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バイブル・コード  作者: 中門大良
第4章【世界の境界】

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4-3.摩耗する世界

 清潔な白磁に囲まれた「エリア・ゼロ」の風景が、遠い過去のように思えた。

 リュウはエナの指示に従い、管理区域の最果てにある巨大な防護扉へと行き当たった。何層もの物理ロックと電子認証が施されたその鋼鉄の門は、局長級の最高権限がなければ、開くことさえ許されない代物だ。


「……待って、リュウ。その扉、管理局のメインフレームから完全に隔離されてる。リリスでもハッキングの糸口が掴めないわ。別のルートを……」


「……いい。その必要はない、エナ」


 エナが困惑する中、リュウは静かに、浸食された左腕を突き出した。

 その瞬間、治まっていたはずの左腕の痣が、焼けるような熱を持って再燃した。皮膚の裏側からどす黒い紋様が浮き上がり、漆黒の放電が扉の制御パネルへと奔る。ジンの意志がリュウの破壊衝動に直接応え、電子の鍵を論理ごと焼き切っていく。物理的に融解したロックが悲鳴を上げ、扉はゆっくりと口を開けた。


「うそ……バイブルの物理セキュリティを力任せに……?」


 絶句するエナを余所に、リュウは扉の先に広がる奈落を見下ろした。そこは深度排熱用の超巨大ダクト。ライトの光すら底に届かず、ただ吸い込まれるような虚無が垂直に続いていた。


「エナ、この先だ。……『ノイズ』が、ここから溢れ出してる」

「……ええ、リリスのセンサーも異常な数値を叩き出してるわ。この下はバイブルの地図にも載っていない空白地帯……。でも、ここを降りるしかないみたいね。リリス、何か利用できる設備はないの?」


 リュウは周囲を警戒し、ライトの光を激しく動かして壁面を照らした。その映像がリュウの神経リンクを介して、リリスへと転送される。


『……視覚情報を解析。……正面、十五メートル地点の壁面に旧式のメンテナンス用端子を検知しました。リュウ、左手をそのパネルに当ててください。ジンの放電を増幅器にして、私の信号をシステムの基幹へ強引に流し込みます。』


 リュウは言われるまま、火花を散らす左手を制御盤に叩きつけた。黒い電流が回路を駆け巡り、死んでいたはずのシステムに無理やり火が灯る。


『……ハッキング完了。ダクト壁面に貨物輸送用の磁気レールを確認。制御OSを掌握しました。……リュウ、そのまま身を投げ出してください。通過ポイントごとに私が磁場を強制放電させ、落下速度を強引に減衰させます』


「……分かった。行くぞ……!」


 リュウは躊躇なく、底の見えない闇へと飛び込んだ。内臓が浮き上がるような激しい重力加速度。しかし、数秒ごとに壁面のレールから青白い火花が散り、目に見えない巨大なクッションが体を叩くような衝撃が走る。リリスが旧式の設備をオーバーロードさせ、物理法則に逆らう「減速帯」を即興で構築していた。


 やがて暗闇の底へと着地したリュウを待ち受けていたのは、安息とは無縁の「有機的な地獄」だった。


「……何だ、ここは。……エリア・ゼロの下に、こんな場所があったのか?」


 ライトが照らし出したのは、壁一面に並ぶ巨大な、乳白色の「まゆ」の群れだった。血管のような太いパイプで一本の導管に繋がれ、時折、苦しげに中身が蠢いている。リュウが最も近い繭に歩み寄ると、リリスが透過スキャンの結果をバイザーに投影した。


「これは……執行官の制服か? ……まさか」


 液状の触媒に満たされた繭の中に、見覚えのある黒いタクティカルスーツが浮かんでいる。剥ぎ取られる間もなく放り込まれたその姿を前に、リュウは言葉を失った。さらに隣の繭を照らす。そこには人間とは明らかに異なる関節、不自然に長い四肢を持つ「異形」たちが閉じ込められていた。彼らの胸部には銀色の端子が直接打ち込まれ、そこから光り輝く液体が脈動とともに吸い出されている。


 ふと、リュウのライトがその足元に転がっている「ゴミ」を捉えた。それは、泥に汚れた子供用の靴と、スラムの住人がよく身に付けている安価な合成繊維のボロ布だった。


「…これはスラムの住人の持ち物か? 執行官だけじゃない、あそこに住む連中や異形まで……一体何なんだ?リリス、解析データを。

……エナ、これは何をしてるかわかるか?」


「……送られてくるエネルギー波形、これ……都市の基幹インフラに直結してるわ。……リュウ、信じられない。バイブルは、彼らから抽出した生体エネルギーを強引に変換して、都市管理の演算リソースを補完するための燃料にしてる。……彼らを生きたまま、システムの『消耗品』にしているんだわ……!」


「……っ、ふざけるな! 邪魔になった奴らや、スラムの連中を、こうやって都市を動かすための『餌』にしていたのか!?」


『……警告。空間の不連続性が増大。この場所で行われているエネルギー変換の過酷な負荷が、都市の物理層に致命的なバグを異常発生させている可能性があります。……私たちが観測していた「ノイズ」の正体は、これかもしれません』


 リリスの控えめな声が届いたその瞬間、浸食された左腕が共鳴するように激しく疼いた。腕の痣から伝わる嫌な熱感と、この空間を満たす耳障りなノイズが、全く同じ「波長」で脈動している。


(……リリスの言う通りだ。左腕の感覚が、そう言ってる)


 リュウの脳裏に、数日前、管理官から「スラム第八区画の件はブリーフィングで確認済みだろう」と冷淡に告げられた記憶が蘇る。あの時、排除されたはずの「脅威」も、第7部隊の殉職したはずの隊員たちも、実際はこの場所から漏れ出していたバグの隠蔽工作に利用され、この血塗られたシステムの維持に捧げられただけだったのだ。


『……ケッ、管理局の連中、ここに転がってる連中を「バッテリー」代わりにしていやがったのか。……反吐が出るぜ』


 脳内で吐き捨てるジンの声には、激しい不快感が宿っていた。

 守ってきた「秩序」の正体が、この大規模な虐殺の上に成り立つシステムの核だったという事実に、リュウの拳が震えながら壁を叩く。


「……俺たちが守ってきたのは、こんな……血塗られた機械だったのか……!」


 激昂に呼応するように、左腕の浸食がさらにその範囲を広げていく。


「リュウ、今は怒りを抑えて。……リリスが導き出した座標……このフロアの最深部に、ジンの本体が捉えられているはずよ」


 リュウは冷徹な瞳で闇の先を見据え、深淵のさらに奥へと駆け出した。

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