参の七
唖然としていると、必死の形相のお母様とお姉様の後ろから、呆れ果てた表情の兵藤雪哉と、青褪めきったお父様が顔を見せる。
「まったく、何の騒ぎかと思いきや。会話の内容が、応接間まで響いてきましたよ。子爵夫人」
「……ああ兵藤様、よく来てくださったわ。どうかお聞きくださいませ、菫子を婚約者になどするくらいなら」
お母様が身を乗り出したところで、お父様が慌てた様子で、「公子!」と声高にそれを遮った。そして焦慮を顔に滲ませつつ、お母様の腕を掴む。
「か、家内が失礼を。これは少し疲れているようだ。奥で休ませて来るので……ほら、お前、来るんだ!」
「どうして? あなた、あたしはまだ公子様に申し上げたいことが」
「いいから来なさい! お前はどれだけ私に恥をかかせれば気が済むっ」
父に引き摺られていく母を呆然と見送る。
その背中が完全に見えなくなったところで、額を押さえた兵藤雪哉が溜息をついたのがわかった。
反射的に顔を上げようとして、そこで肩を掴まれる。ぎょっとして視線を上げると、そこにはわかりやすく『心配している』という様子の姉の顔があった。
「大丈夫だった? まさかお義母様が櫻子のことを殴るだなんて……ああ、腫れているわ。可哀想に。何度も打たれたのね」
「……」
「きっとわたしのせいね。お義母様はわたしのことを嫌っていらっしゃるから……。でも、責められるとするならばわたしだけだと思っていたのに、まさかあなたに酷いことをするなんて。ごめんなさい、櫻子」
姉のしなやかな指が、熱を持つ頬に触れる。
瞬間、わたしは、姉の手を振り払っていた。
触らないで! という甲高い拒絶の声とともに。
「……え?」
目を丸くする姉に、しまった、と思ってももう遅かった。先刻はせっかく取り繕ったのに、自分でそれを台無しにしてしまった。
「助けて欲しいだなんて、わたしは頼んでないわ。余計なことをしないで」
「櫻子……?」
「わたしは打たれて当然だったのよ、お母様の期待に応えられない役立たずだったから。……役立たずであっても、殴られたことも食事を抜かれたことも冬に家から締め出されたこともないお姉様には、わからないかもしれないけれどね」
固まっている悲劇の女主人公は、何を言われているのかわからない、といった顔だ。
「よかったわね、たまたま特別な力があって。その力を見初めた貴公子と婚約できて。その特別な治癒の異能が開花するまで、何かお姉様も努力をなさっていたのかしら。そんなふうには見えなかったけれど」
「櫻子、わたしはね」
「妖魔の毒を解毒できるだなんて、まるで聖女様よね。凄いわ。聖女様だから、これまで散々意地悪を言ってきた妹にも優しくできるのかしら。それとも、妾の娘風情の悪口なんて、まともに取り合う価値すらなかったということなのかしら。そうよね、相手にならないような人間に何を言われても、そよ風くらいにしか思わないものね」
これ以上は駄目だと思うのに、止まらない。
兵藤雪哉が見ている。破滅の一途を辿ってしまう。――ああ、そういうことを考えてしまうことも嫌だ。兵藤雪哉に何をされようと問題ないと言えるようになるために、今わたしは必死になっているのに。
「……お姉様はいつもそう。わたしのことを対等な相手として見た試しがない。子どもの頃からずっとよ。本音を話すこともない」
いつだって頑是無い子ども扱い。侮っているから、はらわたを見せない。
否、実際、こんなことをぶちまけている時点で、わたしはどうしようもなく子どもなのだろう。
それでも、止められなかった。
「それは、お姉様がわたしを見下しているからよね。初めて会った時からずっと」
「何を言ってるの、櫻子……」
聡明で清らかなお姫様だった綾小路菫子に対し、わたしは学もなく立ち居振る舞いも稚拙で、幼い頃は散々使用人たちに陰口を叩かれていた。
そこから異能を磨いて養成学校を首席卒業するまで、わたしは死ぬ気で頑張ってきた。文字通り血の滲むくらいに。『綾小路菫子』に追いつきたくて、追い越したくて。姉やわたしを侮る使用人たちに「どうだ」って言ってやりたくて。
しかしすべてはわたしの一人相撲だった。所詮、わたしは姉にとって、初めから張り合う価値のない相手だったということなのだろう。
「あなたに哀れまれたり助けられたりするくらいなら、『お前なんかよりもわたしのほうがずっと有能だったのよ、ざまを見なさい』って嘲られる方がよっぽどマシよ!」
そうすれば。
そうすれば――。
「……っ」
そこまで考えたところで、頭に上っていた熱が急激に降りていく。頭痛がして、強く目を瞑り、眉間を揉んだ。
よりにもよって兵藤がいるところで何を言っているのか。血が上ると、言わなくてもいい余計なことばかり言ってしまう己が、恨めしい。……あるいは、自分で思ったよりも、母に罵られたことが心の負担になっていたのかもしれない。
恐る恐る顔を上げれば、姉はわかりやすく硬直していた。目を見開き、『悲しい』という感情をその顔に広げた彼女に、ほとほと嫌気が差す。
「……兎に角、わたしは大丈夫だから。お姉様は気にしないで」
「でも、櫻子」
「構わないでと言ってるの。聞こえないの?」
「……菫子、妹君ご本人がこう言っているんだ。一人にしておいてさしあげよう」
散々拒絶されておいて、なおも構ってこようとするのを止めたのは兵藤だった。
一人にしておいてあげよう、と、口調こそ穏やかだが――『何も悪くない君に当たり散らす妹なんぞ放っておけ』とでも考えているのが、兵藤の表情から容易に察せられる。彼からすれば当然の考えではあるが、癪に障るものは癪に障る。
わたしは敢えてにっこりと笑って礼を述べた。「ありがとうございます、兵藤少佐殿」
「……、いいや」
「ごめんなさいね? お姉様。きついことを言ってしまったわ。お母様は関係なく少し疲れていて、気が立っていたの。ほら、突然、戻ってくるように命じられたものだから。お姉様も、少佐殿と婚約するほど親しくなさっていたのなら、先に言っておいてくださればよかったのに」




