第八十五話「拳」
数滴の血がこぼれた後、ナイフが地面に突き刺さる。
「うっ……うっ……」
死ねなかった。
数え切れない罪から逃げるために選んだ死。
一番楽な道だと思ったそれでさえ、チルッタは恐怖で手が竦む。
痛い。
怖い。
きっと自分と父が他人に与えてきたそれらの感情。だがその矛先が自分に向けられた途端に我慢ができなくなる。
「私は……クズだ……」
地面に刺さったナイフに手を伸ばす度胸はない。かといってバルトーレに戻ってアインに謝罪する勇気もない。
ただ惨めに地面を眺め、時がすぎるのを待つ。
父であるギーリは死に、生まれ育った故郷からも逃げて来た。
もう彼女には行く当ても生きる理由もない。
だがそれでも死ねない。
とことん自分が嫌になる。
「なぁ君、大丈夫かい?」
聞こえてきた爽やかな声に顔を上げると、純粋さを絵に描いたような青年が大男に肩を貸しながら立っていた。
「こいつは……」
担がれたグロモスが血を流して倒れているギーリとヒンターに気が付き、ジークから手を離して駆け寄る。
「おいエーデル、ティアベル! 来てみろ!」
後方で談笑していた二人を呼び寄せると、三人で二人の死体を見下ろす。
「間違いないな」
「うむ。まだ生きていたとは驚きである」
死体を確認した二人の視線はおのずとチルッタへと向けられる。
オルド、ルル、パルメの三人も駆け寄り、その場にいる七人の視線がへたり込むチルッタへと集まっていく。
「この女、どこかで見たような」
何度も闘技大会に参加しているグロモスのみがチルッタの存在を脳裏に浮かべ、残りの六人の関心は彼女が殺人者なのかどうかという事に向いていた。
「オルド、どう思う?」
全く口を開かずに魂が抜けたような表情を浮かべるチルッタ。
ジークはオルドに判断を委ねる。
「ここで死んでるのは例の大会の主催者とその戦士だ。この女も関わってるのは間違いねぇ」
オルドの返答よりも早く当事者であるグロモスが口を開く。エーデルとティアベルも同意見のようで、チルッタに対して警戒を強めている。
「そうだな。とりあえず武器を奪って拘束しよう」
オルドはそう言ってナイフを拾い上げ、チルッタの体に触れようとするがジークはそれに難色を示す。
「怪我をしている女性を拘束するのかい? あまり乱暴はしたくないんだけどな」
「もう! 大佐は甘いんですから!」
ジークの前に出たルルは手際よくチルッタの両手を体の後ろに回させ、ロープで縛り上げる。ロープが手に食い込んで赤くなるが、ルルは一切容赦せずチルッタもまた抵抗しようとはしない。
「……わかったよ。でも手当ぐらいはさせてほしい」
怖い顔で睨んでくるルルに観念し、ジークはチルッタの喉元を止血して連行することを決める。
「私が」
チルッタを拘束したロープをジークから受け取るオルド。すると彼女の隣にいたパルメが俯くチルッタに声を掛けた。
「一つ聞きたい。バルトーレにアルトラ、もしくはシナムという男は来たか?」
「……アルトラ、は知らない。でもシナムは大会に参加している。まだ生きているかは分からないけど」
うつむいたまま呟くチルッタに、パルメは頭を抱える。
「そうか」
魔族を連行していたはずのアルトラが行方をくらまし、アルトラを追っていたはずのシナムがその魔族と同じ場所に居る。アルトラの安否も心配だが、今はシナムが何かを企んでいることのほうが心配だ。
(魔喰獣の件といい、今回の事といい、あいつは何を考えている……こんなに死人が出ているというのに)
横たわるギーリとヒンターの死体を見おろし、パルメは拳を握りしめる。
全く関わりのない人間、グロモスらの反応からして悪人には間違いないだろう。
だが魔族ではない。
灰哭隊の使命は魔族から人々を守ること。魔族を滅ぼして世界を平和にすること。
そのために多少の犠牲を払うことは必然的だが、何度見ても人が死ぬのは慣れるものではない。そして残された人を見るのももうたくさんだ。
握りしめられた拳は開くことなくパルメは歩き出した。
もしシナムが道を外れようとしているのなら家族として正してやらなければならない。この拳を叩き込んでやらなければならない。パルメはそう心に刻んだ。




