参の六
しかしまあ、あの母が、事態をそのままにしておく訳もない。
父と姉、そして兵藤雪哉が三人で今後のことを話し合っているあいだ、わたしは自室で異能についての論文に目を通していたのだが、お母様は突然そこに押し入ってきたのである。
「一体何がどうなっているのよ! 櫻子、あなたが兵藤様を射止めたんじゃあなかったの!」
「お母様……」
「それをどうしてあの無能などに掠め取られているのよ! 説明なさい!」
お母様の顔はわかりやすく怒りで真っ赤になっていた。さすがに、三人の話し合いの場にまで踏み込んではいかないだけの理性はあったらしい。あるいは、踏み込んでいこうとしてお父様の側近に止められたのか。
……きっとわたしが激昂したら、この母そっくりなのだろう。
お母様の怒りは尤もだ。
幼少の頃より、父の亡き前妻に対抗心を燃やしていた彼女は、前妻の娘よりもわたしが優秀であるということに誇りを持っていた。だというのにこんなところでひっくり返されては、激怒するのも当然だろう。
――役立たずに価値はないのだから。
「ごめんなさい、お母様。わたしも、お姉様のことを異能が使えない女だと思っていて、それで」
「謝って何になるって言うのよ! あ、あ、あの無能が、あの女の娘が、公爵令息の嫁ですって? 冗談じゃあないわ。どうしてくれるのよッ」
「大丈夫よ、お母様。きっとわたし強くなって、軍人として、お母様の自慢の娘になってみせるわ。お姉様みたいに男なんかに頼らなくったって、こんな娘を育てたなんて流石だと、お母様が言えるようにするから――」
「そんなことはどうでもいいのよ!」
お母様の金切り声が、耳を劈く。
「いいから、とっとと奪い返してらっしゃい」
「奪い返して、って」
「兵藤様が相応しいのは、あの女の娘ではなく、あたしの娘よ。つまり、兵藤様はお前のものなの。……できるでしょう? お前はあたしの娘なんだから」
「……お母様、落ち着いてくださいな。わたしは別に、兵藤様の婚約者になりたいだなんて思ったことはないんです。いいではありませんか、お母様がお姉様のことをお嫌いなら、お姉様にはさっさと兵藤家に移ってもらえば。そうすればお母様のお心も」
バシッ。
耳のすぐ側で弾けるような音がした。――母がわたしの頬を平手で打った音だった。
あの、小ぢんまりした妾宅では、よく聞いていた音だ。
「……本当に物分かりの悪い子ね」
「お母様」
「昔よりは役に立つようになったと思っていたけど、相も変わらず愚図のまま。……わかっているの? お前があの無能よりも劣っていると世間に思われたら、あたしの面目は丸潰れよ。そしてまた、昔のように有象無象に母娘揃って『妾』だの『妾腹の子』だのと侮られる日々が来るの。血の滲むような思いをして、ようやく子爵夫人として尊敬されるようになってきたというのに……!」
聞いているの! そう叫んで、お母様はまたわたしの頬を打った。
避けるのは容易だったが、しなかった。そうすれば逆上するのは目に見えているし、そもそもお母様の怒りを買ったわたしが悪いのだ。
「櫻子。お前はあたしを貶めたいの?」
「そのようなこと、あるはずがないではありませんか」
「なら、どうして口答えなんてするのよ。お前は昔からそうよ。いいえ、生まれた時からそう。あたしの思い通りにはならなかった……。ねえ、櫻子。どうしてお母様の役に立ってくれないの? お母様のことはどうでもいいの? お前が今、子爵令嬢でいられるのが、誰のお陰なのかわかっているの? ねえ」
「お母様、」
「この……この、役立たずが!」
お母様が、大きく手を振りかぶる。
わたしは思わず目を瞑る。小さな子どもだったあの頃と同じように。
そうして痛みとあの音を待ち――しかし。
いくら待っても、頬に衝撃は来なかった。
なぜなら、
「なっ、離し……離しなさいよ! 気安く触るんじゃあないわよこの無能が!」
「離しません! お願いですお義母さま、櫻子を殴ったりしないで……!」
姉菫子が、振りかぶったお母様の手を掴んでいたからだ。




