第六十一話「黒炎」
一瞬の内に消え去った泉の底で息を荒くする一人の魔族の女性に、彼女らを狩る存在である灰哭隊の面々は恐怖を禁じ得なかった。
拘束は全て焼け切れ、その指先が僅かに動くだけで彼らの体は芯から震え上がる。
ほぼ力を使い果たしたリヴに剣を向ける者は一人もいない。
彼らを指揮する立場にあるアルトラもまた例外ではない。
今まで出会ったどの魔族よりも強大な力を持つリヴを前にして選択したのは対峙ではなく退避だった。
だが言葉が出ない。
呼吸もままならない。
かつて家族が襲われた時の記憶が蘇るが怒りよりも恐怖が先行する。
爆死したアインの方へ、リヴが足を引きずりながらゆっくりと近づいていく。
自分たちに向かってくるわけではないのに灰哭隊の男たちは悲鳴を上げて尻もちをついてしまう。その目は完全に恐怖に支配されており、リヴは下を向きながらその視線を避けて歩く。
「あなた方に危害は加えません。ですからもう私たちにかかわらないでください」
リヴのお願いは、彼らにとって命令に等しかった。殺意は欠片もこもっていないが、逆らえばどうなるか考えずにはいられない。
「ま、待て……」
アインを抱えながら立ち去ろうとするリヴを、アルトラが絞り出した声で呼び止める。
振り返ったリヴの悲しげな瞳にも歯を震わせるほど怯えているが、他の灰哭隊が既に手放した剣を唯一握りしめている。
「このまま、お、お前のような強大な魔族を、行かせる……わけにはいかない」
生物としての格が違うリヴを前に、手も膝も顔も足も、全てが震える。
それでも引けない。
「……」
無言のままアルトラを見つめ続けるリヴ。ただそれだけでアルトラの綱渡りのようなギリギリ保っていた気力が引きちぎられる。
灰哭隊の中には緊張感で気絶するものも現れ、リヴを完全に化け物として認識している。
「ふっ、ふっ、ふっ!」
なんとか気を持たせようと激しく息を吐きながら片手で剣を、もう片方の手で自分の震える足を殴り続けるアルトラ。
整った凛々しい顔立ちはぐずぐずに崩れており、とても部下たちに見せられるものではない。
「そんなに魔族が憎いのですか?」
自分を見つめる恐怖、畏怖、軽蔑、憎悪の数え切れない瞳の数々。この場にある全ての瞳が自分の存在を否定してくる。
「魔族は……悪だっ!」
反射的にひねり出されるアルトラの言葉。
リヴの心を確実にえぐる。
「私は……」
悪ではない。
そう否定したかった。
彼女が抱えるアインの黒焦げの死体を見ると、否定しきれなかった。
「何百年も人類を苦しめ、支配し、殺す! それが悪でなければ何だ!」
そのとおりだった。
彼女自身がどう思おうと、アルトラたち人類にとって魔族は忌むべき存在。
その所業を二百年近く彼女も間近で見ており、そしてそれを止めようともしなかった。
「あなたたちとは争いたくありません!」
自分は違うと心のどこかでは思っていた。
だがリヴを知らない彼らにとってリヴは魔族としてしかカウントされない。
「そんな化け物じみた力があって何を言う!」
消え去った泉を指差し、次にアインの死体を指差すアルトラ。
「私は……守りたいんです!」
アインの命を救うため。
そう言えば聞こえは良いが、結局リヴの行動はアインが死なないことに甘えているに過ぎない。
何も語らない黒焦げの死体に言い訳するように叫ぶが、その言葉は彼女自身も騙せない。
「ふざけるな! 貴様ら魔族は簡単に人を殺す! 俺は何度も見てきた!」
リヴを罵る内にアルトラの恐怖が薄れていき、どんどん怒りが増していく。
足もしっかりと大地を捉え、手もがっちりと剣を握る。
「貴様ら魔族は……生きていてはいけないんだ!」
ピシッ。
小さな小さな穴。
彼女が感情を必死に押し込めていた心に開いたその穴から、ゆっくりと、しかし確実に黒いものが溢れ出す。
「どうして……私ばかり」
魔族。
確かにリヴは魔族だろう。だがその半分は彼らと同じ人間だ。
「何で、教えてよ!」
彼女を唯一愛してくれたヨミ。
色々あったがようやく打ち解けたアイン。
自分の力を認めてくれたジーク、オルド。
初めてできた友達ルル。
リヴにとっての理解者である五人の人間の内、四人はこの場におらず、一人は彼女自身が殺した。
「私は頑張ってるのに!」
大好きだった母の為に魔族を裏切り、アインを助け、人間を助けた。
そのせいで兄に襲われ、その腕を焼き尽くした。
「私が何をしたっていうの!?」
魔力を使い果たしたはずのリヴの手のひらから黒い炎が漏れる。その炎は彼女が抱えるアインの体を容赦なく焼き、彼女はそれに気が付かないほど怒りに支配されていく。
「あ、悪魔……」
燃え盛る黒い炎に包まれるリヴの姿を見たアルトラは、先ほどまで彼女がどれだけ温厚だったかを思い知る。
もう言葉すら通じないと思えるほどリヴの瞳孔は開ききっている。
「もう、いいよね」
目尻に溜まった涙が地面に落ちると同時に、リヴの最後の感情が決壊する。




