胡蝶の技
ある日、胡蝶は華鳥から声を掛けられた。
「胡蝶、明日は王宮の医療処に出向くわよ。貴女も一緒に来なさい。」
そう言われた胡蝶は、思わず胸の前で両の手を組んだ。
「王宮の医療処って、王宮の偉い方々だけを診る場所ですよね? そんな所に何故私のような者が…」
「鎮痛効果の高い新しい薬草が王宮の医療処に持ち込まれたと、兄が知らせてくれたのです。もう一つ。兄自身が考案した新しい器具が其処にあると…。確かに王宮医療処は敷居が高いので、私も今迄行かないようにしていたのですが、せっかくの兄からの誘いです。貴女も一緒に来なさい。市井の医療所では見ることがない薬草や器具を見ることが出来ますよ。」
二年ほど前から、胡蝶は華鳥に連れられて、市井の医療所に定期的に足を運んでいた。
最初は雑用係だったが、直ぐに華鳥の側に付いて、診断を手伝うようになった。
華鳥は、胡蝶に診断や治療について教え始め、軈て助手として使うようになって行った。
華鳥から、一緒に王宮医療処に連れて行く、と言われた胡蝶は緊張した。
「王宮にある医療処って、どんな風なんだろう?ちょっと怖い。でも新しい薬草とか器具とかは、是非見てみたい…。」
こうして、王宮医療本処を訪れる華鳥の傍に、胡蝶が付き添った。
王宮門前では、医療長が華鳥達を迎えに出て来ていた。
「華鳥様。此処に来られるのは本当に久しぶりではありませんか? 最初はこの王宮医療処にお誘いしたはずなのに、いつも市井の医療所にばかり出向かれており、此方はお見限りのままでしたから。華鳥様が市井医療所を選ばれた事については、王宮の上部から貴女様の意を尊重せよとの下命を受けましたので、それは重重分かってはいるのですが…」
当初は王宮医療処への復帰を依頼された事を蒸し返された華鳥は、むっとした表情で医療長に向き合った。
「王宮医療処の患者は、王宮の方達ばかりですからね。私のような一度引退した者が気易く訪れる場所ではありません。何よりも患者が混み合っている訳でもありません。それに引き換え、市井の医療所は、何時も患者さんでごった返しています。そちらの方を優先すべきと思ったのです。」
眼を瞬いた医療長に対して、華鳥は更に言葉を繋げた。
「しかも王宮医療処には、最初のお話とは違い、女医は誰一人としていませんでした。それに比べて、市井の医療所には複数の女医志望の者がいます。お願いされた一つ目のご依頼を果たす為にも、市井医療所を選びました。」
華鳥の言葉に慌てた医療長が、すぐに口を開いた。
「そ、それは、その通りでは御座いますが…。しかし...華鳥様と同じような手術を熟せる者が、王宮医療処には未だにいないのも事実です。本来は此方にも来て頂かねば...。華鳥様から直接に手術の技術を学びたくて、市井の医療所に配置変えを申し出る医者達が続出して、困り果てております。」
「王宮医療処に籍を置く方であっても、本当に熱心な方は市井の医療所に頻繁に足を運んで、私に会いに来られています。彼らの手に負えぬ時は、私も駆けつけますよ。しかし手術というもの、未だ王宮では忌避する方々の方が多い。そうなれば手術の機会など、まず無いでしょう。市井医療所はその逆です。緊急で手術を選択せざるを得ない場合が多いですから…。つまり二番目のご依頼についても、ちゃんとやっている積もりですよ。」
医療長に対して歯に衣を着せない言葉を繰り出す華鳥を見て、側にいた胡蝶は身を竦ませた。
医療長は諦めたように一つ溜息をつくと、華鳥の横に立つ胡蝶に眼を向けた。
「ところで…お連れの美しい娘御は、華鳥様のお弟子ですか?」
そう問われた華鳥は、胡蝶を手招いた。
「未だ患者の診断や治療はさせていません。元々は私の主人の居酒屋で雇った者です。」
それを聞いた医療長の眼に、胡蝶を侮る色が生じた。
それを察した華鳥が、やや語気を強めた。
「最初は店の手伝いに来て貰っていたのですが....。機転がきくので、一度市井の医療所に連れて行って、私の手伝いを頼んでみたのです。すると中々の腕なのでこれは...と思ったのです。その後は、私の助手を務めてくれています。王宮医療処の医師達よりも使えるかもしれませんよ。」
華鳥の言葉に医療長は曖昧に頷いただけで、胡蝶を見る侮りの色は変わらない。
そんな医療長の姿を眼に入れながら、華鳥が言った。
「今日は折角の機会なので、この娘にも本処を見せてあげようと思って連れて来たのです。」
「それは、それは...。しかし羨ましい限りだ。何時も華鳥様のすぐ傍であの優れた医術を学べるなどとは....」
医療長にそう声を掛けられ、胡蝶は緊張した面持ちで拝礼した。
「胡蝶と申します。華鳥様のお弟子など...、とんでもないです。私はお手伝いをしてるだけですから...」
胡蝶の拝礼を軽く受け流した医療長は、すぐに視線を華鳥に戻した。
「ともあれ、そう言う事であれば、早速にも本処をご案内します。華鳥様のいらした頃とは様子も違っておりますので、気づいた事があれば、何なりとご助言をお願いします。」
医療長はそう言うと、二人を門内へと誘った。
約十年ぶりに王宮医療処の薬草保存庫に足を踏み入れた華鳥は、そこに納められた膨大な薬草の所蔵量に眼を瞠った
「此れは凄いですね。ありとあらゆる薬草が此処には集められている。しかも只集めるだけでなく、処方の結果や注意事項も全て棚の帳面に記されているとは...」
華鳥の言葉に、医療長は胸を張った。
「帝のご支援の賜物です。帝は国内だけでなく、国の外からも薬効があると言われるものは全てお取り寄せになり、我等の元に送って下さいます。しかもその薬効と注意事項は、必ず医療処の医師全員で共有せよと、強いお達しが御座いますから。」
そう言いながら、医療長は華鳥に大きな薬袋を差し出した。
「華鳥様が御所望になっていた鎮痛剤です。薬草を処理して貼り薬にしたものです。効能と注意を記した紙も一緒に入っています。」
丁寧に礼の言葉を述べて薬袋を受け取った華鳥は、次に医療器具の棚に眼を向けた。
「此方は、手術に使う医療器具ですね。私も見た事のないものが幾つもあります。此れは何ですか?」
「それは、治療の際に患者の体力が弱らぬように、血管に薬液を注入する道具です。実は此れを考え出されたのが華真様です。」
これが兄が作ったという器具か……。
そう思いながら、華鳥はその器具を手に取ると、仔細に構造を観察し始めた。
「成程。この袋を吊って、針を使って血管に薬液を入れるのですね。全てが理にかなっています。」
華鳥は、感心したように頷きながら器具を棚に戻すと、その隣にある器具に眼を移した。
「それでは、此れは何ですか?」
次々と質問を繰り出す華鳥の横で、胡蝶が真剣な表情で話に聞き入っていた。
その様子に気付いた華鳥が声を掛けた。
「御免ね。つい夢中になっちゃって... 貴女も何か質問したい事はないの?」
華鳥の問いに、胡蝶は暫く考え込んだ後に声を発した。
「あの....。先程の道具に使われてた針なんですが.....。これって、別の使い方はあるのでしょうか?」
その質問を聞いた華鳥は、胡蝶の顔を覗き込んだ。
「別の使い方....? 何故、そんな事が気になるの?」
華鳥から問いを受けて、胡蝶はおずおずとした様子で返答した。
「実は.....炎翔様が、このような針を病んだ馬に何度も使っておられるみたいなので…。」
それを聞いた華鳥の眉が上がった、
「炎翔が...?。何のためにそのような獣医の真似事を...? しかも針なんて....」
「分かりません。でもそれを炎翔様が始められたのは....。以前に近所の魚屋の女将さんが店に運び込まれた事がありましたね。あの後からです。」
「あの時か...。産後の肥立ちが悪く、あの女将さんは衰弱してしまって、とうとう助ける事が出来ず亡くなったわね。産まれたばかりの赤児を残して...」
二人のやり取りを側で聞いていた医療長が、意外そうな顔で尋ねた。
「華鳥様の店には、病人が担ぎ込まれる事があるのですか?」
「以前は、そのような事はありませんでした。私が市井の医療所に通い始めてからです。医療所で私を見かけた近所の人達が、時々訪ねて来るようになったのは...」
【成程....。しかし華鳥様でも救えなかったという事は、その病人の天命が尽きたという事でしょう。医者とて万能では御座いませんから...。】
二人の横で、胡蝶が辛そうな表情を見せた。
「あの時、炎翔様もその女将さんが亡くなるのを傍で看取られていました。女将さんのご亭主が、赤子を抱えて大泣きしているのを、とても辛そうに見ておられました.....」
「そうだったわね...。もしや病んだ馬というのは、その魚屋さんのあの馬の事...?」
「そうです。女将さんを荷台に乗せて、店まで引いて来た馬です。その時も脚が変だなと思ってたんですが、その後どんどん悪化したようなんです。炎翔様は、その馬の様子を頻繁に見に行ってました。そしてある時から針を持って行くようになりました。」
「ふうん...。一体何をしてるのかしら?」
「それは、私も判りません。でも一度観に行った時は、針を馬の脚に刺していました....」
その時、医療処の外が俄かに騒がしくなり、大勢の人々が玄関に足を踏み入れる物音が伝わって来た。
その騒ぎに気付いた医療長が、玄関に通じる扉に眼を向けた。
「何事か起こったのか?」
すると一人の医師が、部屋の扉を開けて駆け込んで来た。
「怪我人です。王宮の外壁工事の現場で足場が崩れ、何人もの職人が下敷きになったそうです。今、此処に運ばれて来ています。」
その言葉に医療長は直ぐに玄関へと向かい、華鳥と胡蝶もその後を追った。
玄関口では、血だらけの五人の職人が、戸板に乗せられて担ぎ込まれていた。
「此れはいかん。 直ぐに応急処置だ。このまま治療部屋に運び込め‼︎ 」
医療長の指示の下で医師達が直ぐに動き出し、華鳥も反射的に身構えた。
「私も手伝います。胡蝶、貴女も一緒に来なさい‼︎」
部屋には、医師達が様々な医療道具を携えて入って来た。
運ばれて来た職人達の状態を確認した医療長が、華鳥に問いかけた。
「こちらの二人は重症です。脈が弱っている。華鳥様。このような場合、貴女様ならどのように治療されますか?」
華鳥は、その二人の身体に順に掌を当てて、そこから伝わる感触に神経を集中させた。
「おそらく内臓に裂傷があると思います。手術で損傷部位を縫い、出血を止めるしかないでしょう。」
すると医療長は言葉を噤み、やがて華鳥に向き直った。
「ならば、この二人の処置、華鳥様にお願いしたい。此れは華鳥様以外の者では手に負えないでしょう。」
医療長の言葉を受けた華鳥の反応は早かった。
「判りました。それでは直ぐに手術着を持って来て下さい。胡蝶、貴女が手伝いなさい。大丈夫。いつも医療所でやってるのと同じよ。」
胡蝶は、華鳥の言葉に緊張の面持で頷いた。
華鳥は、仰向けになった一人の職人の腹部に軽く手を置くと、直ぐに声を発した。
「消毒を...」
医療処の医師の一人が慌てて振り向く横で、胡蝶が直ぐに消毒液の壺を取り上げた。
そしてその中身を患者の腹部全体にぶちまけると、素早く布で拭った。
「小刀を...」
次の華鳥の指示を受けた胡蝶は、側の盆に置かれた何種類かの小刀の中から、迷わず一本を手にすると、流れるような手付きで華鳥の掌に滑り込ませた。
その後、華鳥と胡蝶の周囲に立った何人かの医師達は、只眼を見開きながら、二人の動きを見守った。
華鳥は、患者の術野から一切眼を離す事なく、次々と胡蝶が手に滑り込ませた器具を操って手術を進めて行った。
あっという間に一人の処置を済ませた華鳥は、側に立ち尽くす医師達に言った。
「後は向こうで、化膿止めの処置を。直ぐにもう一人を此処に…」
怪我人の処置を全て終えた後、医療長が感に耐えない声を華鳥と胡蝶に掛けた。
「しかし...。華鳥様の手技の鮮やかさはいささかも衰えて居りませぬな。それと、お二人の呼吸も見事です。余りの連携の素早さに、他の医師達は何も手を出す事が出来ませんでしたな....。」
華鳥は、首筋をほぐすようにぐるりと首を回しながら、大きく息を吐いた。
「緊急を要する手術の時は、執刀をする者とそれを補佐する者の連携は、とても大事なのです。胡蝶がいてくれて良かった....」
「それにしても....。胡蝶殿の器具出しは正に神業だ。どうして華鳥様の求める道具や補助が直ぐに判るのです?」
医療長からそう尋ねられた胡蝶は、困ったような表情を見せた。
「どうしてと聞かれても....。私は、華鳥様の様子と指示に集中していただけです。」
「この阿吽の呼吸というのは、教えて身につくものではないですね。胡蝶には、人が求めるものを瞬時に理解して、直ぐに行動に移せる非凡な才があります。持って生まれた天性なのでしょうね。」
それを聞いた医療長が、改めて胡蝶の顔に眼をやった。
その顔からは、先程まであった侮りの色は綺麗に消え失せていた。
そんな医療長に向けて、華鳥が更に言葉を継いだ。
「そうそう、もう一つ。このような手術。胡蝶は何度も経験してますよ。言ったでしょう。市井の医療所では、手術は良くある事だと…。」




