壱の六
「嫌あああっ」
なんなのだ、これは。
この幻は未来の光景なのか。だとしたら、わたしはこの後、惨めに没落するというのか。姉の男となった、兵藤雪哉のせいで――。
そもそもどうしてこんな幻を見る? 悠真さまの手を取ってはいけないという警告? それとも、わたしに予知の異能が発現したのか。
(違う。だってわたしは何もしてない。霊力も使っていない)
なぜなら異能は霊力によて発動するものだ。
霊力とは、身体のうちを巡る超自然的な力であり、その多寡にかかわらず万人が保有するもの。
異能を使えばその霊力は減る。けれどもわたしの霊力は、ひとひらたりとも欠けてはいない。
「うっ、あ……! 痛い、誰か……、助け……」
目が、霞む。耐えられずにその場に蹲り、石畳に手をついた。
頭が心臓そのものになったかのようだ。脈打つように、鈍痛が繰り返されている。
一方で、わたしの脳は、どこか冷静に冴えていた。
(……わたしは一体、何から助けてほしいの?)
この頭の痛みから? この幻から?
――それとも、幻によって暗示された未来から?
わたしは足下の石畳の砕石に爪を立てた。整えた爪の先が、僅かに欠ける。
異能も使えない役立たずのくせに、一端の華族令嬢としての生活を創る無能なお姉様が幸せを掴んで、わたしが破滅する? そんなことがあっていいはずがない。
許せない。絶対にそんなこと、認められない。
「ううっ、う……」
――けれど、あの幻はきっと、本物の予知だ。
霊力が減っていないことから、今の幻がわたしの力でないことは明らかだが、見たものが単なる妄想でないことは本能的に理解した。
して、しまった。
(このままなら、わたしは何もかも喪う)
であれば、どうすればいい?
没落なんて末路は絶対に御免だ。今までなんのために努力を重ねてきたと思っているのか。
(今のが予知なら……お姉様を尊重しろ、ということをわたしに報せたの?)
綾小路菫子を姉として敬し、大切にし、彼女と仲良くすればいいのか。
そうすれば、兵藤雪哉の怒りを買わず、お父様たちはともかく自分だけは助かることができる――?
(仲良く、ですって? 敬え、ですって?)
あの、お姉様を?
そこまで考えた時、こちらに駆けてくる足音が聞こえてきた。
慌てたような足音だ。綾小路の家人や悠真さまだろうか。
顔を上げたかったが、頭痛のせいでうまく頭が持ち上がらない。視界には石が映るばかりで、周りを確認することができない。
情けなさに歯噛みしたところで、わたしの傍に屈む人影があった。悠真さまが呼んでくださった人が来たのだ――、
「櫻子! 大丈夫? しっかりして!」
(……は?)
朦朧とするなかその声を聞き、わたしの意識は一気に冴え渡った。
どうして姉が、菫子がここにいる?
「たいへん、顔が真っ青だわ……! 早くお父様とお義母様に伝えなくては」
「菫子。まずは屋敷に運ぼう。人も連れて来ているんだから」
「突然頭痛を訴え出したのでしょう? こんなに……起き上がれないほど酷いなら、無闇に動かすのはいけないと思います。運ぶより、お医者様を連れてくるべきです」
「そ、そうか。そうだね。……すぐに呼んできてくれ!」
「櫻子、聞こえる? しっかりして」
肩と背中を支えられるようにして抱き起こされる。心底案じている、とでも言いたげな紫の瞳と、視線がぶつかる。
「櫻子」
――どうして。
どうしてそんなに必死になれるの。心配そうな顔ができるの。
わたしはお姉様をずっと見下しているのに。計算であなたの好きな人を奪おうとしているのに。何度意地悪を言ったかもわからないくらいなのに。
(なんで……)
悠真さまが連れてきた訳ではないだろう。姉に負い目がある彼は、好き好んで姉にかかわりたがることはない。
つまり姉は、わたしの異変を聞きつけて、わざわざ飛んできたのだ。
(どうしてよ)
わたしは母とは違う。寄って集って姉を虐めたりはしていない。……それでも、姉がわたしを嫌うに値する振る舞いをしてきた自覚がある。
だってわたしはお姉様が、大嫌いだから。
(気持ち悪い……!)
理解できない。どうして嫌いな妹を心配できるのか。わたしが姉なら、知らないふりをして後から「そんなことがあったなんて」と可哀想がって、腹の中でざまを見ろと嗤うところだ。
それとも史上最高の治癒異能を秘める女は、特別慈悲深いということか。ただ養成学校を一位で卒業した程度の凡人なんて、対立する価値すらないというのか。
「櫻子、」
「……して」
「え?」
「離してよ」
痛む頭はそのままに、姉の手を振り払う。触れれば折れてしまいそうな細腕に、まめも赤切れもない、下働きを知らない白魚のような手。
――ああ、やはり御免だ。
この女と仲良しこよしだなんて。
たとえ没落しようが破滅しようが、姉に遜って、姉の男に慈悲を乞うなんて、死んでも嫌だ。
「わたしはあなたに助けてもらうほど弱くない」
痛みにも慣れてきた。幻を――未来を見てから、しばらく時間が経ったせいか。
わたしは足に力を込め、ふらつきながらも立ち上がる。
「櫻子。駄目よ、無理をしないで」
「平気だって言ってるでしょ。疲れただけよ。自分で歩いて、医務室に行くわ。……ごめんなさい悠真さま、手を貸してくださる?」
「え? ああ。もちろん……」
「ありがとう」
わたしは悠真さまに身体を支えてもらいながら歩き出す。そして肩越しに、後ろに立つ姉を見た。
寂しげに目を伏せる姉に、ハ、と小さく鼻を鳴らす。
(……上等じゃないの)
わたしが破滅するのは、恐らく、姉の怒りのせいではない。気色が悪いほどにお人好しな姉を愛する兵藤の怒りによって、未来を閉ざされるのだ。
であれば兵藤雪哉を怒らせようが、関係ないほど強くなればいい。
この国の英雄、【白】が手を出せないほどに強く――。
「やって、やるわ」
「……櫻子?」
わたしは姉に遜らない。破滅もしない。絶対に。
姉が千年に一人の逸材ようが、最高の男を捕まえようが、関係ない。
綾小路櫻子の方が、綾小路菫子よりも秀でていると、認めさせてやる。




