壱の五
「ッ……!?」
「櫻子!?」
酷い頭痛に立っていられず、そのままその場に蹲る。仕立てたばかりの着物の裾が地面に擦れて汚れる。
なんだ、今のは。
わたしが言おうとした言葉を――。
『お前の名前は、なんという』
『す……菫子。綾小路菫子と申します』
次は、知らない男と姉の声が頭に響いた。
頭痛とともに声が脳みその中で鳴っているようだ。鈍く重い痛みに浅く呼吸を繰り返し、ぎゅうと瞼を閉じる。
途端、瞼の裏に突如として、姉と見知らぬ男の姿が映し出された。帝都の活動写真よりもなお鮮明に――まるで、目を閉じているのに目を開いているかのよう。
しかも、わたしが今『視て』いるのは、知らないはずの光景だ。
(何? なんなの、これは)
怪我を負っているらしい、護士軍の軍服を纏った青年に姉が寄り添っている。青年はひどく驚いている様子で、姉を見つめている。
美しい青年だ。着用している軍服の誂えから、相当な身分の高さが窺える。しかも――、
(白銀の髪。「色持ち」だわ)
それも、悠真さまとは格が違う。圧倒的なまでの「水」の霊力の保持者。
この青年は一体何者だ。
『怪我が……そして何より妖魔の呪毒が消えた。お前は一体、何者だ』
『わたしは……』
『いや、先に俺が名乗ろう。俺の名は兵藤雪哉。帝國護縁士軍少佐を拝命している』
兵藤雪哉だって?
どういうことだ。兵藤雪哉といえば、【五色の雄】の【白】ではないか。当代最強の一角にして、階級にかかわらず帝國軍元帥の直属となる『戦略級』の護士。
火の【紅】、風の【碧】、雷の【紫】、土の【金】、そして水の【白】――我が国が誇る、五人の英雄。
(しかも彼は兵藤公爵の長男。次期公爵でもある御方……そんな人がどうして、お姉様と?)
いや、そうではない。
わたしはどうしてこんな幻を見ている?
しかも悠真さまに婚約の申し入れをしていただいた、今、ここで。
それにわたしは兵藤雪哉さまのお顔を知らないはずなのだ。当代の【五色の雄】を扱う授業で、名前と素性を教えられたのみ。……妖魔は知性があり、強くなるほど潜伏も上手くなる。ゆえに、情報漏洩を防ぐため国の英雄の情報は厳しく統制されているのだ。それは、プロパガンダのための報道でも例外はない。
――だというのに彼の持つ色彩を、その顔を、ここまで鮮明に『視る』ことができているのは何故?
「櫻子! 櫻子、しっかりしてくれ」
「ゆ、まさま……」
「待っていてくれ、すぐに人を呼んでくるから!」
悠真さまが走り去る足音すら遠くに聞こえるようだ。
瞼の裏に移る光景は、目まぐるしく変化していく。
――『その中』にいるわたしは、既に悠真さまと婚約を済ませているようだった。
そして帝國護士軍准尉として小隊を組み、そこそこまともに手柄を上げている。そのために綾小路家の評判は上がり、わたしの評価もそれなりに上がり――反対に姉はさらに母や母の使用人たちに虐められるようになっていて。わたしも、同様に姉を今まで以上に蔑んでいた。
そんな中、姉菫子は兵藤雪哉と出会う。
その時の彼は、この国が誇る英雄でも手古摺るほどに強力な妖魔を討伐したものの、その腕に妖魔の毒を浴びてしまい、得物である刀を握れなくなることを危惧されていた。
設けられた休養の期間を落ち着かない気分のまま散策に使っていた彼はそこで――帝都内に出没した小型の妖魔に遭った。具体的には、買い物に出掛けていた綾小路菫子が、妖魔に襲われているところに出くわした。
『無事か』
『は……はい! ありがとう存じます』
手負いであろうと雑魚を屠るなど、英雄にとっては造作もない。綾小路菫子を助けた彼は、彼女を助け起こそうとして、その手に触れ――、
瞬間。
綾小路菫子の手から漏れ出した霊力によって、兵藤雪哉は毒素に侵された腕が治癒されたのを自覚したのだ。
『これは……!』
(何? 何が、どうなっているの?)
幻の中の兵藤雪哉と、己の思いが重なり合う。
有り得ない。火水土風雷に分類されない異能はそもそも希少だが、治癒の異能はその中でもさらに希少なものだ。腕利き軍医の中でも治癒を使えるものは少なく、妖魔の毒を治癒するほどの異能など、史上類を見ない。
(おかしい。有り得ない、そんな)
幻の中の姉は、常識を転覆させるほどの治癒異能の持ち主であることがわかったことで、兵藤雪哉に見初められた。子爵家令嬢でありながら地味な着物を纏い、使用人がすべき雑用を押し付けられていることも、彼の同情を買ったらしい。『大いなる力を持ちながら、清廉で優しく、控えめな令嬢』である綾小路菫子に次第に惹かれていった兵藤雪哉は、彼女を自分の婚約者にしたいと望んだのだ――。
(嘘。嘘、嘘!)
幻の中の姉は兵藤雪哉に愛され、幸せそうに笑っていた。
対して綾小路家は『兵藤雪哉の愛する婚約者』を虐めていた実家として、華族社会で孤立していった。そのせいで立場の弱くなったお父様は、今まで小競り合いをしてきた政敵に嵌められ、現体制批判の急先鋒として捕らえられる。そうして綾小路家はお取り潰しとなってしまう。
わたしも、家と共に没落したようだった。悠真さまに捨てられ、軍にもいられなくなり、名誉も誇りも何もない、惨めで貧しい暮らしに戻る――。




