弐の六
「昨晩も負傷者が?」
「ええ。どうやら帝都に出没する妖魔の数が増えているみたいね。妖魔と鉢合わせた第十小隊から重傷者が出たそうよ」
夕食後の自室。
その容姿から他隊に知り合いの多い――特に女性護士――璃々子さまにそう教えられ、思わず眉が寄った。
(だから、ここしばらく中隊長殿がお忙しそうにされていたのね)
あれから。訓練を延長して上官に稽古をつけてもらい、手が空いていれば中隊長にその時の怪我を治してもらう、ということが増えていた。
けれどもこの一週間は第五中隊も随分とばたばたとしていたので、追加の訓練は控えられていた。
古参が比較的多い十番以降の隊は、昼夜問わず巡回に駆り出されていたようだが――妖魔が増えているからだったらしい。
「前線で侵攻を食い止めているはずの方面軍は何をしているのかしら。陸軍とも連携していると聞いたけど」
「前線も前線で、妖魔が増えているのでしょうか」
「さあ。そういう情報はウチみたいなぼんぼん中隊にはなかなか回ってこないのよね」
璃々子さまが皮肉げに笑い、肩を竦めてみせる。なるほど、他のところからは第五中隊ごと見下されているのか。
「……璃々子さまは、妖魔と戦ったことはおありですか」
「ないわ」
「そうですか。やっぱりわたしたちは、危険から遠ざけられているのですね」
顔を伏せる。
実力を認めさせてみせろ、と中隊長は言った。しかし訓練についていくだけでは、認めてもらうまではいけないだろう。
どうすれば上に行ける?
「……でも。私は、妖魔に遭ったことならあるわよ」
え、と思わず顔を上げた。
寝台に腰掛けたまま本に目を落としていた璃々子さまが、視線だけをこちらに向ける。
ぱたんと、本を閉じる音がした。
「子どもの頃のこと。お父様に連れられて、帝都の南区域の方へ行ったの」
「南区域……比較的妖魔が出やすいところですね。色街も多くて、治安も良くない。どうしてそんなところに」
「お父様は手広く商売をされているから。『いろいろな階層』の人を知ることも勉強だからって」
「……そうなのですか」
あんな場所で、豪商の娘が何を勉強することがあるのか。
わたしも南の悪所のことは知っている。父の愛人になる前の若い頃の母が働いていた――、
「でもそこで、妖魔に鉢合わせたの」
「!」
「後から聞いたら、わたしが見たのは、【大妖】級だったそうでね。これまで何人も人を喰って、異能を使うようになったばかりの個体……私も見たわ。水を使う妖魔だった」
璃々子さまの組んだ手に、力が籠るのが見ていてわかった。
「十年以上経った今でも忘れられない。私を庇った爺やが、水の魔法で作られた槍で貫かれたあの時」
「え……」
「あのとき。爺やが私を庇ってくれなかったら、私は死んでいたでしょうね。いいえ。偶然通りがかった【紅】――樋宮明子大佐殿がいらっしゃらなかったら、皆喰われていたでしょう」
「【紅】の英雄が、璃々子さまを」
「ええ。……あれほど恐ろしかった【大妖】級の妖魔がまるで赤子のように簡単に消し飛んだわ。【紅】直下部隊の紅鏡隊の異能もこの目で見たけれど、素晴らしかった……」
【紅】ならば火の異能の英雄か。
一体どれほどの強さだったのだろう。わたしが抜かさねばならない、【白】と同格の英雄――。
「ご覧になって」
璃々子さまが徐に浴衣の袖を捲ってみせた。二の腕のあたりに、筆で墨を飛ばしたかのごとく黒々しい痣があるのを見て、息を呑む。
妖魔の毒素に侵された証だ。実際の症状を、初めて見た。
「異能と毒素の余波を浴びてこうなった。軽傷だったから毒が全身に広がりはしなかったけれど……この痣はたまに熱を持つ。痛みもするわ。まるで古傷のようにね。痛む度に爺やの死に顔を思い出すの」
「璃々子さま」
「妖魔と対峙するということはそういうことよ、櫻子さん――いえ。綾小路准尉」
あなたはどうやら手柄を焦っているようだけれど、と尖った声。
「妖魔の脅威を知っていてなお戦いたいと思うことと、知らないで戦いたいと思うことは、まったく違う。私は前者、あなたは後者――意気軒昂は結構だけれど、それを知らずに逸った人の道連れに死ぬのは、私は御免よ」
「……はい」
なるほど。
やはり以前受けた激励じみた言葉は、調子に乗るなよという皮肉だったというわけだ。「肝に銘じます。真宮寺准尉」
「それならいいの。……さ、そろそろ明かりを消しましょう。明日も早いのだし、あなたは追加の訓練で余計に疲れているでしょう」
「かしこまりました」
余計に、か。
鼻を鳴らしそうになるのを堪えて洋燈の灯りを落とし、寝台に横になる。
(我武者羅にやってばかりだと、意味がないと仰りたいのかしら? それとも妖魔を見たこともない小娘が粋がるな、とでも?)
妖魔に襲われたことがなんだというのよ。
妖魔に対する恐怖を知っていることが軍人としての地歩だとでも言うのかしら。妖魔と殺し合いをしたことがないのは、璃々子さまとて同じはず。
それにだ。妖魔への恐れだなんてそんなもの、実際に対峙する場がなければ知りようがない。本番以外でどう知れと言うの。
だから、早く前に出たい。
恐怖とやらがあるなら早くに知って、それに打ち克ち、手柄を上げなくては。
役立たずには、生きている価値なんてないんだから。




