3-3.見えざる者
自分のデスクに座っても、指先が冷え切ったままだった。
かつては報告書の作成や装備のメンテナンスで騒がしかったはずの自席が、今は音を吸い込む空洞のように感じられる。隣にあるサカキの空席が、網膜の隅で嫌な存在感を放っていた。
その時、リュウの手首にある個人端末が、震えともつかない微細な振動を返した。通常の通知音ではない。それは、バイブルの標準プロトコルでは決して鳴ることのない、ノイズのようなリズム。
『エリア・ゼロ、第三保守通路のD-12地点。……誰にも見られずに、来られる?』
送り主の名はないが、その簡潔でいて少しだけ自分を試すような文体はエナのものだった。リュウは周囲を盗み見た。同僚たちは相変わらず、彼がそこにいないかのように振る舞っている。今のリュウにとって、彼らの「無視」こそが最大の隠れ蓑だった。
リュウは誰にも悟られないよう、端末の画面を一度だけタップした。承認を示す短い信号がエナに飛んだはずだ。
彼はそのまま、ごく自然な動作で席を立った。壁や天井のいたる所に埋め込まれた、職員のバイタルを24時間監視する「バイブルの眼」の下を、吸い込まれるように通り抜けていく。
本来なら、管理下にある職員が許可なく持ち場を離れれば、即座にバイタル・ロストの警告が鳴るはずだった。しかし、リュウの心拍も脳波も、今はエナの処置によってシステム側で「施設の環境ノイズ」として誤認されている。リュウという人間が一人動くたびに、バイブルのログには「空調の出力が微増した」という無機質な記録だけが刻まれていく。
リュウは、自分が世界から切り離され、ただの「音」に成り下がったような錯覚に陥りながら、地下深層、エリア・ゼロへと辿り着いた。
指定された保守通路のハッチが開くと、そこには白衣を脱ぎ、身体にフィットした黒いタクティカル・ウェアに身を包んだエナが待っていた。リュウの姿を認めると、彼女は安堵と緊張が混ざった複雑な表情を見せた。
「……うまくバイブルの監視網を巻いてきたわね。再調整後の経過はどう? どこか、変な感じはしない?」
「……身体が、自分じゃないみたいだ。監視センサーの真横を通っても、何も反応しなかった」
「それでいいの。でも、安心してはいけないわ。今の貴方は、システムがまだ気づいていないだけの『計算ミス』に過ぎないのよ」
「計算ミス……?」
「バイブルは常に、この世界の全データを照合しているわ。貴方が歩くたびに動く空気の揺れ、消費される酸素……。私が施した偽装も、バイブルがその『不自然なノイズ』の正体を突き止めるまで、あと数日の命よ。……そうなれば、貴方の存在そのものがエラーとして破棄される。サカキくんが、塵一つ残さずこの世界から消去されたようにね」
リュウの指先が、かすかに震えた。サカキは、もういない。次は、自分の番かもしれない。
「生存る道は一つしかない。システムが手出しできない領域で、貴方とジンの適合率を、バイブルの想定以上に引き上げることよ。……そうすれば、貴方は『消せない重要資産』に昇格できる。……さあ、貴方が本当に『透明』になれたのか、ここで最後の一押しを確かめさせてね」
エナが端末を操作すると、通路の中央で「スキャン・ゲート」が冷徹な青い光を帯びて起動した。二等執行官として数多くの現場を潜り抜けてきたリュウは、その光の意味を嫌というほど知っている。個体波形を分子レベルで照合し、許可なき異物を一瞬で「分解」する処刑台だ。かつて、システムに拒絶され「バグ」と化した元同僚たちが、逃げ場を失い、この光に焼かれて消えていったのを、彼は何度も執行官として見届けてきた。今度は、自分がその審判の場に立つ。
「今の貴方の波形は、『無害な残骸』としてシステムに定義し直してあるわ。……躊躇わずに、行って」
「……もし、俺が認識されたら?」
「ゲートの認識回路を一時的にオーバーロードさせて、システムが再起動するまでの五秒間を稼ぐわ。その隙に、私が貴方を引きずり出す。……だから、私を信じて、リュウ」
彼女の指は、緊急用の実行キーの上で静かに震えていた。
リュウは一つ深く息を吐き、ゆっくりと歩き出した。ゲートの青いスキャン光が、冷徹なナイフのように全身をなぞる。脳内で、沈黙していたジンの意識がわずかに身じろぎした。
『……チッ。気持ち悪い光だぜ。……だが、不思議だ。俺を焼こうとする熱を感じねえ』
リュウの足が、ゲートの最深部を越えた。警告音も、赤いフラッシュも起こらなかった。管理局の「眼」は、目の前を通り過ぎる最大級の危険物を、ただの空気が流れただけだと判断したのだ。
「……成功よ、リュウ」
ゲートを抜けた先で待っていたエナが駆け寄り、安堵したように彼の腕に手を添えた。彼女はそのまま首元から細いチェーンを外し、その先に揺れる真鍮製の古びた鍵とチップをリュウの掌に載せた。
「このチップが、目的地にある電子ロックを欺く。でも、最深部の保管庫は、バイブルの介入を拒むために独立した機械式のロックが掛けられているわ。……無理にこじ開ければ、その瞬間に振動センサーが警報を鳴らす。痕跡を残さずに真実を盗み出すには、その鍵で静かにシリンダーを回すしかないの」
「……あんたは、それを一人で調べていたのか。なぜそこまで詳しい?」
「……いつか、貴方のような個体が現れた時のために、恩師から託されていたのよ。北三区の廃棄エリアへ向かって、リュウ。あそこには、バイブルが隠蔽した『痣の初期個体』に関する物理アーカイブが、今も眠っているはずよ」
エナはリュウの手を強く包み込み、言い聞かせるように一度だけ深く頷いた。それは、不安に揺れるリュウを鼓舞すると同時に、自らも「管理局への反逆」という一線を越えたことを自覚する、覚悟の合図だった。
「……わかった。そこへ行けば、生存る手がかりが掴めるんだな」
「ええ。……気をつけて。あそこは管理局の光すら届かない、本当の闇の中よ」
透明なバグ。
世界に存在を否定されたリュウは、掌に残る鈍い金属の冷たさを、自分がまだ「人間」としてこの世界に繋ぎ止められている唯一の証拠であるかのように握りしめた。彼はそのまま、バイブルの記憶から消された暗闇へと潜り込む決意を固めた。




