心を伝えるもの
ある日の夕刻。
王宮の警護処に(けいびどころ)に衝撃が走った。
「何だと! 王宮の宝物殿に忍び込んだ者がいるだと!よもや、何か盗まれたものがあるのか?」
そう聞いた警備隊長に向かって、部下の警護兵がおずおずと報告を行った。
「それが…。異国から帝に献上された宝物の半分近くが、持ち出されております。直ぐに探索を行なっているのですが…。賊は、未だに王宮内に潜んでいる可能性があります。」
「馬鹿者。王宮の宝物殿が荒らされ、その宝物が奪われるなど…。何という失態だ。直ぐに警備処の全員を招集しろ。先ずは、王宮周囲の塀に見張りを出して、逃走経路を塞げ。その後、王宮内を虱潰しに探索するのだ。何がなんでも賊を探し出して、盗まれた宝物を取り戻すのだ!」
隊長の怒号を聞いた部下の警護兵が、言い難くそうな顔付きで質問を発した。
「わかりました。それで…。王宮上部への報告は、どう致しましょう? 此れは報告が必要な事案ではないでしょうか?」
部下の進言を聞いた隊長は、息を呑んだ。
そして暫く考えた後に、苦しげに言葉を発した。
「お前の言う通りだ。上への報告は直ぐに行え。しかし我らの名誉にかけて、何が何でも我ら自身の手で賊を捕らえるのだ。軍の出動にまでなれば、我らの面目は丸潰れとなる。」
その命令を受けて後ろに下がった警備兵に代わって、別の兵が進言を行った。
「ならば賊を捕らえるまでの間、王宮全体を外出禁止にすべきではないでしょうか。何処に賊が潜んでいるかは、いまだに分かっておりません。外出禁止の理由など、何とでも付けられると思います。」
その進言を聞いた隊長は、少し考えた後に決断を下した。
「直ぐに外出禁止の発令は出さぬ。夜半や朝方に外に出る者など、王宮には殆ど居るまい。外出禁止など発令すれば、どんな理由であっても徒に不安を煽ることになる。何よりも我らが為すべき事は、一刻も早く賊を捕らえる事だ。ただし、明日の昼前までに賊を捕らえる事が出来なかった場合には、やむを得ない。その時には、外出禁止を発令しろ。」
命令を受けた兵がその場を立ち去ろうとした時、隊長がその兵の背中に声を掛けた。
「待て。明日の朝一番で、文官や職人達の宿舎に兵達を派遣して、王宮内の林や森に出掛けようとする者がいた場合には足止めしろ。外出禁止といった大袈裟なものは避けたいが、万が一の危険は考えねばならぬ。彼等は、身を守る武器を帯びてはおらぬからな。」
次の朝。
この日は、耀春が何恭とともに野外に出掛ける日だった。
その朝、耀春はいつものように画帳を抱えて、何恭と共に王宮の林に向かっていた。
二人の後ろには、これもいつものように露摸が従っていた。
「露摸。今朝は良いお天気ね。水辺はきっと気持ちが良いわよ。今日は、露摸の好きな水浴びが出来るわね。」
そう言って振り返る耀春に向かって、露摸は嬉しそうに尻尾を振った。
綺麗好きの露摸は、何時でも自分の毛並みの手入れを怠らなかった。
特に水浴が大好きで、天気の良い日には、耀春が王宮内を流れる谷川に連れ出してやっていた。
今日は絶好の水浴日和だと、耀春は思った。
何恭と耀春が外出して暫くした時、絵画処の宿舎の扉が叩かれた。
絵師の一人が、寝起きの眼を擦りながら扉を開けると、其処には数人の警備兵の姿があった。
「今朝、誰か外出した者はおりますか? または午前中に森や林に出掛ける予定のある者は?」
「今日は、師匠の何恭様と耀春が、絵を描く為に出掛ける日だった筈です。この時刻ならば、もう出掛けておりますね。」
それを聞いた警備兵達の顔色が変わった。
「何処に出掛けたのです?」
「何時もならば、王宮の中の林ですね。今日は天気も良いですから、恐らく谷川の辺りだと思いますが…。何かあったのですか?」
一人の警備兵が、上官らしき兵に向かって尋ねた。
「早く後を追わねば、危険ではないですか?」
その兵の言葉を耳にした絵師が、手を振ってみせた。
「何があったかは知りませんが、師匠と耀春なら大丈夫だと思いますよ。あの二人の側には露摸が付いて行ってますから。」
それを聞いた上官が、何事か思い当たったように直ぐに指示を出した。
「急いで二人の元に急行するぞ。」
林の方角に向かって速足となった上官の後を、部下達が慌てて追った。
「班長。あの絵師が言っていた露摸って、あの白い狼ですよね。王宮の守護神と呼ばれている…。その狼が一緒なら、危険は無いのではありませんか?」
「逆だ。失念していた。狼という獣は、恐ろしく鼻が効く。しかも露摸ならば、賊達の居場所など直ぐに嗅ぎ当てる筈だ。昨夜のうちにそれに気づいて、露摸に応援を求めるべきだった。今から直ぐに、露摸の主に、それを頼みに行く。お前は捜索隊に連絡して、我等に合流して貰うように連絡を入れろ。急げ。」
何恭と耀春は、林に踏み入ると、川辺に向かって歩みを進めていた。
ふと耀春が振り返ると、露摸の姿が見えなくなっていた。
また、野兎でも、見つけたのかしらね。
絵画処のみんなは、何時も露摸が狩ってくる獲物を楽しみにしてるから…。
そう思いながら、耀春は先を進む何恭の後を追った。
二人が何時も立ち寄る川辺に達した時、突然目の前の薮が揺れた。
そして、薮の中から十人近い男達が姿を現した。
男達の姿を見た何恭が、直ぐに耀春を背後に押しやった。
「何者だ。此処は王宮の敷地だぞ。お前達のような者共が、足を踏み入れて良い場所ではない。」
何恭と耀春の姿を認めた男達は、せせら笑いながら二人の前に立った。
「爺いと小娘が何を言う。どうやら王宮の者のようだな。人質には丁度良い二人だな。」
そう言いながら二人に近づこうとした男達の足が突然止まった。
そして、男達全員の顔に怯えの表情が生じた。
男達の目の前に、威嚇の姿勢をとった白い狼が、ゆっくりとした足取りで姿を見せた。
露摸の姿を見た賊達の全員が、思わず後ずさった。
「な、何なんだ、こいつは!王宮の中に、何で狼がいるんだ?」
すると一人の男が、気を取り直したように叫んだ。
「びびってるんじゃねぇ!ようやくお宝を手に入れたんだぞ。あの先の塀を乗り越えれば、それで目的達成なんだ。何が何でも此処から逃れるんだ。例え狼だろうが、所詮は獣だ。全員で一斉にかかれば仕留められる!」
その男の声に励まされるように、賊達は武器を構えた。
それを見た露摸が、威嚇の構えを解くと、前脚を踏ん張って攻撃の態勢に移った。
その様子を見た耀春が叫んだ。
「露摸、駄目よ。誰も傷つけては駄目!」
耀春の声を耳にした露摸は、直ぐに攻撃の構えを解いた。
そして、賊達を見据えたまま、ゆっくりと前に進み出た。
男達が武器を手にして、一斉に露摸に襲い掛かろうとした刹那、露摸の眼が金色に光った。
露摸の眼から発した金色の光に捉えられた男達は、一瞬にして動きを止めた。
「か、身体が動かねぇ。どうなってるんだ、これは…。」
男達が懸命に身悶えする中、そこに警備処の兵達が駆けつけて来た。
警備兵達に縄を打たれた男達は、その場から引き立てられる前に、恐怖に満ちた眼で露摸を見詰めた。
「あれは化け物だ。お前達に捕まって良かった。そうでなければ、俺たちは切り裂かれて血肉の固まりになっていただろう。」
耀春と何恭が襲われたとの報告を受けて、絵画処には華真が駆けつけていた。
絵画処の玄関前で、華真は耀春から露摸の超常的な行動を聞いた。
華真は、腕を組んで考えを巡らせた後に、長い息を吐いた。
「恐らくですが…。これは瞳術ですね。」
華真の言葉を聞いた警備処の隊長が、恐る恐る質問を発した。
「瞳術とは…?それはどのようなものなのですか?」
「仙人が使うとされている術です。催眠術のようなものと言われています。瞳術に囚われた者は、己の自由を全て奪われて、術者の思うがままに動かざるを得なくなるのだとか…。まさか露摸が瞳術の使い手だとは、思ってもいませんでした。」
露摸が盗賊を捕らえた話は、忽ちの内に王宮全体に拡がった。
そして、それを知った王宮の一部の文官達が、また動き出した。
「やはり、あの狼は神の使いだ。仙人だけにしか持てぬ術を易易と使えるいうのが、その証だ。ならばあの狼は、国の守り神として奉るべきだ。娘一人だけの護人にしておくなど、許されるものではない。」
それを聞いた志耀は、珍しく怒りを露わにした。
そして直ぐに、それを主張する者達を自分の前に呼び出した。
「貴方達は、何を考えているのです。露摸の主は、あくまで耀春です。自分達の勝手な思い込みで、真の主から露摸を引き離そうとするなど…。そのような考え、断じて許せません。もし、貴方達の言う通りにしたなら、露摸は直ぐに我等の前から姿を消しますよ。私の考えに異論があるなら、この場でもう一度、堂々と主張して下さい。」
今までに見た事がないほどの志耀の怒りを前にして、呼び出された官僚達は震え上がった。
そして、その後同じような事を口にする者はいなくなった。
晩春が過ぎ、日差しが肌に暑く感じられる季節になっていた。
小媛が、たらいの水に素足を浸しながら、耀春に話しかけた。
「ねぇ耀春。明日は久し振りのお休みだし、閉じ篭ってないで、季煌と一緒に郊外まで散策に行こうよ。」
小媛に声を掛けられた耀春は、机の前で筆を止めて小媛を振り返った。
「季煌様とお二人だけで行けば良いんじゃないですか?私なんかが一緒じゃ、お邪魔でしょうし…。」
「こら...。まだ小さいくせにませた事を言うんじゃないの...」
小媛は軽く耀春を睨むと、笑いながら顔の前で両手を合わせた。
「季煌は、最近釣りに嵌まっているのよね。待ってる間、私一人じゃ退屈なのよ。だからお願い。それに耀春も、ずっと何恭様にしごかれっぱなしなんでしょ。息抜きが必要よ。」
「しごかれてるなんて...。何恭様は、何かを伝えようとして下さってるんです。でも、私が中々それにお応え出来なくて....」
「もう一年半以上なるよね...。何時も絵を破られてばっかりなのに。耀春も良く続くと思って、感心してるのよ。」
耀春は、とんでもないといった表情をすると、今度は俯いた。
「いえ...。いつも何恭様は、早朝から私に付き合って出掛けて下さってるのです。昼前迄、私が何恭様を独占しちゃって、皆さんには申し訳なくて...。」
「何言ってるのよ。耀春は仕事が終わった後は、私達皆に色んな画法を教えてくれてるじゃない。今じゃ皆がこの部屋には入りきれなくて、仕事場での大授業になってるもんね。」
耀春は、慌てた様子で首を振った。
「そんな...私みたいな者が、授業だなんて...。」
そんな耀春を見て、小媛は微笑んだ。
「謙遜しなくても良いの。耀春の教えてくれる画法は、何時もとても分かり易いもの。だから皆が群がって来るのよ。夜の集まりに仕事場を解放してくれたのが、誰か知ってる?あの何恭様なのよ。画法を習うなら、耀春が一番だって、ご自身で仰ってたわ。」
「何恭様が、そんな事を...」
「そう...。だけど、耀春は頑張り過ぎね。だからたまには必要なのよ。気晴らしが....。」
翌日、耀春は季煌と小媛に伴われて、王宮の門を出た。
季煌は右肩に何本かの釣竿を背負い、左手には魚籠を手にしていた。
小媛は、両手一杯に風呂敷包みを抱えていた。
何時もと同じく、三人の後ろには露摸が従っている。
件の盗賊事件以来、王宮の多くの者が、露摸を眼にするとその歩む前を開けて横で待つようになっていた。
「季煌。釣りに行くのに、何でこんな大荷物が必要なのよ?」
不満顔で話しかける小媛を見て、季煌が答えた。
「釣った魚は、その場で喰うのが一番美味いんだ。その荷物は調理道具だ。」
「調理道具って言っても...何でこんなに沢山...?」
不平たらたらの小媛に向かって、季煌は親指をぐいと突き上げた。
「鍋に金串、そして包丁だ。調味料は、耀春が食賄処に行って調達してくれた。耀春の家は、知っての通り評判の料理屋なんで、魚によく合う奴を選んで貰ったんだよ。」
風呂敷包みを抱え直しながら、小媛がぼそりと呟いた。
「でも、こんなに準備したのに、魚が釣れなかったらどうするのよ?」
その呟きを聞いた季煌が、小媛を振り返った。
「お前、俺の腕を疑ってるな。心配するな。今日の昼には、美味い魚を腹一杯になるまで喰わせてやるぞ。」
そう言って胸を張る季煌の顔を、小媛は疑わしげに見返した。
川岸の岩場に到着して荷物を下ろした三人は、早速釣りの準備に取り掛かった。
露摸は、三人から少し離れた水辺で、早早と水浴を始めていた。
「川の中のあの岩の周囲を見てみろよ。何匹も魚が跳ねてるだろ。彼奴が今日の獲物だ。この夏魚は、香りが良くて美味いんだ。」
季煌はそう言いながら腕を撫した。
「餌は何を使うの?」
「餌は要らない。魚のいそうな所に錘を付けた針を投げ込んで、魚に引っ掛けるんだ。簡単だろ。」
そう言いながら季煌は 釣り糸に幾つもの針を纏った竿を持つと、川に踏み込んでそれを振るった。
暫くすると、竿を握る季煌の指がぴくりと動いた。
「ようし、来たぞ。」
季煌が引き上げた竿の針の一つに、青黒い背と銀色の腹を煌めかせた魚が掛かっていた。
季煌は手早く糸を手繰り寄せて、魚を針から外すと魚籠に収めた。
それを観た小媛が、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「これで収穫なしという事にはならなくて済んだわね。でも何で餌が要らないのかしら?」
「この夏魚は、岩の藻を食べてるんです。」
後ろから耀春にそう言われて、小媛は吃驚したように振り返った。
「何でそんな事を知ってるの?」
「父様が、この魚を釣っているのを何度も観てましたから...」
その言葉に小媛は納得顔になった。
「そうか。耀春のお父上は料理人だったわね。自分で漁をしてたんだ。」
順調な滑り出しで始まった季煌の釣りだったが、五匹程を釣り上げた後、ぱったりと手応えが無くなった。
焦り始めた季煌の様子を観た耀春が声を掛けた。
「季煌様。今度は私にやらせて下さい。」
首を振りながら岸に上がって来た季煌は、傍に寄って来た耀春に釣竿を手渡した。
「川底は滑るから、気をつけるんだよ。」
季煌の注意に頷いた耀春は、岸辺から少し川に踏み込んだ場所で両手で竿を持ち、それを大きく振り上げた。
「ほう...耀春の竿捌きは、中々に様になってるな...。」
そう言って様子を見守る季煌の前で、何度目かに振られた耀春の竿が大きく撓った。
その瞬間、耀春は竿からの強い抵抗を受けて、前のめりに転びそうになった。
慌てた季煌が、耀春が持つ竿を横から握り、力一杯竿を立ちあげた。
すると、水面から三匹の魚が銀鱗を煌めかせて、宙に舞った。
「こいつは凄い...‼︎」
糸を手繰って魚を取り込んだ季煌が、竿を耀春に戻すと、耀春はまた直ぐに竿を振った。
するとまたもや三匹が一度に針に掛かった。
それを見た季煌が呆れたように言った。
「何だ、これは....。耀春、お前は釣りの才能もあるんだな。こんなのは初めて観たぞ。」
「父様に言われたことがあります。釣ろう釣ろうと気持が先走ると、その気持が魚に伝わって逃げられるんだって...。それと、この魚を釣る時は、水の中の魚の気配を見極めるのが大事だって言われました。だから魚の気配に眼を凝らしてみたんです。」
耀春の言葉に、季煌は眼を瞬いだ。
「気配を見極める...? どうやったら、そんなことが出来るんだい?」
「この魚は群で泳ぐんですって...。だから無闇に竿を振るんじゃなくて、群の存在を見極めて、其処に針を落とすと良いって言われました。」
「成程。そう言う事か...よしそれなら俺も…。」
勢い込んだ季煌は、もう一本の竿を手にして立ち上がった。
それを見た耀春が直ぐに声を掛けた。
「それと、もっと簡単に釣る方法もあるって教わりました...。それなら小媛様でも釣れると思います。私もその方法で沢山釣った事があります。」
「なに...?。耀春、その方法って奴を教えてくれないか...」
それから暫くの間、小媛も竿を持ち、三人は夢中になって魚釣りに没頭した。
魚籠はあっという間に一杯になった。
季煌は岸辺の岩場に石を組んで生簀を作ったが、間もなくそれも満杯となった。
「しかし....こんな方法があったのか....。針と一緒に、釣った魚を生きたまま結んで一緒に投げ入れるなんて....。耀春。父上は、この方法だと何故このように沢山の魚が釣れるのか、その理由も教えてくれたのかい?」
季煌に尋ねられた耀春は、魚を針から外す手を止めて振り返った。
「この魚は、とても縄張り意識が強いんですって。だから仲間以外の魚が、自分達の群の傍に来ると、それを追い出そうとして皆で襲って来るんだそうです。だからおとりの魚を針と一緒に投げ込めば、魚達の群がおとりの魚に集まるって教わりました。」
「成程。流石にその道の達人だな...」
感心する季煌の横で、小媛が言った。
「でも、こんなに沢山....。私達だけじゃ食べ切れないわよ....。」
すると耀春が、直ぐに小媛が持参して来た風呂敷包みを解き始めた。
「調理道具を持って来て良かったですね。今から料理して、食べ切れない分は、絵画処の皆さんへのお土産にしましょうよ。絵画処に戻ってから料理した方が良い献立もあります。」
そう言った耀春は、直ぐに生簀から魚を取り上げて、串に刺し始めた。
「魚の胴体が波打つように串を打つと、火が均等に回りますよ。」
小媛が横で、耀春の手元を見ながらそれに倣った。
軈て、焚火の脇に立てた魚の串が、香ばしい匂いを発し始めた。
その匂いを嗅ぎつけた露摸が、三人の傍に寄って来ると、どかりと腰を下ろした。
その姿を見て、季煌が笑った。
「お前は、生で喰うのだと思ったが…。塩を塗して焼いた魚の方が良いのか?いっぱしの食通だな。しかし塩はお前の身体には良くないのではないか?」
そう言う季煌に向かって、露摸はふんと鼻を鳴らした。
その夜、絵画処の大部屋では、集まった絵師達が魚料理に舌鼓を打っていた。
「こんな美味い魚は、初めて食ったぞ。しかも焼物、煮物、和物まで揃ってる。いやはや大したもんだ。」
目の前に並べられた料理の皿に歓喜する絵師達に向かって、小媛が胸を張った。
「それを料理したのは私よ。みんな、美味しいものを食べられて感謝しなさいよ。」
それを聞いた季煌が、呆れた表情で小媛を見た。
「何を言ってる。この料理の殆どは耀春がやったものではないか。お前は、単に火で炙ったり、鍋に入れたりしただけではないか....。包丁すら握ってはいないのに…。」
その時、部屋の扉が開かれ、何恭が姿を現した。
「この騒ぎは何事だ‼︎ お前達の大声が、王宮中に響き渡っておるぞ。警護の者達が来たらどうするのだ‼︎」
すると耀春が、何恭にそっと小さな壺を差し出した。
「何恭様。今日は、季煌様と小媛様が魚釣りに連れて行って下さいました。此れは、何恭様へのお土産です。きっと美味しいと思います。」
何恭は、眉を潜めたまま壺に指を差し入れ一口舐めると、そのまま部屋を出て行った。
「何だ?どうしたのだ...?」
皆が呆気にとられた表情で座り込んでいると、軈て何恭が部屋へと戻って来た。
その胸には大きな酒甕が抱かれていた。
「耀春。此れは何だ?」
何恭が先ほど耀春に渡された壺を指差した。
その声に耀春が、恐る恐る口を開いた。
「今日獲った魚の内臓を包丁で刻み、酒と山椒に漬けたものですが...。お口に会いませんでしたか?」
すると何恭は、耀春が今まで見た事もない笑顔を作った。
「このような酒肴は初めてだ。得も言えぬ魚の香りと山椒の風味が一体となり、この上もなく酒が欲しくなる。絶品とはこの事だな。」
何恭の声に、部屋に集まった絵師達が歓声を挙げた。
「師匠。この塩焼もどうぞ。このつけ汁に浸して食うと絶品ですぞ。」
一人の声に誘われて、串の魚を頬張った何恭の顔が更に綻んだ。
「何だ、此れは....。魚の香りが更に引き立つ....この緑色のつけ汁は何だ?」
「それは、蓼の葉を擂り木で引いて酢を合わせたものです。」
次に何恭は、包丁で刻まれたなますの山に眼を遣った。
「それは生の魚に細かく包丁を入れて、香辛料を塗したんですが....お味はどうですか?」
耀春にそう言われた何恭は、すぐにそれに箸を付けると大きく頷いた。
次に何恭は、大きな皿に盛られた魚の煮付けに箸を延ばした。
「それは....魚を魚醤と酒に浸し、蜂蜜を加えて煮込んだ甘露煮です....。」
何恭の動きを眼で追った耀春が、すぐに説明を加えた。
全ての料理に箸を付けた何恭は、酒を一口含むと耀春に向き合った。
「これらは全て、お前のお父上の発想から生まれた料理なのか?」
何恭の問いに、耀春はちょっと首を傾げた。
「全て父様の発想なのかどうかは、私には分かりません。でも...この味は、どれもが私にとっては、忘れられない味です。父様の傍を離れた今でも、父様は欠かさず私にお弁当を届けてくれています。そんな父様への感謝を感じながら、これらの料理を作りました。父様の料理は私の食の全てです。」
何恭は姿勢を正すと、それまでとは違う真剣な表情を見せて耀春に向き合った。
「お前は今日、お前は自分の心に刻み付けられた父の料理を、此処で再現した。しかし何故、それが出来たのかを良く考えてみよ。此れは単なる真似事だったのか?」
耀春も居住まいを正すと、何恭へと向き直った。
「此れは、私が見様見真似で作った味かもしれません。でも父様の料理は、誰にも誇れるものと思っております。」
「それならばお前に問う。お前の父の味と、今作ったお前の味。どちらが本物なのじゃ?」
「それは言うまでもありません。私の料理は、父様の真似事です。」
「では、お前の作ったのは偽物か?」
そう言われた耀春は、思わず何恭を睨みつけた。
「父様がいつも料理に込めている心だけは、再現している自信があります。」
強い調子の耀春の言葉に、何恭は大きく頷いた。
「そうであろうな。この場に居る全ての者達が、此処に並べられた料理に感激しておる。それは、この料理が単なる模倣ではないからだ。お前自身が今言った言葉の意味、良く考えてみよ。」
翌朝、耀春は筆筒と画帳を携えて、何恭と外へと出掛けた。
何時ものように、露摸が二人を護るように後ろから続いてくる。
「何恭様。いつもと道が違うようですが、何処に行くのですか?」
その問いに答える事なく、何恭は早足で歩を進め、耀春は小走りでその後を追った。
何恭達は、王宮の裏門に着くと、見張りの兵に通行証を見せて王宮の外に出た。
軈て何恭は、柵に囲われた廟の前で足を止めた。
そして門の横にある小屋の扉を叩くと、中から門番の男が姿を見せた。
何恭が懐から木札を取り出して示すと、門番は門の鍵を外して入口を開いた。
耀春はその様子に眼を遣りながら、何恭に問い掛けた。
「此処は....? 一体どのような場所なのでしょう?」
何恭は、その問いに対して厳粛な表情を作った。
「一般には知らされておらぬが、此処に蜀の建国の祖である劉備帝が眠っておられる。今日は、劉備帝の御霊に拝謁させて頂く為に、此処に参ったのだ。」
何恭の言葉に、耀春は驚いた。
「劉備帝と言えば、今の帝の御尊父様では御座いませぬか。何故、そのような方の眠る場所が、世間から閉ざされているのです? もっと多くの人々が参拝に訪れるのが普通ではないのですか?」
「劉備帝のご意向なのだ。劉備帝はご自身が神格化される事を嫌われた。ひっそりと静かに蜀の行く末を見守りたいと遺言された。だから公にはされておらぬ。」
二人は、木立に囲まれた廟の地域に足を踏み入れた。
廟の敷地に入った途端に、露摸の動きが止まった。
じっと空を見上げて、何かを感じ取っている風情だった。
「劉備帝は、此処で眠っておられる。」
何恭は、埋高く土が盛られた塚に歩み寄り、其処で深く拝礼した。
後ろで、耀春もそれに倣った。
「何故、何恭様は、私を此処に...?」
「この場所は、この国の心が宿る場所だからだ。人の心とは、只移ろい行くものではない。人から人へと受け継がれるものだ。劉備帝の御心は、今の帝に受け継がれておる。それをお前にも感じて貰おうと思ったのだ。」
何恭の言葉を耳に留めながら、耀春は尋ねた。
「それは、私にとって大事な事なのですか?」
そこで何恭は少し表情を緩めて、諭すような口調になった。
「儂はこれまで幾たびもお前と出掛け、お前に絵を描かせ、毎回のように同じ事を言って来た。只描くのではなく、お前の心を描けと。此処でもう一度その意味を考えてみよ。」
「それは確かに、いつもお聞きしている事ですが...」
「心とは何だ? 只頭に浮かぶだけのものか?」
耀春は、その問いに戸惑ったように何恭の顔を見上げた。
「仰る事の意味がよく判りません。何故そのような事をお尋ねになるのですか?」
耀春の問いに対して、何恭はそれまでとは全く異なる質問を返した。
「耀春。昨夜お前は、お父上の料理が自分の食の全てと申したな? それでは、お前が一番好きなお父上の料理とは何だ?」
いきなりの問いに戸惑いながらも、耀春は直ぐに答えを返した。
「煮込みです。父様の煮込みは、いつ食べても気持がほっこりします。」
「ほぅ...。それでは何故、その煮込みが他の料理よりもお前の心を揺さぶるのだ?」
「それは....判りません。でも父様は、いつも煮込みには凄く時間をかけてました。納得出来るまでは、丸一日以上でもお客様の前には出さない事もしょっちゅうでした。」
それを聞いた何恭は、さもありなんという表情になった。
「その煮込み、さぞ客の評判を呼んでいるのであろうな。」
「はい。店では何時も一番の人気献立です。」
「手間をかけた料理というのは、作り手の心が、料理に込められる時間も長いと言うことだ。真の料理は、舌だけで味わうものではない。味覚を通して、料理人の心が食べる者の心に共鳴する食こそが、末永く愛される料理なのだ。」
「心に共鳴する....」
何恭の言葉を聞いた耀春は、父の料理が持つ本当の力を初めて知った気がした。
「勿論、只手間を掛ければ良いというものではない。相当の技倆と強い心が一体となって、初めて人の心を揺さぶれるのだが...」
そう言った何恭は、二人が立つ廟の風景に眼を巡らせた。
「この場所には、劉備帝だけでなく、この国の建国に命を捧げた多くの方々の魂が宿っている。その心をお前は感じ取れるか?」
そう言われた耀春は、改めて目の前の塚に眼を向けた。
「此処に宿る方々の心がどのようなものか、私には判りません。でもこの場に立っていると、物凄く緊張した気持ちになります。何かに圧倒されるような....」
「それは、お前の心が方々の心に共鳴しているからだ。だからこそ此処は神聖な場所なのだ。」
そう語る何恭は、耀春が今感じているものを探るように、耀春を見下ろした。
「先程お前は、何故自分が此処に連れて来られたのか?...と、儂に問うたな。それは、お前にこの場所に宿る心を感じ取る力があるかどうかを見極めるためだ。お前は未だ幼い。此処に宿る心の本質を理解出来るのは、先の事であろう。しかし、この場にある神聖さ、厳粛さを感じ取れる事が、まずは重要なのだ。その感性無くしては、心の本質に迫る事は出来ぬ。」
耀春は、また混乱した様子で首を捻った。
そんな耀春を見て、何恭は表情を緩めた。
「焦らずとも良いぞ。しかし、今日此処で感じた想いを心の中に刻み込め。それは、いずれお前の心の中で新たな芽を出す。そしてお前の生きる道を豊かにするだろう。」
「それは、絵の修行とはどう関係するのです?」
「今のお前の絵は、技倆だけが突出しておる。それは天賦の才だ。しかし観るものを本当に感動させる絵というのは、技倆の巧拙だけで決まるのではないぞ。」
初めて絵の話が出た事で、耀春の表情が引き締まった。
「描いた絵を儂に破られる度に、お前は己の技倆が足りぬと思い、どうしたらもっと緻密に花や草木を描けるのかを考え続けていたのであろう。技倆の良し悪しは、確かに大切だ。しかしお前が修行せねばならぬのは、技倆ではない。何故ならどのような画法も、お前なら一眼見ただけで、それを我が物に出来る才がある。誰にでも出来る事ではない。いや、お前にしか出来ぬ事であろう。」
何恭は、噛んで含めるように耀春に語りかけた。
「だからこそ、お前は技倆に拘ってはならぬ。描こうとするものに宿る心を感じ取る修行が、お前に一番大切なものなのだ。難しい事だ。しかし、その修行を積む事によって、お前だけが描ける絵というものが見えて来る。単なる写生ではなく、人の心に共鳴し、感動を生む絵だ。」
「技倆だけに拘ってはいけない....」
そう呟きながら、耀春は自分の立つ廟を見回し、改めて自分の五感を研ぎ澄ませた。
その横では、露摸が目に見えない何かに語り掛けるように、じっと座ったまま空に眼を凝らしていた。




