付けてもらえた。拝殿での儀式が終わると、宮司はそのまま社務所の一室に招き入れてくれた。
差し出されたお茶からは、まだ細く湯気が立っていた。
「変な夢の話、というのを聞きまして。ちょっと気になって伺ったんですが」
そう切り出すと、宮司は湯呑みを両手で包んだまま、少しの間だけ黙っていた。
「……今年に入ってからですかね。どうにも、胸のざわつきが収まらんのです」
宮司はお茶を啜り、どこか遠くを見るような目をした。
「理由を聞かれても困るのですがね。長年ここで神様のお給仕をしておりますと、たまにあるのです。説明のつかない『予感』とでも言いますか……参拝に来られる皆さんに、どうしても伝えておかなければいけないような気がしてね」
そう言って宮司は、こちらの顔を静かに見つめた。
「境界、というものがあります。鳥居はね、神様の世界と人間の世界の境界を示すものです。『ここからは特別な場所ですよ』と教え、同時にあちら側のものを安易に跨がせないための結界でもある。ですが……夢の世界には鳥居がありません。どこからが『こちら』で、どこからが『あちら』なのか、境目が極めて曖昧なのです」
宮司は自分の大きな手をゆっくりと開いて見せた。
「もしも……万が一、何かおかしな夢に迷い込んで、身の危険を感じるようなことがあったらね。迷わず自分の手のひらをじっと見なさい」
「手のひら、ですか?」
「ええ。手相でも、爪の形でもいい。夢の世界はあやふやなものです。どれほど精巧に見えても、貴方自身の『肉体の輪郭』までは映し出せない。自分の輪郭を強く思い出すこと。それが、境界のない夢の中で貴方を繋ぎ止める、貴方だけの『鳥居』になります」
宮司は困ったように苦笑いを浮かべ、お茶の湯気をふうと吹き消した。
「変なことを言ってすみませんね。ネットだの噂だのは疎くてさっぱりですが……どうにも今年は、そういう『あやふやな境目』に引っ張られそうな人が増えている気がしてならないのですよ」
それ以上、宮司は多くを語らなかった。話の出所も、根拠も、はっきりとは示されない。それでも、その言葉には妙な実感がこもっていた。
社務所を辞し、鳥居をくぐって石段を下りながら、さっき見せられた自分の手のひらを、もう一度見つめてみた。
手相も、爪の形も、いつも通り見慣れたものだった。それだけのことが、今はやけに心強く感じられた。




