桜は散る、夏の影 4
「え」
声は自分のものとは思えないくらい間抜けなものになった。
テレビをつけて、雑音で気を紛らわせたかった。
頭がくらくらした。いま、何を言った?
「真奈、聞き間違いなら、言ってくれ、いま、キミは、人を殺したって、そう言ったのか?」
「……」
妹は返事をせず。動かない。
「真奈……」
僕に名前を言われて、緩慢な動きで真奈は起き上がった。目元をごしごしと擦りすぎたのだろう。赤くなっている。
「二年前、私は人を殺した。直接手を下した訳じゃないけど、間接的に」
「……ほんとうに?」
妹は首肯した。迷いはない。
「誰を……」
「黒江、桜」
吐き出すように呟かれた名前に、僕は全部を思い出した。
黒江美織の妹、黒江桜。
あの夕立の日、橋の下で会った少女。そして、
「私は桜をイジめてた」
昨日、家の前にいた、少女。
「桜……さんは……真奈にイジめられてたの?」
「最初は、私たち、仲良かったんだ」
「なんで、そんな、ことに」
言いづらい過去を言う妹よりも、僕の心は揺れていた。
「だけど、あの子、私以外に友達いなくて……私には他にも友達いたから、いつの間にか疎遠になったの」
「それで。いじめたの?」
「ううん。違うの。アイツ、私にベッタリだから。別にそれはそれでよかったし、だけど別の友達に聞かれたの、うざくない? って、だから、うざいって答えたの。そしたらいつの間にかハブく感じになって」
「それで?」
「それでも、アイツ、私に声をかけてくるから、全然、わかってなくて。私は私に構うなって言ってんのに全然わかってなくて、それで……みんなで、殴った」
「殴ったのか……」
「たぶん、みんな中学生になったばかりで、不安だったんだと思う。そのストレスが、一番の弱者に向いたの。段々とエスカレートして、一学期が終わった……」
真奈は泣いていた。涙の粒が床に落ちる。
「夏休みに入ってから、私、あの子と、……桜と、何回か遊んだの。学校のことなんてないみたいに。お祭りにいって……学校の人がいなければ、私、桜のこと好きだったし、桜も楽しそうに笑ってた。二人だけなら、私たちは仲良くやれてた、だけど」
妹は言葉をつまらせた。僕はなにも考えられなかった。
「夏休みが終わって二学期が始まった時、家庭の事情で桜は転校するって、でも。みんなわかってた。そんなの嘘だって。いじめが辛いから転校するんだって、みんなニタニタしてた。私はそれが怖かったけど、怖かったけど、みんなと一緒になって、笑ってるフリをしたの。それに、少し嬉しかった。これで桜のことで、悩むこともなくなるって……お祭りを一緒に行った、そういう楽しい思い出で、終われるって。でも、……クラスのやつが手紙を書こうって言って、書いた……」
妹の口を塞ぎたがった。自分の耳を塞ぎたがった。
だけど、僕は麻痺したみたいに動けなかった。
「みんなと、一緒になって、……『死ね』って……そしたら、桜は……」
寒い。
寒い。
怖い。
過去。
「転校先で、死んじゃった」
妹の言葉が、僕の鼓膜の奥で何回もハウンドする。
黒江桜。
それに黒江美織。
妹は、彼女たちに、どうすれば、いいのだろう。
あの橋で、時間の環に囚われた少女と会ったあと、僕は色んな新聞記事を探して、そして見つけた。
隣町で屋上から飛び降りた少女がいたこと。原因は不明とされていたが、僕は知っていた。だって本人の口から知らされていたから。
黒江桜が死んだのは9月の初週。この時期は十八歳以下の自殺率が最も高く、二倍の数字に昇るらしい。だから、僕は黒江桜が学校に行きたくなくて自殺したもんだと思ったのだが、事実は違ったらしい。
彼女は転校をしていた。
環境は変わったのだ。苛められることのない環境に。
ならなんで彼女は死んだのか。
それは、
「私が……」
真奈が、
「裏切ったから……っ」
死ねと言ったから。
室内に、弾けるような音が響いた。
妹は信じられないものを見るような目で僕を見ている。
僕は生まれて始めて、妹に手をあげた。
自分でも信じられない。妹にビンタするなんて。
「バカ……」
「お兄ちゃん……私……」
自分をごまかすために、目の前の妹を嫌いにならないように、僕は彼女を抱きしめた。
「真奈のバカ……」
「ごめん、なさい、ごめん……」
耳元で妹は泣きじゃくる。届かなくなった謝罪を繰り返しながら。
どうか、神様、虫がいいとおっしゃらないでください。こいつはどす黒いです。最低です。ほんとうに申し訳ありませんでした。それでも僕は、妹を赦してくれとお願いします。
だって、僕は、真奈のお兄ちゃんだから。
「もういいかい」
鞄を片手に持った、部長が立っていた。僕と真奈の話が終わるまで廊下で待っていたらしい。悪いことをした。
「部長。真奈から聞きました。黒江さんに謝らせてください。真奈が行くのは失礼だと思いますので、まずは僕だけで」
「いや、そんなことは誰も望んでいない。命日に祈ってやるだけでいい。二週間前に美織が来て、真奈女史に言ったそうじゃないか。『忘れるな』。つまりそれだけでいいんだ。覚えているだけで」
「それだけでは……うちの妹は許されないことをしました」
「だからって、兄のキミが代わるのかい? 無理だろう。それに、キミの妹さんなら十分に反省した。影が無くなるのは罪悪感にとらわれているからだ。罪悪感があるだけいい。なにも感じないで日々をのうのうと生きるより」
部長は小さく息をつくと、ゆっくりと歩き出した。
「この部屋は薄暗いな」
部長がお祓いのためにカーテンを閉めさせたんだ。
「そういえば知ってるかい? ゲーテの今際の言葉である『もっと、光を』のあとには『鎧戸を開けてくれ』って続くって説があるんだよ」
「ゲーテ……詩人ですか?」
「詩人でもあるし、政治家でもあるし、小説家でもある。彼の書いた作品から、報道やフィクションに触発されて自殺する若者が増えることをウェルテル効果と呼ぶようになったらしいよ」
歩きながら空気の読めない雑学を披露した部長はカーテンの境を両手で掴んで一気に開け放った。室内に夏の日差しが注ぎ込む。
青空が眩しくて、思わず床に目を落とす。
真奈の影が伸びていた。
「悶々としていたのは何もキミの妹だけじゃない」
「どういうことですか」
帰り道。すっかり遅くなったので、部長を家まで送る。夏の夕暮れは穏やかに過ぎ去っていく。
「美織もまた過去に縛られていた」
「黒江さんが、ですか? とてもそんなタイプには見えませんが」
「皮肉なもんだな。誰かに文句を言うだけで、すっきりするもんだ」
「それはそうかもしれませんね」
全部が夕焼けに照らされて赤く染まる。美しい真っ赤な空だった。
「よくテレビとかで娘や息子が死んで部屋をそのままにする両親とかがいるだろう」
「よく見ますね」
「あれ、あんまりよくないんだ。成仏しようとする子供を親が縛り付けているに等しいからな。遺品なんかをお焚き上げして、本人の成仏を祈る方がずっと健全だ。それに、縛られることもなくなる」
「縛る?」
「美織の場合はキミの妹を恨むことで、自分の妹の桜を現世に縛り付けていた。そればかりはどうしようもない。生きている者が前に進まない限り、死者も前には進めないからな」
「……」
時間の環に囚われているはずの女の子を僕は昨日、見た。
「まあ、私には預り知れぬところだが、いまごろ輪廻に帰ったんじゃないかな」
「まだその辺にいるかもしれませんね」
気付けば僕は笑っていた。
真奈を心配していた少女の不安そうな顔を思い出して.
時間は過ぎて、日が沈んでいく。だけど夜の次には朝が来るのだ。
当たり前のことかもしれないが、僕にはそれが嬉しかった。




