弐の零
「ちょっと。食事を用意しておけと言ったでしょ? どうして何もしてないのよ」
「ご。ごめんなさい、お母さん」
「お母様、でしょうが! お前は子爵家の血を引く娘なのよ! 少しはお嬢様らしく出来ないの? こんなんじゃああたし、いつまで経っても旦那様に本邸に迎えていただけないわ」
本当に役に立たない子ね!
そう目の前で吐き捨てられ、飛んできた唾に眉を顰める。
昨晩ふらりと出かけていき、昼に帰ってきた母からは、白粉と、それから強い酒の臭いがした。
「お前がせめて男だったら、あの女の立ち位置ごと奪ってやれたのに。生まれた時から思い通りにならないんだから、ったく」
――帝都の隅っこに位置した、小ぢんまりとした家。実父である綾小路子爵が、愛人である母を囲うために用意した住処だった。
庶民の母娘二人暮しにしては立派ではあったが、昔から母はこの家が――『綾小路家本邸』に比べて遥かに狭く、粗末な家が、そしてそんな家にしか住めない自分に腹が立って仕方がなかったらしい。
妾宅が本邸に比べて粗末であるなど当然のことだ。
しかし華族の優雅な暮らしを夢見る母は、小さな家で、召使いもいない、使える金も少ないこの暮らしを心底忌々しく思っていたのだ。
「地味な着物、髪もぼさぼさ。せっかく可愛く産んでやったのに、何もできないんだから。しかも後継者になれない女なんてね。なんのために産んだんだかわかりゃしない」
「お母さ、お母様。ごめんなさい……わたし」
「いい? 役立たずに生きてる価値はないの。あたしは美しいから、あの人の役に立ってる。女として価値がある、ということなの」
あたしの役に立ちなさい。――そう、母は言う。
血のように赤い唇と、きつい酒精の刺激臭が、目に痛かった。
「はあ、呑まなきゃやってらんないわ。子爵様も暫くいらっしゃらないそうだし。ちょっと、まだ黒麦のが瓶であったでしょ。取ってきて」
「お母さま、おさけ、飲みすぎだよ。わたしお水持ってくるから……」
「はあ? あたしに指図しようってわけ? 何も出来ない、何も役に立たないお前が?」
鼻で笑った母が、次の瞬間――鬼のように眉尻を吊り上げ玄関脇に飾られていた陶器の置物を振り払った。
甲高い音がして置物が割れ、破片が飛び散る。
「櫻子」
「はい、お母様」
「お前、一度でもいいから、あたしにお前を産んでよかったと思わせて頂戴。今のままじゃお前はあたしにとっての足枷でしかないの」
「足かせ……」
「そうよ。何もない人間を、ひとは愛さない。……あの人とあの女のあいだにも娘はいるんだから、あの人にとって、お前は『余分な』娘なの。だったらせめてその娘よりも有用であることを証明しなくちゃあね……」
母の言葉は、まさしく呪縛で、毒で。
それでも、ある種の真実だったのだろうと、今でも思う。




