3-1.聖域のメス
隔離室の気圧がわずかに変化した。
無機質なスライドドアが開き、吸音性の高いソールが床を捉える、わずかな衣擦れのような音が近づいてくる。意識の混濁の中にいたリュウは、その音のなさに聞き覚えがあった。
「……目覚めてから、一度も暴れていないわね。従順なのは助かるわ、リュウ」
聞き慣れたエナの声だ。彼女は手元の端末を操作し、拘束デバイスの出力を微調整した。神経を直接逆なでされるような痺れが引き、リュウは肺に残っていた熱い空気を吐き出した。
「……カイン、たちは……無事……なのか」
「ええ。カイン一等執行官は、事案の『後片付け』に協力した功績で昇進候補よ。……安心なさい、あの日あの場にいた全員、公式には『貴方が機材を暴走させた爆発以外、何も見ていない』ことになっているわ」
エナは淡々と、しかしどこかリュウの痛みを理解しているような静かな声で告げた。救ったはずの仲間たちが、真実を捨てて「リュウの暴走」という嘘のシナリオに口を揃えているという残酷な現実を。
「……そう、か。……なら、いい」
「いいわけないでしょう。バイブルは、今の貴方を『制御不能なリスク』だと定義している。……だから、今ここで私が貴方を『修正』しなければならないの。これ以上、周囲を壊さないためにもね」
エナがリュウの左脇腹――あの不気味に脈動する「痣」に、虹色に明滅する液体の入ったインジェクターを突き立てた。
血管の中に沸騰した鉛を流し込まれたような激痛が走り、リュウの身体が大きく跳ねる。
『――アッ!? 離せ……ッ、この女、俺を……俺を「削り」に来やがった……ッ!!』
脳内を蹂躙するジンの悲鳴。
エナの視線の先にあるモニターには、ジンの拒絶反応を示すノイズ波形が真っ赤に燃えるように乱れ飛んでいる。エナはその凄まじい波形を見つめながら、一瞬だけ痛ましそうに目を細め、リュウの震える肩にそっと手を置いた。
「……耐えて、リュウ。ジンの出力を抑え込み、貴方の理性を繋ぎ止めるための劇薬よ。管理局が貴方を正式に『廃棄』と判断する前に、仕様を書き換える必要があるの」
「……どうして……あんたは……」
「貴方を、管理局から隠された『透明なバグ』に作り変える。感知できないコードの深層へ痣を沈めれば、貴方はまた『人間』として外を歩けるようになるわ」
エナの瞳にあるのは、冷徹な執着だけではない。リュウという存在が壊れていくことへの、彼女なりの抗いのように見えた。その手法が管理局のルールを逸脱していると知りながら、彼女はリュウを救うために禁忌に手を染めている。
痛みが引くと同時に、リュウの意識は底知れぬ闇へと沈んでいった。
遠のく意識の中で、エナが耳元で囁いた言葉だけが、暗闇に灯る小さな火のように残った。
「耐えてね、リュウ。貴方はまだ、ここで壊れていいはずがないんだから」




