第二十七話「予感」
——冷たい。
最初に覚えたのは、そんな感覚だった。
眼下に広がるのは、砕けた石と崩れ落ちた建物の残骸。
空は灰色に濁り、風が吹くたび焦げた匂いと白い粉塵が舞い上がる。
……瓦礫の山の中心に、一人の少女が立っている。
——リン。
彼女は私に背を向けたまま、小さく震えている。
肩が、かすかに上下している。
泣いている。
その足元に転がっているのは、見覚えのある色。
リンの瞳と同じ、瑠璃色のブレスレット。
だが、それは無惨に砕け、血に濡れた石畳の上に散らばっている。
——どうして。
声をかけなきゃ。
私は瓦礫を踏み越え、リンへと手を伸ばす。
でも……届かない。
いくら歩いても、距離は変わらない。縮まらない。
まるで、透明な壁があるみたいに。
「リン……」
掠れた声が、空気に溶ける。
リンは振り向かない。
ただ、壊れた瑠璃色を見つめている。
その姿は、私の胸の奥をきつく締め付けた。
嫌だ。
お願い。
こっちを見て——
「——リン」
はっと、私は目を開けた。
薄暗い天井が視界に映る。
規則正しい呼吸の音が、すぐ隣から聞こえる。
「……夢」
ゆっくりと瞬きをする。
頬に、冷たい感触。
指先で触れると、そこには涙の跡が残っていた。
……どんな夢を見ていたのか、もうはっきりとは思い出せない。
ただ——胸の奥に、重たい不安が沈んでいる。
「ユフィ……?」
隣で、もぞりと布団が動く。
眠そうに目をこすりながら、リンがこちらを見上げた。
「起こしてごめん。なんでもないよ」
そう言って、私はリンの頭を撫でる。
さらりとした銀髪が指の間をすり抜ける。
リンは私の手に自分の手を重ね、ゆっくりと頭から頬へと導いた。
そして、そのまま私の手のひらに頬を預ける。
「……あったかい」
リンは眠そうなまま、ふにゃりと笑う。
さっきまでの胸の痛みが、少しだけ和らいだ。
「……もう少し寝よ、リン」
「うん……」
素直に頷き、リンは再び目を閉じた。
規則正しい呼吸が戻る。
私はそっと身体を寄せ、もう一度リンの頭を撫でる。
この温もりは、本物だ。
触れられる。ここにいる。
——大丈夫。
そう、自分に言い聞かせる。
けれど。
心の奥底に沈んだ不安は、消えなかった。
私は眠るリンの髪を撫で続けながら、静かに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
南の都は、王都とはまるで空気が違った。
建物は少なく、代わりにたくさんの緑が生い茂っている。
遠くからは潮の香りが漂い、どこまでも澄んだ青空が広がっている。
ウィズさんより大規模調査の振り替え休暇を与えられた私とリンは、観光をしに南の都を訪れていた。
栄えている中心部から少し離れ、郊外へと足を運ぶ。
そこで見た大きな湖に、私は思わず声を漏らす。
「すごい……」
陽光を受けてきらきらと輝く水面。
遠くの山々を映し込む鏡のような景色。
「綺麗だね、リン」
隣を見ると、リンは湖をじっと見つめていた。
少しして、わずかに目を細める。
感情が顔に出にくい彼女だけれど、これだけ一緒にいればわかる。
これは——感動している。
私はくすりと笑った。
「写真に残したいくらいだね」
——その瞬間だった。
ごぼり、と湖面が不自然に盛り上がった。
まるで巨大な何かが、水底から押し上がるように。
「な、なに?!」
水が爆ぜ、白い巨軀が湖から躍り出た。
イカのような体躯に、漆黒の巻き角。
「水鬼海怪?!」
無数の触手が空気を裂きながらうねり、私へと伸びる。
咄嗟に後退しようとした瞬間——
その全てが、ばらばらに切断された。
「……切る」
リンが据わった目で低く呟く。
直後。
巨大な胴体が、真横から真っ二つに切り裂かれた。
そして、水飛沫とともに黒い墨が空へと噴き上がる。
「……あ」
頭上に降り注ぐ、真っ黒な雨。
だが——その墨は、突如空中に展開された半球状の輝く障壁に防がれた。
「あらあら、何かと思えば……」
穏やかな声が、背後から届く。
振り返ると、そこに立っていたのは修道着を纏った女性だった。
明るい茶髪はリンと同じくらいの長さ。
柔らかな微笑みを浮かべ、その瞳は澄んだ光を宿している。
彼女はゆっくりとリンへと歩み寄った。
「随分と派手にやりましたわね。時の勇者さん」
リンは剣を納めると、ぺこりと小さくお辞儀をした。
「ユフィ、を……守ってくれて……ありがとう」
その仕草に、女性は微笑んだまま一つ頷く。
「ところで……どちら、さま?」
リンの問いに、女性は優雅に一礼する。
「これは失礼。わたくし、ルミナと申します。こう見えて、光の勇者なのですよ」
「初めまして……リン、です」
リンも軽く頭を下げる。
「ここへは観光で?」
「うん……ルミナさん、は?」
「わたくしはここに水鬼海怪が出ると聞きまして、それの討伐に」
そう言うと、彼女は湖を一瞥してくすりと笑う。
「まあ、その必要はなかったようですけれど」
タイミングを見計らい、私は一歩前に出る。
「あの」
ルミナさんがこちらへ身体を向ける。
「私、リンの担当ギルド職員のユーフィリアと申します。先ほどは助けていただきありがとうございました」
そう言って、私は頭を下げる。
「ご丁寧にどうも。ルミナです」
柔らかな雰囲気のまま、彼女は私にも一礼する。
しかしその直後、ルミナさんは目をふっと細めて口を開いた。
「あなた……」
空気が、ほんの少しだけ変わる。
「……良くない相が見えます」
「え……?」
私は思わず目を丸くする。
「どういう——」
「黒くて、淀んだ……」
ルミナさんは、私の奥にある何かを見ているようだった。
「……死相」
その瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
奥底まで見透かされるような感覚に、私は背筋がぞくりとするのを感じる。
「し、死相って……」
その言葉に、今朝の夢の残滓が胸の奥で疼いた気がした。
自然、声が揺れる。
その声を聞いたルミナさんは、ぱっと表情を変えて続けた。
「すみません。怖がらせるつもりはなかったんです。でも……」
彼女は少しだけ距離を詰め、静かに続ける。
「あなたは行動した方がいい。何か、少しでも引っかかっていることがあるのなら」
その言葉に、胸がひくりと跳ねた。
「それが吉と、わたくしには見えます」
そう言うと、ルミナさんは再度微笑みを浮かべた。
私は押し黙った。
……確かに、私には気にかかっていることがあったから。
「……まあ、わたくしの目も百発百中ではありませんから。そんなに気に病む必要はありませんよ」
「そんな無茶な……」
わざとらしく肩をすくめたルミナさんの言葉に、私は苦笑しながらそう返した。
◇ ◇ ◇
南の都を発った馬車はゆっくりと石畳を抜け、やがて土の道へと入った。
窓の外では、夕陽が緩やかに傾いている。
湖での騒動が嘘のように、穏やかな帰路だった。
向かいに座るリンは、膝の上で手を組みぼんやりと外を見ている。
私は、ルミナさんの言葉を思い出していた。
『行動した方がいい』
……私が今描いている可能性は、口にしたらきっとリンを不安にさせる……傷つける。
——でも。
ここで逃げたら、きっと後悔するだろう。
私も——リンも。
一度静かに息を吐いた私は、意を決して口を開いた。
「ねえ、リン。帰ったら、グラス公爵に会いに行こう」
リンが、こちらへ顔を向ける。
「……どうして?」
小首を傾げる仕草があまりにも無防備で、私は一瞬続きを口にするのを躊躇った。
けれど——逃げてはいけない。
「雷鳴峡谷に調査に行く時点で、リンが勇者の称号を発現してから約二ヶ月。それから無限洞窟までは、約一ヶ月。たったそれだけの期間に、あれほどまでリンに特化したものが作れるかな」
紫電地龍、そして黒双翼龍。
それらは、明確にリンの力を前提に設計されていた。
リンは、じっと私を見つめる。
「黒幕が、それだけ傑出した技術を持っているのかもしれない……でも——これは、あくまで最悪の想定だけど」
言葉を区切り、私は身を乗り出してリンの手を優しく握った。
「以前から、リンと似た力を持つ人を……実験に使っていた可能性がある」
その言葉が、二人の間に落ちる。
リンの瞳が、大きく見開かれた。
私は握った手に、少しだけ力を込めた。
「リン……グラス公爵に、お母さんのことを聞きに行こう」
リンの手が、ぎゅっと強く握り返される。
指先が、震えている。
——それでも。
「……うん」
苦しそうに眉を寄せながらも、リンは確かに頷いた。




