第二十六話「帰ったら、なんでも」
「ふぅ……」
黒双翼龍の獰猛な視線から目を逸らさないまま、リンが大きく息を吐いた。
わずかでも、息を整えようとしている。
私は通信石を起動する。
「ジュジュさん、聞こえる?」
しかし、その呼びかけに答えは返らない。
黒双翼龍が、ゆっくりと体勢を低く構えた。
そして、地面を抉るほどの踏み込みとともに、リンに向かい突進する。
リンは、それをギリギリまで引き付けて——姿を消す。
直後、私の目に映ったのは——
身体中のエネルギーが強く脈打ち、直前までと体勢を変えている黒双翼龍の姿。
続く一瞬、壁に何かが激突する音が響いた。
音の方向に顔を向けると、そこには——壁に背を埋めるリンの姿があった。
「リン!」
ぱらぱらと小さな瓦礫を伴いながら、リンは壁から降りて地面へと足をつける。
その額から、つうっと血が流れた。
……まさか……
間髪入れず、黒双翼龍が大口を開け再度リンへと突進する。
リンは荒く血を拭うと、再び姿を消した。
瞬間、黒双翼龍の姿も消えたかと思うと、その顎が壁を砕いた。
その身体は、ドクンとエネルギーを脈打たせている。
そして、「キン」と金属同士が弾き合うような音が鼓膜をつんざく。
黒双翼龍が纏う淡い光が、背後に現れたリンの剣を弾いていた。
——まるで、雷鳴峡谷での地龍のように。
黒双翼龍は振り返ると、リン目がけて片翼で切りかかる。
リンは後方に大きく跳び、それを回避する。
翼が通った場所の空気が、ビリビリと震えた。
黒双翼龍は私には一瞥もくれず、なおもリンだけを睨めつける。
私は通信石に手をかけた。
「……リン。もしかしてこいつ、停止世界でも動いてる?」
『……うん』
私は驚愕に目を見開く。
リンの剣を弾く装甲を纏った、停止世界への侵入者。
——明らかな、リン対策。
手のひらに汗が滲む。
一体どんな原理で侵入している……?
分子、空間、光、時間、事象、魔力、地脈、エネルギー——
どれも……違う。
……わからな——
その思考に走る前に、私は大きくかぶりを振る。
低く唸った黒双翼龍が、長い尾をうねらせリンを襲う。
リンはすんでのところで剣を滑り込ませて軌道を逸らし、返す刀で尾を切りつける。
しかし、金属音が鳴り響きその攻撃は弾かれた。
そして、黒双翼龍が尾の勢いを利用して身を翻す。
はっと目を見開いたリンが、襲いかかる翼を避けるため後方へと跳躍する。
だが一瞬反応が遅れたことで避けきれず、リンの左腕が深く切り付けられた。
痛みに眉を寄せるリンを見て、私は強く唇を噛む。
——考えろ! それが私の役目だろ!
この黒双翼龍には、いくつかの違和感がある……
片翼。リンだけを狙っていること。胎動するエネルギー。煤けた鱗。
その中で最も不思議なのは、胎動するエネルギーを一切使っていないこと。
紫電地龍の雷撃のような攻撃は使わず、ただ体内に溜めているだけ。
……いや。
身体を迸る魔力は、何度か脈打っていなかったか?
共通点は……リンが攻撃を避けた時?
……違う。
リンが——時間停止をやめた時だ。
「リン!」
通信石も使わず、私は声を張り上げた。
「情報が欲しい! 停止世界で戦ってみて!」
リンはわずかに私を一瞥すると——ひとつ、静かに頷いた。
——瞬間。
リンと黒双翼龍の姿がかき消える。
直後。
「グオオォォォオオ!!!」
黒双翼龍の咆哮が響いた。
ダラダラと唾液を垂らしながら睨む先には、装備の一部が欠け、大きく肩で息をするリンの姿があった。
黒双翼龍の身体は、エネルギーが強く脈打っていた。
『……ユフィ』
浅い呼吸とともに、リンの声が通信石から聞こえた。
『攻撃、通らない……でも……硬い、じゃなくて……ゴム、みたいな……』
「弾性があるってこと?」
『うん』
こちらの世界と、まるで物が違う。
弾性とは動きだ。停止されていない。
なら……こちらの世界と停止世界で、二つの構造を持っているということ。
それを、エネルギーを使って切り替えている?
その時、鼻の奥から生暖かい液体が垂れてくる感触を覚えた。
それはつうっと、唇へと流れ落ちる。
——邪魔!
私は赤い液体を乱暴に拭い、再度思考の海に潜る。
黒双翼龍が二つの構造を持つ理由は?
「攻撃方法は同じだった?」
『うん』
「姿が変わったりとかもない?」
『ない』
ならば——二つの世界に存在するために、構造を二重にしているんだ。
『ユフィ……また……停止世界、で……戦う?』
リンは、まるでなんでもないかのようにそう聞く。
息も荒いまま、汗は滝のように流れ、顔色も悪くなっている。
……なんでもないはずがない。
それでも——
「……うん。お願い」
それでも私は、そう頼んだ。
リンは私を見て、安心させるように微笑む。
そして、姿を消した。
次に現れた時、リンは剣を支えにして片膝をついた姿勢だった。
肩は大きく上下し、前髪が顔に大きくかかっている。
黒双翼龍は——エネルギーが脈動し、リンを睨みながら低く唸っている。
『戻す……とき……中が……軋ん、でる……』
荒い呼吸の合間に、リンが言葉を紡ぐ。
これまで、リンが世界を停止させるたびに黒双翼龍は消耗している。
停止世界と通常世界。
同じ時間の流れでもなく、同じ物理でもない。
それでも、黒双翼龍は両方に存在している。
どちらかが「本来の姿」というわけではない。
——ならば、世界を行き来するごとに「整合」を取る必要があるんじゃ。
そしてそれは、確実に負荷になっている。
『停止世界への侵入者』
それ自体が、弱点だ。
「……リン」
通信石越しに、私は静かに呼びかける。
「『停止世界で攻撃を仕掛けて解除』を、繰り返して……中から——壊す」
リンは一度大きく吸い込むと、ゆっくりと立ち上がった。
『……終わったら……ご褒美、欲しい』
唐突な言葉に、私はわずかに目を瞬かせる。
でも——
「いいよ。帰ったら、なんでも」
考える必要もなく、私は即答する。
『……よし』
リンは小さく呟いて、黒双翼龍とともに姿を消した。
同時に現れ、地面に細い亀裂が走る。
黒双翼龍の胸部に走る脈動が、明確に乱れた。
再び消えて、現れる。
黒双翼龍の咆哮が、悲鳴に変わる。
リンの手が、足が、震えている。
今にも膝をつきそうなほど、リンは浅く荒い呼吸を繰り返す。
だが——止めない。
私は、無意識に拳を握り締めていた。
リンは幾度も停止と解除を繰り返す。
その度に、黒双翼龍の内部から不協和音が響く。
整合を取るための修正が、追いついていないのがわかる。
外傷はない。
だが、内側が崩れていく。
片翼が震え、床に爪が食い込む。
身体に纏う白い光が制御を失う。
迸るエネルギーが放つ光が、次第に強くなっていく。
——一瞬。
ふっと、リンの体が大きく揺れた。
「リン!」
私は、思わず叫ぶ。
しかし——ドン、と。
リンは、自らの胸を剣の柄で強く叩いた。
「……ぁあッ!」
絞り出すように、リンが鋭く息を吐いた。
また、リンの姿が消える。
そして——
次に姿が現れた時、黒双翼龍の胸部から破裂音が響いた。
煤けた鱗は無傷のまま。
だが、内側から亀裂が走る。
巨体が膝をつき、咆哮が途切れる。
「リン! もう一回!」
瞬間、リンの姿が消え——
黒双翼龍が、ぴたりと動きを止めた。
直後——首元に、銀色の一閃が迸った。
胴体と頭が切り離され——巨体が、ゆっくりと地面に倒れる。
静寂が訪れる。
リンが、ふらりと揺れた。
私は駆け寄り、その身体を抱きしめる。
「……ユフィ」
「うん」
「さっき、の……約束……」
腕の中で、リンがこちらを見上げた。
「忘れないで、ね……」
激闘の後とは思えない言葉に、私は小さく笑う。
「もちろん」
安心したのか、リンが私に頭を預けた。
それから、レスさん率いる救助隊が助けに来るまでの間。
私たちは互いの体温を感じていた。
◆ ◆ ◆
こぽりと、気泡が生まれた音が響いた。
その部屋には、背もたれに体重を預けて椅子に座る一人の男がいた。
目の前には、大きな鏡。
縦で二面に区切られたそこには、夢幻洞窟の第五層——リンとジュジュの姿が映し出されていた。
そして男の横にあるのは、天井から床へと伸びる巨大な硝子筒。
内部は淡く蒼い液体で満たされ、無数の細い管が外部の装置と接続されている。
管の中を、ゆっくりと赤い光が脈打ちながら流れていた。
液体の中には、一人の女性が静かに浮かんでいる。
閉じた瞼。眠るような顔。
だが胸元には、機械的な刻印のような紋様が淡く発光して浮かんでいた。
液体の表面には、定期的に小さな気泡が生まれては消えている。
まるで、呼吸の代わりのように。
男は鏡を覗きながら、静かに口を開いた。
「他の地点はともかく、夢幻洞窟まで攻略されるか」
一度言葉を切り、大きく息を吐く。
「時と巧が配置されるまでは想定内だったが……」
男は目を細める。
「想定外の要因は、レスか?」
そう言って、男は鏡に触れる。
映像が点々と切り替わり、やがて映し出されたのは——
「……いや、この女か」
ユーフィリアの姿を見て、男はにやりと口角を吊り上げた。
そして、隣にある硝子筒の中で浮かぶ女性に顔を向ける。
「君の娘には、いいパートナーがついてるじゃないか」
嫌な笑みを深めると、男はその女性の名前を呼んだ。
「なあ? レファナ・グラス」




