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バイブル・コード  作者: 中門大良
第5章【裏切りの聖域】

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5-2.ガロング

 深い闇の中、規則的な水音だけが響いていた。


 リュウは、重い瞼を押し上げた。全身を焼くような浸食の痛みは、鈍い疼きへと変わっている。


「……気がついたか。リリスの方は、俺が管理局の追跡コードを焼き切って、裏の回線に繋ぎ直しておいてやったよ」


 視界が明瞭になると、そこには椅子に深く腰掛け、煙草をふかすサカキの姿があった。コンクリート剥き出しの壁。そこは、管理局のセンサーも届かない、スラムのさらに地下深くにある廃棄区画だった。


「サカキ……ここは……」


「反乱軍『ガロング』のセーフハウスだ。管理局が不要として切り捨てたゴミ山の中から、牙を研ぎ続けてる連中さ。俺も、ここにいる奴らも、管理局の記述バイブルから消去されかけた残骸だ」


 リュウは上体を起こし、自分の左腕を見た。痣の広がりは一時的に止まっているが、焦燥感が胸を焼く。


「……失敗した。あそこでジンを切り離せなきゃ、俺は助からないってエナが言っていたんだ。このままじゃ、俺は……」


「あいつの言葉を、どこまで信じていいもんかな」


 サカキが顎で示した部屋の奥、重厚な鉄扉が音もなく開き、一人の男がゆっくりと姿を現した。「リュウ、紹介してやる。……俺たちが従っている、ガロングのかしらだ」


 サカキに促され、重厚な鉄扉の先から現れた男の姿に、リュウは言葉を失った。

 そこには、リュウが想像していたような怪物も戦士もいなかった。

 白髪の混じった髪を短く整え、背筋を刃のように伸ばした、一見すると品格すら漂う老紳士。

 だが、決定的な違和感はその「質感」にあった。彼の肌には傷一つなく、あまりにも「ノイズ」がなさすぎるのだ。まるで、世界の記述そのものが彼という存在を完璧に肯定しているかのような、不気味なまでの滑らかさ。


「……オッドだ。招かれざる『迷子』よ、歓迎しよう」

その声は低く、地鳴りのように響いた。


「オッド……。あんたが、ここのリーダー……」


オッドはリュウの前に立つと、感情の読めない灰色の瞳でリュウの左腕を見つめた。リュウの腕には、毒々しい痣がまだらに残り、皮膚の下で不気味に蠢いている。


「そのAI…リリスと言ったか。君の演算では、リュウが助かる唯一の道はジンの『物理的な切り離し』だった。……だが、今この状況でそれを強行すればどうなる?」


 リュウに張り付いているリリスが電子的な明滅を繰り返す。


『……再計算。現在の同期率では、物理的な切り離しは不可能。強行した場合、エネルギーが逆流し……事実上の死を迎える可能性があります。

エナが提示した「救済策」の前提条件が、現時点では崩れています』


「そんな……。じゃあ、エナの言っていたことは……!」


「……彼女の対応に不可解なことがある。……管理局で君の保護を担当していながら、なぜ浸食がこの段階に至るまで手を打たなかった? なぜ、もっと早くにその『切り離し』を完了させなかった?」


「それは……」


 リュウは、縋るように自分の左腕を抑えた。


「エナは、薬を作ってくれていた。浸食を抑えるための抑制剤を……。それで時間を稼いでいる間に、俺を普通の人間に戻す方法をずっと探してくれていた。……その薬の効果が追いつかなかっただけで…」


 必死に自分に言い聞かせるようなリュウの言葉に、オッドは冷淡な視線を返した。


「薬、か。……リリス。その抑制剤の履歴を照合しろ。現在の浸食速度に対し、その処置は論理的に正当と言えるか?」


『……履歴を解析。……判定不能。抑制剤の一部成分に、私のデータベースに存在しない未知のコードが含まれています。……ただ、客観的事実として、処置が浸食の速度を上回ることは一度もありませんでした。これ以上の遅延は、論理的に見て……死を招くだけの行為です』


「手遅れ……?」


「結果として、君はもう『人間』に戻れる段階を通り越している。リリスが示した通り、今さら切り離せば君は死ぬ。……残された道は、君とジンという二つの存在が一つに溶け合う、管理局が最も恐れるバグ……『融合』を引き起こすことだけだ」


 オッドの声が、冷たい水のようにリュウの脳裏に染み込んでいく。


「彼女が君を想っていることは否定しない。……だが、彼女が君に見せている『救済』の形は、本当に君が望むものと同じなのか? 彼女の正義が、我々の理解を超えた場所で計算されているとしたら?」


「正義……が……」


 リュウは自分の左腕を強く掴んだ。エナがいつも見せていた、あの慈愛に満ちた微笑み。

 それは今も、温かな光として記憶にある。

 しかし、その光の先にある道が、自分を「一人の人間」として生かすためのものではなく、もっと別の、巨大で異質な「何か」に向けられているのではないか。

 信じていた光が、急に冷たく、遠いものに感じられた。


「……来い、リュウ。管理局がジンを本当はどう扱っているか、その真実を自らの目で確かめるんだ。君が信じているものが、この世界の理の中でいかに歪められているかを知るためにな」

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