3-4.忘却のアーカイブ
北三区。かつては巨大な物流拠点として栄えたその場所は、今や管理局の都市計画から切り捨てられた「空白地帯」だった。バイブルが管理するクリーンな自動清掃ドローンも、空気を浄化するナノマシンもここには届かない。湿り気を帯びた重い沈黙と、腐食した金属の臭いが鼻を突く。
リュウは、エナに教えられた廃棄ダクトを伝い、巨大な生体照合ゲートの前に立っていた。通路を塞ぐように展開された粒子スキャナーが、淡い膜のような光の壁を作っている。本来なら、その境界線を一歩でも越えた瞬間、未登録の生体反応は不可視の拘束フィールドに捕らえられ、身元照合の不一致によって即座に「脳神経の強制シャットダウン」——つまり、物言わぬ人形へと処理されていただろう。
だが、今のリュウがその光の壁を跨いでも、警告灯は沈黙したままだった。センサーの波形モニターには、リュウの通過に合わせて「気圧の微小な変動」というログが刻まれただけだ。彼は、自分の存在がデータ上から完全に消去されていることを、この冷たい静寂の中で再認識した。
(……本当のバグになったんだな、俺は)
「異常」として検知され、排除されることすら叶わない。今の自分は、バイブルの演算からこぼれ落ちた、名もなき空白だ。世界に認識されないということは、ここに存在していないのと同じこと。リュウは、自分の実体感すら希薄になっていく恐怖を振り払うように、さらに階段の奥へと足を進めた。
ゲートを抜け、さらに地下深くへと階段を降りる。そこは、数十年前の「旧地下鉄」の遺構だった。壁に貼られた剥がれかけの広告、錆びついた改札機。すべてがバイブル誕生以前の、アナログな時代の名残に見えた。
リュウは分厚い防塵扉の横にある旧式の端子へ、エナから託されたデータ・チップを差し込んだ。鈍い駆動音と共に電子ロックが解除される。だが、その先に現れたのは、現代のバイブル環境では決して見ることのない「機械式シリンダー」を備えた重厚な鋼鉄の扉だった。
リュウは真鍮の鍵を差し込み、ゆっくりと回した。ガリ、という不快な金属音が静寂を切り裂く。扉を開くと、そこには埃に埋もれた巨大なサーバーラックが並ぶ、文字通りの「アーカイブ」が広がっていた。
中心にあるメインコンソールへ向かうと、既に読み込まれていたチップのデータが連動し、青白いモニターがチカチカと点滅しながら目覚めた。表示されたのは、管理局の公式記録には存在しない極秘レポート。
【プロジェクト・ジノム:初期適合実験記録】
レポートの冒頭には、管理官が以前口にした忌まわしいコードネームが刻まれていた。
【被検体01(ゼロワン)——呼称:ジン。異境座標より抽出した思念体と、生体定着実験】
リュウの視線が、ページをめくる指先で止まった。そこには、細胞が異常増殖し、人間としての形を失い、出撃の瞬間、あのノイズの渦巻く「世界の裏側」へと叩き込まれる際に網膜に焼き付いていた異形の塊——その、成り立ちを示す無残な記録が残されていた。
【被検体01は意識の兵器化に成功したが、肉体の増殖が制御不能。物理実体は深層隔離セクターへ常時封印。実戦運用に際しては、適合者(外部端末)の「痣」を誘導標的として本体を戦域へ直接転送。適合者の神経系を介して、本体の物理破壊力を直接制御させるものとする】
リュウの指が震える。出撃の度、自らの手で拘束を解き、歪んだ光の中へと引きずり出していたあの化け物は、かつては意志を持ち、管理局によって「抽出」された犠牲者だったのだ。痣は、その魂の成れの果てを戦場へ呼び戻し、使役するための、血塗られた鎖に過ぎない。
【適合に失敗した個体は「バグ」として処理。成功した個体は記憶をクレンジングし、執行官として再配置する】
リュウの頭の中に、ジンの嘲笑うような声が響いた。これまでにない、底冷えするような怒りを含んだ声だ。
『……おいおい、聞いたかよ、リュウ。俺様は異世界から浚われてきた「迷子」で、お前は俺を鎖に繋いで戦場へ引きずり出す、記憶を消された「飼い主」だってよ。笑えるじゃねえか』
「……黙れ」
リュウはモニターを睨みつけた。自分が信じてきた正義も、守ってきた秩序も、すべてはこの不気味な兵器——元・意識体を飼い慣らし、隠蔽するための舞台装置に過ぎなかったのか。
その時、アーカイブの入口で、カチリ、と銃の安全装置を外す音が響いた。
「……まさか、本当にここを見つけるとはな、リュウ」
背後から響いたのは、数多の戦場で背中を預け合い、今や自分を消去すべき「一等執行官」へと昇りつめた男——カインの声だった。




