桜は散る、夏の影 3
家に帰って、カップラーメンを食べて、僕は妹の話を聞くことにした。
どうも、煮え切らない。
影が無くなるなんて通常ならば考えられないことだ。僕が生きてきた十六年で影がない人に会ったことなんてないし、話にも聞いたことがない。
でも問題は依然として存在し、真奈の影はたしかに存在しない。ありえないことが起きている。
「真奈少しいい?」
夕飯を食べ終わり、妹の部屋の前で声をかける。ドアの穴は真奈の手により段ボールで塞がれているが、防犯設備としては不十分だろう。それがわかっているから、真奈はあっさりドアを開けてくれた。
「……」
無言で見つめ合う。
「入れば?」
沈黙に耐えきれなくなったのか、妹は僕の来訪を許してくれた。
「明日、兄ちゃんの知り合いが真奈のことを助けにくる」
「知り合い?」
「信頼における人だ。さっきの変な人よりはずっと」
「……確実に治らないのなら、誰にも会いたくないんだけど……」
「少なからず解決には向かうと思う。安心してくれ」
「そう。それなら、いい……」
蛍光灯の下の真奈にはやはり影がなかった。
「それで心当たりは本当にないの?」
電話での部長の言葉を思い出した。
因果応報。
前世での行いが、来世に影響を及ぼすという意味だ。
しかし、部長の文脈においては、おそらく現世での悪い行いが、影を無くすという因果に結び付いたととらえることができた。
だから、僕は不安なのだ。
真奈に限って、そんなこと。
「……わかんない」
妹は消え入りそうな声で呟いた。
「なんでかなんて、そんなの、私にはわかんないよ」
「そっか。それならいいや。……おやすみ」
「うん。おやすみ」
吐息にも似た小さな声で返事を返す。
考えたって仕方がない。
夢の世界に逃げることにした。
そうすれば、バカなことを考えないで済むから。
次の日の放課後、部室で待ち合わせ、部長と一緒に帰宅することになった。
自転車を押して歩く。車輪の回転音がリズミカルに響いた。息をする度、夏の熱気が肺になだれ込んでくる。
母親は仕事が遅くなるらしい。すなわち家には真奈しかいなくなる、好都合だ。
「男の人の家に行くのははじめてだ。緊張するな。お手柔かに頼むよ」
「そういう言い方はやめてください」
「なんでだい? 事実だろう」
昨日の電話なんてなかったみたいに軽口を交わし合う。いつもの部長だ。
灼熱の太陽の照り返しに息を切らしながら、僕と部長は汗だくで家についた。
「ほう」
「どうぞ入ってください。いま、お茶をいれます」
玄関のドアを閉めると、喧しく鳴いていたセミの声が一気に遠くなった。
うすぐらい玄関で靴を脱いで、キッチンに急ごうとする僕を部長は呼び止めた、
「いや、いいよ。その前に頼みがある」
「なんですか? なんでも言ってください」
「お風呂かしてくれ」
「……そういう発言はやめてください」
「違う違う。必要なことなんだ。汚れた体でお祓いなんて出来ないだろ。出来れば、キミの妹にも身体を清めておいてほしいんだが」
「そういうことなら早く言ってくださいよ。お風呂沸かしますよ」
「いや、お湯じゃだめだ。水じゃないと。水浴びのことをみそそぎと言い、それが禊へと変わったように、身体を清めるのはもちろん、冷たい水で気を引き締める意味合いもあるんだ」
「わかりました。冷蔵庫の氷を湯船に浮かべます」
「そこまではしなくていい」
妹と部長の水浴びが終わった。夏だというのに妹は寒そうに肩を震わせていた。冬じゃなくて本当によかったと思う。
僕と部長と妹の三人は、リビングにいる。キッチンの椅子をリビングの中央に置き、そこに真奈は腰かけている。室内はカーテンが閉められ、真夏の太陽光はシャットアウトされている。蛍光灯はつけられておらず、室内は薄暗かった。
浄霊には雰囲気が必要らしく、わざと暗くしているのだが、これでは影が戻ったかどうかわからない。
部長は久しぶりに巫女服だ。さすが本職、板についている。
手にはオオヌサを持ち、木製の椅子に腰かけた妹を睨み付けいる。
無言の威圧に妹は助けを求めるように僕を見た。
二、三分もこんな状態なのだ。真奈の心中は察するに余りある。さすがに可愛そうになって、たまらず僕は声をかけた。
「部長、そろそろ……」
「そうだな」
短く言葉を区切ると部長は目をつむった。
「では、まず、原因を教えてもらおうか
」
「さっき、僕から説明したじゃないですか。心当たりは一切ないって」
「私はキミに聞いたんじゃない。菅野真奈女史に聞いたんだ」
部長の言葉にはトゲがある。僕はなにも言えなくて言葉を飲み込んだ。
「……わかりません」
真奈も威圧感に飲まれているようである。
「嘘をつくな」
ぴしゃり、と冷や水を浴びせるように、目を開いて部長は言った。
「私の目を見ろ」
真奈は眉間にシワを寄せた。
「なんなの、あんた。偉そうに」
「偉いからな。少なからずキミより」
「お兄ちゃん、帰ってもらって」
立ち上がろうとした妹の額に、部長は人差し指をつけた。
「えっ、あれ」
おでこにつけられた一本の指の力に逆らうことができずにいる。妹の顔が青ざめた。椅子から立ち上がれずに戸惑っている。
「これが神通力だ」
偉そうに部長は言ってのけたが、僕は知っていた。インチキだ。
テコの原理の応用で、一本の指に体重運動が阻害され、立ち上がれなくなるのだ。
すごくもなんでもないが、妹は知らなかったらしい、それだけですっかり反抗心が排除された。
大人しく椅子に座る。
「わかってるんだろ?」
「……なにが……」
「気づいているはずだ、影が出来ないわけを」
「わからないって何度言えばわかるの、あんた」
「影が無くなるのは真上に太陽があるからか、自分が、より濃い陰のなかにいるからだ」
「そんなの普通のことじゃない。私には関係ない」
「何事においても法則は重要だ。悪魔に影を売った男の物語があるが、現在日本にはそうそう悪魔はいない。悪魔がいないのなら、影はなぜなくなったか。それはね」
部長は一度言葉を区切って、真奈の頬に手をやった。
「君が隠しているからだ」
隠す。
僕は自分の足元に目をやった。
影って隠せるの?
無理じゃね?
「はっ」
妹が声をあげた。昔よく見た、他人を嘲る声だった。
「本格的に頭が可笑しい人だね。お兄ちゃん、この人ただのバカだよ。ふぐっ」
「……」
部長は短気だ。真奈のほっぺをつねっていた。氷の微笑を浮かべている。真奈は気圧されたらしく、部長の手が離れても、文句を言うことはなかった。
「順を追って考えてみようか。別に嘘をいっても構わない、私はキミが一生日陰者でも困らないからね。さて、影が無くなったのはいつだ。」
「期末試験の時……帰り道で、気分が悪くなって、気づいたら、無くなってた」
「気分が悪くなったのは帰り道で?」
「前日の夜から、……頭が痛くて。ピークはテスト中。だったと思う」
「なんで頭が痛かったの?」
「わからないよ、そんなの」
「なら、言葉を変えよう。その時なにを考えていた?」
「なにって……」
「頭が痛くなる理由は二つ。病気か、思い煩いか。キミの場合はおそらく後者だろう。さぁ、何を患っていたのか」
「……そんなの覚えてないよ」
「ほんとうに?」
「本当よ! だったらあんたは二週間前自分が何を考えてたか覚えてるの?」
「覚えてる」
「は?」
「印象深い出来事なら、尚更ね」
はっきりと言い切り、部長は一歩後ろに下がった。
「二週間前、友達が復讐にでかけた。私はやめておけと口酸っぱくしたが、思い込んだら一途なやつで聞く耳をもたなかった。悪いやつじゃないんだが、基本的にバカなんだ」
なにそのハードボイルドな展開。部長の知り合いは変な人が多いな。
「復讐は失敗したが、その友達は元気に暮らしている」
部長は無表情のまま、続けた。
「黒江美織。友達の名前だ」
黒江、さん?
それなら僕も覚えている。部長の友達で、僕の友達でもある。吸血鬼を名乗るテンション高い女の人だ。
二週間前、僕は彼女と知り合った。
真奈はその名前を聞いて、凍りついた。少なくとも僕にはそう見えた。身動きを取らず、目を丸くしている。
「知っているだろう?」
「や……」
「真奈女史、キミの友達のお姉さんだ」
「やめろっ!」
真奈は部長に飛びかかった。座っていた椅子が後ろにふっ飛ぶ。
「落ち着きなよ」
暴力に訴えかけようとした真奈を事も無げに部長は床に組伏せる。
部長は柔道を習っていたことがあるらしい。耳が擦れる前に辞めたと言っていたが、昔とった杵柄というやつだろうか。流れるような動きだった。
「お前! それ以上なにかを言ってみろ! 殺すぞ!」
真奈は、人が変わったようだ。狐つき……とかいうやつか。
「私はなにも言わない。意味がないし、興味がないから」
「なんなの! くそっ!」
口汚く言葉を吐き出す真奈は相変わらず床に伏せられてるままだ。
突然の展開に脳がついていけず、僕は唖然としていたが、部長の発言を思い出した。
黒江さんが真奈の友達の姉。
黒江さんが僕のカノジョを殺そうとした日の放課後、部長はなにか意味深なことを呟いていた気がするが、あまり思い出せない。
「……」
「うっ、うっ」
真奈は嗚咽を漏らして、泣き出した。腕で顔を隠すようにして、悔しそうに泣いている。痛みからではないだろう。ならなんで、泣いているんだ?
部長は冷たい瞳をしている。懐から塩を取り出して、真奈の頭に振りかけた。
「天は自ら助くる者を助く。私にはキミを助けることは出来ない。影よりも濃い罪悪感という陰に包まれている限り、無意味なんだ。影を隠すのは止めなさい。まともに生きようと思うのなら」
引用した言葉はキリスト教だったか。宗教感がまばらで違和感しかない。
「さて、やるべきことをやったし、私は帰るよ」
「えっ」
部長は立ち上がり、僕に笑いかけた。
「力になれなくて申し訳ないね」
「いえ、そんな……」
なんだこの展開。
部長は今日あったことを忘れるように服についたホコリを払い、制服が畳んである脱衣場に向かって歩き出した。
「願わくば、キミが影を取り戻すことを祈っている」
部長は端的に告げて、部屋から出ていった。
薄暗いリビングに僕と妹だけが残される。すすり泣きが響く。気まずいの一言だ。
僕はそっと床にうつ伏せのままの妹の頭に手をやった。
「真奈……」
「うっ、うっ……」
「部長は、……悪い人じゃないんだ……だけど、ごめん」
「違うの……わかってる。うっ、うっ」
「真奈?」
真奈は起き上がらない。具合でも悪いのかと心配になってくる。
「大丈夫?」
僕の心配の声に真奈は「ぐっ」と息をつまらせた。
「真奈……心配しないで。必ず僕がどうにかするから」
「……違うの」
「え?」
妹は小刻みに息を吸い、意を決したように続けた。
「お兄ちゃん、あのね……」
「真奈?」
「あのね、私……」
真奈は言葉をつまらせて、鼻をすすった。
時計の針の音が空しく響いた。
「私、人を殺したの……」




