第百十話「私の世界」
アインたちがひとまず目指す町、南の都市。
その都市の中心にそびえ立つ建物の執務室では一人の女性がせわしなく働いていた。もっとも彼女は先日職を失ったばかりで、正確には働いているわけではない。
灰哭隊。
それは魔族を殲滅するためだけに存在する帝国軍の特殊部隊。それは四人の姉弟たちによって作られた。だが彼女らのうち三人が戦死したことにより実質的に壊滅し、その構成員の殆どは帝国軍の一兵士として再配備された。
灰哭隊の象徴である黒い軍服に袖を通し続けるのはもう彼女しか存在しない。
それは彼女の意地だった。
それは彼女の誇りだった。
それは彼女の生きがいだった。
死んだも同然だった彼女に与えられたたった一つの希望だった。
「ただいま。リーベ」
「アルトラ様……よく、ご無事でっ!」
自分がこの世で唯一信頼できる相手の帰還に、リーベは大粒の涙を浮かべながらその胸に抱きつく。
温かい。生きている。ここにいる。
アルトラから伝わってくる全ての情報にリーベは胸の内が熱くなり、彼の服を涙で濡らす。
だがそこでリーベは気が付く。この五年間アルトラが着続けていた軍服がなくなっていることに。
黒い軍服は灰哭隊全員の誇りだ。
彼女だけでなくアルトラ自身がいつもそう説いていた。
ただならぬ気配を感じたリーベは涙を拭き取るとアルトラの顔を見上げる。
「済まないリーベ」
彼女の意図を汲み取ったアルトラはそれだけ告げる。
ウーは? パメラは? 例の男と魔族は? 聞きたいことは尽きない。
だがそれでもリーベはそれ以上聞こうとはしない。聞いたところでアルトラは答えないだろうと分かっていたからだ。ならば聞くだけ彼を困らせることになる。
いや、違う。
聞かないのではない。聞きたくなかった。
「リーベ、俺は……」
「やめてください! それ以上は!」
真剣な眼差しのアルトラに背を向けるリーベだが、それでも言葉は容赦なく彼女の耳に入り込む。
「俺は軍を辞める」
言葉を聞き終える前に再びリーベの二つの目から涙があふれる。それは先程までの喜びの涙ではなく、紛れもなく悲しみの涙だ。
「灰哭隊も解散する。お前たちには迷惑をかけるが……」
「勝手なことを言わないで!」
声を荒げたリーベは振り抜きざまにアルトラの胸を突き飛ばす。
「私は、私たちは! どうしたらいいんですか!?」
「……軍には俺から口添えをしておく。幸いオルド•ヴァルキリア准将やジーク•ヴァルキリア大佐と繋がりもできた。やお前たちを路頭に迷わせたりはしない」
リーベの突きなどものともしないアルトラは彼女の歪んだ顔に胸を痛めながらも言葉を続ける。
しかしそれはリーベの望んだ言葉ではない。
「そんなことはどうでもいいです! 私は帝国の為に軍に入ったわけではありません! 私は、私はあなたの為に……!」
それ以上は言うなと、アルトラはリーベの頭に手を乗せる。
「帝国軍は帝国の民の為に存在する。それを忘れるな」
泣き崩れるリーベを残してアルトラは部屋を出ていく。
「行かないで、行かないで! 行かないで!」
先日アルトラと別れた時と同じセリフを何度も吐き続けるリーベ。だがあのときと同じようにその言葉にアルトラを止める力はなかった。
「私も……連れていって……」
アルトラが見えなくなってからようやくリーベは本心を絞り出す。
帝国なんて、軍なんて、民なんて、そんなものはどうでもいい。リーベにとっての世界はここにしかない。灰哭隊の、アルトラの隣にしかない。
アルトラの居ない軍にリーベが残る理由は一つもなかった。
「副官、本当に残られるのですか?」
「ええ。ここが私の居場所ですから」
負傷していた元灰哭隊の面々は回復次第次々とこの場所を去っていった。あっという間に灰哭隊本部は脱ぎ捨てられた黒い軍服であふれ返り、その中に立っているのはリーベだけとなる。
一つ、また一つと軍服を拾い上げ、箱に詰めていく。
初めて魔族を討伐した日。
初めて褒められた日。
初めて仲間が死んだ日。
初めて。
初めて……
片付けられ部屋が広くなる度に、彼女の世界が狭くなっていく。思い出が消えていく。心が閉ざされていく。
この部屋が全て片付いたら自分はどうなるのだろうか。消えてなくなるのだろうか。いっそそうならどれだけ楽だろうか。
部屋が片付くと同時に、リーベは腰に付けた軍刀に手を伸ばす。
終わるならここがいい。
薄っすらと彼女の首に血の線が浮かび上がった頃、突如として灰哭隊の施設に何者かの足音が響いてくる。
「……間が悪い」
首元から軍刀を離したリーベは不機嫌な顔で足音の正体を確かめようと執務室から飛び出す。
「お前は……!」
執務室の外には数人の男女が居た。
彼らはリーベの姿を見るとギョッとして動きを止めたが、リーベもまたその中に居た一人の男の姿に体が硬直する。
根拠はない。
だがアルトラの言っていた男はこいつだと確信する。
私の世界を奪ったのはこいつだ。
気が付くとリーベは握ったままの軍刀をアインに向かって振り下ろしていた。




