司馬炎の復帰
徐苑は、長安の司馬炎に向けて、文を書き綴っていた。
『司馬炎殿。半年の後、羅馬より使節団がやって来ます。司馬炎殿もご存知の通り、遠き西国にある暁に匹敵する程の大国です。半年後に、暁は彼らと向かい合うことになります。私は暁の代表の一員を、帝より仰せつかりました。勿論逃げるつもりはありません。父から託された使命を、今こそ果たす機会なのですから。成都には、姜維殿も、華真殿も居られます。しかし私の眼から見れば、もう一枚、智慧者が足りないのです。あの羅馬の事を熟知する人物が…。私は司馬炎殿と、一年余をかけて様々な事を話し合って来ました。特にあの羅馬について…。今の司馬炎殿ならば、羅馬との外交に当たって自らのお考えをお持ちの筈。是非とも成都に赴き、その御智慧を発揮されますように…』
徐苑からの文を読み終えると、司馬炎は溜息をついた。
「困ったな。しかし徐苑殿からこのような文が届くという事は、徐苑殿は既にこの事を帝にも上申しているであろうな。」
そう呟きながら、司馬炎は顔に巻いた包帯に手をやった。
数日後、司馬炎は郡主の館からの呼び出しを受けた。
館では、郡主の夏侯舜が司馬炎を出迎えた。
「いきなり郡主自らが迎えに出て来られたと言うことは、帝から何らかお達しがあったと言う事ですね。」
夏侯舜は、全てを察している様子の司馬炎を観て薄く笑った。
「何だ、もう既に貴方は要件を察しておられる様子だな。相変わらず恐ろしい人だ。そこ迄分かっているのなら話は早い。帝から、貴方を召し上げるとの勅書が届いた。直ぐに成都に向かって欲しい。」
それを聞いた司馬炎は、小さく嘆息した後に夏侯舜に拝礼した。
「分かり申した。本来ならば夏侯舜殿の下で、時には必要となる汚い仕事に身を窶しながら、後半生を全うする覚悟を決めていたのですが…」
「私などの下に貴方がいるのは勿体無い。前々から分かっていた事だ。それは帝もご存知であろう。だからこその今回の勅命だ。貴方は司馬の亡霊が今更とかと言い続けて来たが、あの時から既に十年以上が経っているのだ。私からも頼む。今後はどうか帝をお支えしてくれ。この通りだ。」
夏侯舜に頭を下げられ、司馬炎は苦笑した。
こうして司馬炎は、成都へと向かった。
成都では、帝の志耀、そして華真、姜維、徐苑が、待ちかねた様子で司馬炎を迎えた。
司馬炎の顔を見るなり、姜維が言った。
「早速にも司馬炎殿の意見を伺いたい件が満載となっております。勿論、先ずは羅馬に関する事。直ぐに評議を開きたいと思います。」
徐苑から羅馬よりの申し入れを聞かされた司馬炎は、小さく眉を上げた。
「ほぅ。羅馬は、暁国の軍備のあり様について視察したいと言って来ているのですね。」
姜維が、どうしたものかという思案顔を見せた。
「せっかく遠方から赴くので、暁の軍備の情報も持ち帰りたいのでしょうな。しかし軍備の事となれば、おいそれと承諾は出来ません。司馬炎殿はどう思われますか。」
司馬炎は少し考えるように眉を寄せてから顔を挙げた。
「ただ見せるのではなく、しっかりと見せつけるのが良いと思います。」
「ほぅ、見せつけると…。それは何故ですか?」
「羅馬も、先を考えた上での申し入れでしょう。将来に於いて暁と刃を交える事態となった時のために、暁がどれ程の力を持っているかを今のうちに知っておきたいのでしょうな。」
司馬炎の言葉に、姜維は眼を瞬いた。
「それを承知の上で見せつけるとは…。何をお考えですか?」
「今の羅馬軍のあり様、徐苑殿から詳しく聞いています。羅馬の戦というのは、基本的に歩兵のぶつかり合いによる殲滅戦です。それ故に、羅馬の歩兵隊は恐ろしい程に訓練を受けています。歩兵隊による攻城の武器も整っています。但し…」
そこで一旦言葉を切った司馬炎は、座に居る三人を見回した。
「弓矢などの飛び道具については、羅馬は、今の暁には遥かに劣ります。弩弓や超弩弓、更には連射弓といった武器は、羅馬には存在しません。これらは、諸葛亮孔明殿が基礎を描き、その後華真殿が長きに渡って工夫を重ねて来たもの。直ぐに羅馬に真似出来るものではありません。」
それを聞いた姜維が、難しい表情になった。
「いや、しかし…。そうであれば尚のこと、己の手の内を晒すのは拙いではありませんか。」
「確かに…。両国が一触即発の状態にあるのならば、手の内を晒すのは愚策です。しかし、今の両国はそのような関係にはありません。暁の優れた軍備を見せ付ける事で、暁を怒らせるのは拙いと、羅馬に知らしめる事の方が有益と考えます。仮に羅馬との国交が開かれれば、様々な交流の中で、暁の武器の事はいずれ羅馬には知られましょう。その前に有効に使うのが良策と考えます。」
ほぅと顔を挙げた姜維を見て、司馬炎は更に言葉を繋げた。
「それと、今から申し上げる事は…。そこ迄する必要があるかは分かりませんが…」
今度は華真が、興味深げな眼を司馬炎に向けた。
「まだ何かお考えなのですね。是非お聞かせください。」
司馬炎は、軽く唇を舐めた後、徐に口を開いた。
「暁は今、西域で国境を接する国々と共に、その先にある波斯国とも交易の交渉を始めています。波斯国に対する交渉条件として暁の武器提供を考えていると、羅馬に伝えるという手があります。常に波斯国と衝突を繰り返している羅馬は、その事を知らされれば青くなりましょう。しかしこれはあくまで方便です。波斯国に対しての武器供与など、絶対に行うべきではありませんから…」
ずっと黙って聴いていた志耀の眼に、司馬炎に対する畏敬の色が宿った。
「司馬炎殿は、恐ろしい方ですな。そこ迄考えが回るとは。徐苑殿は、今の司馬炎殿の献策について、どうお考えですか?」
そう問われた徐苑は、司馬炎に畏怖の眼差しを送った。
「正直、呆れ返っております。私が一年あまり共に話を交わして来たお人が、このように恐ろしい方であったとは今迄気付きませんでした。今の羅馬は、自国領土以外に手を伸ばす余力は無いと思います。しかし隣接する波斯国については、厄介な相手と考えているのも事実。司馬炎殿のお考えには、只只敬服いたします。」
「ふむ。それで…華真殿にも異論はないのだな。」
華真が深く拝礼するのを見て、志耀は頷いた。
「それでは、羅馬使節団に暁の軍備視察を許可する事にしましょう。。姜維殿、どうせやるなら派手にやって下さい。只見せるだけでなく、実際に武器を使う場面も視察して貰えば良い。そういった場を見なければ、威力は伝わらぬでしょう。」
志耀の元から下がった司馬炎は、共に廊下を歩む華真に話し掛けた。
「帝は、実に頼もしくなられましたな。聞くべき所は、しっかりと聞かれる。そして決めるべき時には、迷わず判断を下される。華真殿と姜維殿が、しっかりと補佐されている賜物ですな。」
「帝の日常には、呂蒙様と王平殿がいつも付き添っております。呂蒙様が、政の評定に顔を出される事は滅多にありませんが…。しかし帝は、いまだに呂蒙様には頭が上がらぬご様子ですね。」
華真の言葉に、司馬炎は小さく笑った。
「呂蒙様ですか…。あの方からは、以前に炎翔が過分なお声掛けを賜っておりますね。ご高齢ですが、今もお元気なのですか?」
「元気も元気。事ある毎に、帝を叱りつけています。あのような真似、呂蒙様にしか出来ませんね。そう言えば呂蒙様は、今でも炎翔に未練があるようですよ。」
それを聞いて、司馬炎が首を傾げた。
「はて…。炎翔は医術の道に進むと、伝え聞いていますが…」
「その通りです。ただ呂蒙様は、まだ諦めが付かぬご様子で…。炎翔を自分の弟子にしたかったと、今でも周囲の者達に愚痴を零されているようです。」
「炎翔には随分と過分な評価ですね。しかし彼奴は、人に教えを請う前に先ずは自分を確立せねばなりません。それにもがいた結果が、医術の道とは想像もしていませんでしたが…。」
華真は立ち止まると、司馬炎に向き直った。
「炎翔は、必死に研鑽を積んでおりますよ。薬学や診療については、華鳥が付き切りで教えているようです。司馬炎殿も成都に来られたのですから、これから先は、炎翔にも色々と教えを施されては如何ですか?」
「いや…。医術の事など私には分かりません。しかし彼奴が今後困難にぶつかり、岐路に立った時には、父子としての会話をしてゆこうとは思っていますよ。」
そう言うと司馬炎は顔を挙げ、眼帯をした隻眼の眼で空を見詰めた。
華真が自分の邸に戻ると、身の回りの世話をする側仕えの男が直ぐに声を掛けて来た。
「飛仙の御父上がお見えになっています。」
その言葉に、華真は驚いた。
はて?華鳥の店ではなく、直接私の所に来るとは…。
珍しい事もあるものだ。
これは、羅馬の事を嗅ぎつけてやって来られたのかな。
応接の間に入った華真に向かって、父の華翔が片手を挙げてにっと笑った。
「久しぶりだな。お前は、この国でも御偉い人間の一人の筈だが、随分と質素な邸じゃねぇか。使用人も殆どいない様子だな。」
「妻子がある訳でもありませんし。独り身で王宮内で暮らすなら、人手はそれ程必要とはしません。各部署への連絡の為に、一人だけ側の者を付けて貰っていますが。それで十分です。」
「三度の飯なんかは、どうしてるんだ?」
「王宮には、食事処がありますから。時々は帝からお誘いも頂きますので、不自由はありません。」
「何だ。帝と一緒に飯を食ってるのか? 結構良いものを食ってるんだな。」
「親父殿が何時も口にされるような美食三昧の料理は出ませんよ。帝と言えども、普段召し上がっているのは質素なものですよ。」
「ふぅん、そんなもんなのか。」
意外そうな表情で頬を掻く華翔を見ながら、華真は話題を変えた。
「親父殿が急に会いに来られたという事は、何か特別な用件がお有りと思いますが…。」
すると華翔は、にやりと笑った。
「なんか面白そうな事が起こってるじゃねぇか。羅馬から使節団が来るそうだな。」
やはり、もう嗅ぎつけていたか…。
楽しげな笑みを浮かべる華翔を見ながら、華真は苦笑した。
「華鳥の亭主から、新しい香辛料を手に入れたいという依頼があってな。俺の方から送った物について追加を頼んで来る事はあっても、彼奴から新しい香辛料が欲しいと言って来るなんてのは初めてだ。それで、店に乗り込んで聞き出したって訳だ。」
「そういう事でしたか。それならば、親父殿も羅馬の事については色々ご存知でしょう?是非、今後の羅馬との折衝について、ご助言を頂きたいですね。」
そう言った華真に向かって、華翔は大きく手を振った。
「政に関わるのは真平御免だ。そういうのは、お前の領分だろうが。」
「ならば、どのようなご用件でやって来られたのですか?」
「お前の耳には未だ届いてねぇのか? 耀春が使節団の接待の為に、上等な絵皿を千枚、窯主に発注したっていう話は…。」
それを聞いて、華真が興味深そうな顔になった。
「ほぅ。耀春が何かを思い付いたのですね。それと親父殿がやって来られた事の間には、何か関係があるのですか?」
すると華翔は親指をぐいと立ててみせた。
「可愛い孫の為だ。俺も一肌脱いでやろうと思ってな。」
「ほぅ。という事は、それだけの数の皿を揃えるには、陶芸師か或いは窯が足りないのですか? それを親父殿が何とかしようと…?」
しかし華翔は、首を横に振った。
「いんや。耀春が発注を出した窯主の男は、その世界では結構な顔役でな。多くの職人達に、その男から声が掛かっている。新しい窯もどんどんと作ろうって話になってるらしい。」
それを聞いた華真は首を捻った。
「それならば、何の問題もないように見えますが…。」
華翔は、殊更に大袈裟な溜息を付いた。
「やっぱり、お前は甘えなぁ。今回の仕事は、一回だけのもんだろうが…。それが終わっちまったら、その後はどうなる?ここの不安を解消してやらなきゃ、連中の本気は引き出せねぇんだよ。」
そう言って華真の肩を叩く華翔を前にして、華真は苦笑いを漏らした。
「何かお考えがお有りなのですね?確かに此方の方こそが、親父殿の領分ですね。」




