4-2.侵食の兆候
スラムの地下深く、かつて廃棄された巨大ダクトの中を、リュウはエナのナビゲートに従って進んでいた。
頭上のマンホールから差し込むわずかな光すら届かない、完全な闇。手元のライトが照らし出すのは、赤錆びた鉄パイプと、得体の知れない粘液が滴るコンクリートの壁だけだ。
「……リュウ、聞こえる? その先のT字路を右よ。バイブルの監視網からは外れているはずだけど、物理的な防衛ユニット……清掃用ドローンには気をつけて」
レシーバー越しに届くエナの声は、ノイズ混じりながらも落ち着いていた。リュウはその指示通りに足を運びながら、自分の体に起きている「異変」に神経を尖らせていた。
(……おかしい。さっきから、視界が滲む)
ライトの光が、時折、現実にはありえない色彩に染まって見える。
錆びた鉄の色が、鮮やかな緋色や、深淵のような紫に明滅する。壁のひび割れが、まるで生き物の血管のように脈打っている。リュウは激しく瞬きをして視界を正そうとしたが、網膜の裏側に焼き付いた「ノイズ」は消えなかった。
『……チッ……このクソ忌々しい色彩。……「向こう側」の景色を、お前の脳が無理やり翻訳し始めてやがんだ』
脳内で、ジンの吐き捨てるような声が響いた。その声にはいつもの嘲笑はなく、代わりに隠しきれない苛立ちと、微かな怯えが混じっている。
(……ジン、お前も、これを……)
『ああ、嫌でも流れ込んでくる。お前の視覚と俺の意識の境界が、溶けて混ざり始めてやがるんだ。……これに飲み込まれたら、お前は二度と「こっち側」の形に戻れなくなるぞ』
ジンの警告は、かつてないほど切実だった。
浸食は、単に痣が広がるだけではない。自分の脳そのものが、この世界の物理法則を忘れ、異世界の理に書き換えられようとしているのだ。
「リュウ? どうしたの、バイタルが乱れているわ。……そこに何かいるの?」
「……いや、何でもない。……立ちくらみがしただけだ」
エナに心配をかけたくないという思いから、リュウは嘘をついた。しかし、その嘘をあざ笑うかのように、次の瞬間、彼の「聴覚」が異様な音を捉えた。
——ギギ……、ズズズ……。
無機質なダクトの反響音に混じって、硬い爪がコンクリートを削るような、あるいは濡れた肉塊が這いずり回るような、生理的な不快感を伴う「不協和音」が脳を直接締め付けてきたのだ。物理的な音の隙間に「異質な意志」がひしめき合っているような、悍ましい気配があった。
「……っ」
リュウは激しい耳鳴りに耐えながら、壁に手をついて進み続ける。その指先が触れた壁の感触が、冷たいコンクリートから、湿った生暖かい「皮膚」のような質感に変わった気がして、彼は思わず手を引いた。
「リリス。……リュウの現在地から、エリア・ゼロ外殻までの最短ルートを再検索して。……急いで」
レシーバーの向こうで、エナがリリスに指示を飛ばしている。リュウは、自分を救おうと必死に戦っている彼女の声を支えに、意識の混濁を押し留めた。
「……大丈夫だ、エナ。……先を急ごう。……リリス、次の指示を」
『……了解しました。リュウ、前方三十メートル地点に、深度四への垂直シャフトを確認しました。……現在、あなたの生体波形が、ジンと急速に同調し始めています。意識を保ってください。……無理はしないで。あなたが無事に辿り着くことを、願っています』
リリスの丁寧な呼びかけと、感情の揺らぎを感じさせる一言が、今の彼には妙に温かく響いた。
リュウは震える手で重いハッチをこじ開け、さらに深い闇へと踏み出した。




