8-1.一年後
そこは、木漏れ日と豊かな緑の匂いに満ちた世界だった。
天を突くほどの巨木が連なり、その根元に広がる精巧な石造りの街並みには、市場がひらかれ穏やかな活気が満ちていた。
行き交う住人たちは、豊かな毛並みや耳、尾を持つ「獣人」たちだ。彼らは異種間で統一された言語を操り、中世ほどの気品ある衣服を纏って、色鮮やかな果実を並べて笑い合っている。
「母ちゃん、見て! これ、学校の歴史の授業で習った『ニンゲン』の本物の遺物だよ!」
古い骨董品店の店先で、犬型の丸い耳を持った幼い少年──ルカが、埃を被った棚の奥を指さした。
そこにあったのは、何世紀もの時を経ても一切錆びていない、特殊な金属製の分厚い教典だった。表面には、かつて化学兵器によって絶滅した人類の文字と、進化した自分たちの祖先である「犬」の絵が美しく刻まれている。彼らはこうした遺物から文字や技術を学び、独自の文明をここまで発展させてきたのだ。
母親は優しい手つきで息子の頭を撫でたが、その横顔には、ふと薄暗い不安の影が張り付く。
「よく見つけたわね、ルカ。でも、あんまりお店の奥に入っちゃダメよ。最近、街の外にいる化け物たちが、いっぱい集まって暴れているって防衛隊の人たちも言っていたから」
「平気だよ! だってこの街には、おっきな壁があるもん。化け物なんて入ってこられないよ」
ルカは無邪気に笑った。
しかし、その日常は一瞬にして、文字通り「引き裂かれる」ことになる。
ーーキィィィィィンーー
鼓膜を刺すような、不快な高音が響き渡った。
市場の喧騒がピタリと止む。住人たちが怯えたように天を見上げたその瞬間、骨董品店のすぐ前の広場で、虚空にバリバリとガラスが割れるような漆黒の「ひび割れ」が走った。
空間が裂け、そこから どろりと溢れ出てきたのは、禍々しい「人間の形」をした異形の群れだった。
「グルゥゥアァァアアアッ!」
姿形こそ人間に酷似しているが、その肉体は不自然にねじ曲がり、全身から赤黒い高エネルギーのノイズを発している。他世界からこの世界へ意図せず弾き飛ばされ、ここの物理法則に適応できずに狂い果てた存在──『バグ』だ。
それが、しかも一体や二体ではない。空間の裂け目から、十数体ものバグが次々と這り出てくる。
「つ、ついに街の中にまで出やがった……っ!」
「例の化け物どもだ! 逃げろ、早く防衛隊を呼べッ!」
一瞬にして、市場は血と悲鳴の地獄へと変貌した。
安全圏だと思われていた場所のど真ん中に、突如として現れた複数の化け物。パニックに陥った群衆が押し寄せ、先ほどの親子を引き離す。
「母ちゃん!」「ルカ!!」
人の波に押され、ルカは足をもつれさせて石畳の上に転倒してしまった。
そのすぐ背後に、赤黒いノイズを激しく明滅させたバグが迫る。バグの肥大化した不格好な爪が、泣き叫ぶルカの頭上へと振り下ろされようとした、その刹那──。
ドォォォォォンッ!!!
落雷のような轟音が爆ぜ、市場の石畳が激しく陥没した。
「──ガアッ!?」
ルカを襲おうとしていたバグの巨体が、文字通り「消し飛んだ」。上空から超音速で質量落下してきた“何か”に脳天から踏みつぶされ、一瞬で赤黒い塵となって大気に霧散したのだ。
猛烈な砂煙が舞い上がる。
怯えて目を瞑っていたルカが、恐る恐る目を開けた。
砂煙の向こうに立っていたのは、獣人ではない。
見たこともないマットブラックの光沢を放つ、極めて洗練されたデザインの重装スーツをまとった「人間」の体躯。そのヘルメットのバイザーの奥から、鋭い眼光が周囲のバグの群れを冷酷に見据えていた。
男は、背中に背負った漆黒のブレードの柄にゆっくりと手をかける。
「──なんだ、随分とかわいらしい世界じゃねぇか。」
重低音の効いたスピーカーを介したその声は、ガロングの戦士──サカキのものだった。




