第八十話「VSヒンター」
生暖かい液体が顔面にかかり、エーデルはうっすらとまぶたを開ける。
頭はズキズキと痛み、視界がぼやける。何が起きたのかと必死に思い出していると、彼女の下のふかふかの地面が突如動き出した。
「うおっ!」
ふかふかの地面だと思っていたのは獣人、ティアベルの毛皮だった。
彼女の下敷きになっていたティアベルが体を起こした事で上のエーデルはふるい落とされる形で本当の地面に着地する。
「一体何が……おっと申し訳ない」
エーデルと同じく記憶が曖昧なティアベルは、尻もちをついているエーデルに手を差し伸べるが、それを握り返した彼女の顔面が血まみれなことに顔を強張らせる。
「お主……怪我をしているではないか!」
「え? あ、いや……な……!」
慌てふためくティアベルの様子で、自分が初めて血をかぶっていることに気がついたエーデル。しかしその血液は彼女のものではない。
「よう……良かった。目が覚めたかよ」
「お、お前……!」
エーデルとティアベルの前に立っていたのは今にも倒れそうなグロモスだった。
背中越しではあるが彼の足元に溜まった血液が、彼が無事ではないことを物語っている。
そしてグロモスをここまで痛めつけたであろう存在が、あの怯えながら失神までしていたヒンターであることにティアベルは驚きを隠せない。
「お主はたしか、私の対戦相手の……」
名前すら思い出せないほど印象に残らない存在であったヒンターの変貌ぶり。まだ自分が夢の中に居るのではないかという錯覚すら起こす。
「そ、そうだよ。ヒ、ヒンターさ。こ、怖いよ……帰りたいよ…………なんてな!!」
数刻前のような弱々しい姿を見せたかと思えば、ヒンターは狂気をむき出しにしながらティアベルに突撃してくる。
「さあ、第四試合を始めようぜ!」
咄嗟のことに体が固まるエーデルとティアベル。
行く手を阻もうと意識が遠のく体でヒンターの前に立ちふさがるグロモスだったが、まるで枯れ木のように簡単に倒されてしまう。
「お前は生かしといてやるよ」
「な……!」
何とか剣を構えるエーデルを、ヒンターは軽く突き飛ばす。その威力は馬に突撃されたかのように強力で、エーデルの体内から空気が全て外に出てしまう。
「だがお前は殺す。けだものは駆除しないとなぁ!」
腹を押さえて膝をつくエーデルの横に立つティアベルに向けてそう叫び、ヒンターは手を槍のように細めながら毛皮の薄い腹を突き刺す。
「あ?」
ダメージを負ったのはヒンターの方だった。
グロモスの鋼鉄の肉体さえ破壊したその腕は指がひん曲がり、爪が割れて出血までしている。
「どういうこ……」
疑問を口にするヒンターの脳天にティアベルの拳が振り下ろされる。
「かはっ……て、てめぇ!」
激しく脳が揺れ、後退りするヒンター。
「エーデルどの。彼の手当てを」
「あ、ああ」
何とか立ち上がったエーデルはティアベルの横顔を見てギョッとする。知性あふれていたティアベルの瞳は瞳孔が開ききっており、完全に猛獣のそれだった。
「ちっ、獣風情が人間様にたてつくんじゃねぇ!」
「獣風情? 何を勘違いしているのやら」
グロモスもエーデルも完全に脳裏から離れ、ヒンターは目の前に立つティアベルだけを視界に入れながら叫ぶが、ティアベルの瞳はどこを向いているのかわからない。だというのにヒンターは体内まで貫かれるような視線を感じ、本能的に恐怖する。
「人間風情が我ら聖獣に敵うと、本当に思っているのか?」
頭の中に直接響くようなティアベルのずっしりとした言葉に、ヒンターの背筋が凍る。
何度も地面を蹴り、フェイントを入れながら逃走を選択するヒンターだったが、ティアベルのあの視線がべったりと背中についてくる。
「なんなんだよ!」
感じたことのない根源的恐怖に、ヒンターは演技をしていた頃のような表情が出てきてしまう。
観客席に飛び上がってティアベルから距離を取ったというのに、まるで首筋に鋭い刃が突きつけられているような気さえする。
ティアベルは全く動かない。
ヒンターだけが無駄に体力を消耗する。
「そこで良いのか?」
「は? 何言って……」
観客席に立つヒンターにティアベルがそう告げると、直後ギーリのいる高台が爆炎を上げ、ものすごい勢いでアインが吹き飛ばされてくる。
「あがっ……!」
弾丸のようなアインの体がヒンターに激突し、ヒンターの体はへし折れながら観客席の瓦礫に飲み込まれていく。
「くっ……」
アインはヒンターに激突したのも気が付かないまま、煙の中からこちらを見下ろしているリヴを見上げる。
「あの女性は!? それに三回戦のあの男……一体何がどうなっているんだ!」
グロモスに肩を貸しながら、エーデルが目まぐるしい状況に完全に混乱した様子で説明を求めるも、その答えを知るものは居ない。
「わからねぇ。だがここは危険だ……とにかく逃げるぞ!」
「うむ。私も同感である」
いつの間にか知性的な瞳に戻ったティアベルがグロモスの言葉に同意し、エーデルとティアベルの二人がかりでグロモスの体を支えながらコロシアムを後にした。




