21:40 赤字
十二月一日の朝、紀行文の再校が校閲部に届いた。
大きな封筒から出したゲラの束は初校より少し薄い。横には作者から戻ってきた初校が添えてある。薫が出した疑問の横に作者の赤い字が入っていた。「けれど」と「けれども」の疑問にはどれも〈ママ〉とある。
坂を上るときと下りるときで足の出し方が違う。村井の言ったとおりの答えだった。
十月の終わりに薫は疑問をいくつか自分で消してから初校を戻した。残した疑問にも作者は揃えなくていいと答えている。揃っていない道をこの作家は揃えずに歩いていく。
薫は初校の赤字を一つずつ再校と突き合わせた。作者の赤い字は太く、角が丸い。「の」の結びが小さな輪になり、送りがなだけを細く書く。直しが正しく組まれていればノートに書く。
10:20 p.31 直し 確認
朝の湯呑みは今日も机の左の角にある。ひと月前より村井がお茶を置いていく手つきはしっかりしてきた。
目次の最後の章は〈岬の先の石〉だった。初校のとき、その章は村井が見ていた。半島や岬の町を歩く本だ。留崎のあやまり石が入っていてもおかしくはない。章の題を見たまま薫はしばらく頁をめくらずにいた。
昼すぎに村井が薫の机の横に立った。手に別の章のゲラを持っている。
「この先生、ママばっかりでしょう」
「はい」
「直すところは直して、残すところは残す。決めるのは作者だものね」
村井は薫のゲラの余白をのぞきこんだ。薫の鉛筆の疑問と作者の赤い字が並んでいる。
「赤字は作者の字。わたしたちは鉛筆で訊くだけ」
入社した年に薫は同じことを村井から教わった。校正紙は汚すな。ゲラに書いていいのは鉛筆の疑問だけで、答えを書くのは向こうだ。
薫はうなずいた。先月の評伝もそうだった。作者は年譜を十九歳に直すと書いてきて、薫は直しが正しく組まれたのを確かめた。疑ったことは一度もない。
村井は自分の机に戻りかけて振り返った。
「最後の章、作者から戻ってきたら照合をお願いするかも。年内に出したいんですって」
その夜、薫は部屋でノートを開いた。前のほうの頁の日時の一覧の下に、鉛筆で書いてみる。
〈イキ?〉
書いてもこの帳面を読むのは薫だけだ。ゲラの余白なら編集者が作者のところへ運んでくれる。この世界の作者のところへは誰も運んでくれない。
ようこのカメラなら運ぶ。
ノートの表紙の内側にはようこから受け取った写真が挟んである。防波堤のしぶきが宙で止まり、いちばん下の段に人影が三つ写っている。隅にオレンジ色の数字で〈'94 10 2〉。この写真は依頼主のところへ届いたはずだ。依頼主はそれを見て子どもを残した。
薫は日時の一覧の右に依頼主の答えを書き足していった。8月18日は、消して。10月2日は、そのままで。子どもは記録では死ぬはずだった人だ。千晴も記録の上で死んでいる。二人は同じ種類の誤りで、答えだけが違う。読めば、残すこともある。
作者が疑問に答えるのは、たいてい疑問の横に根拠が添えてあるときだ。辞書の頁、年表の行、初校の頁。根拠のない疑問はママで返ってくる。
けれど、何を撮らせれば作者は読むのか。〈イキ?〉の二文字だけを撮らせても、作者に意味が通じるとはかぎらない。疑問は作者が読んで答えられる形でなければ疑問にならない。
勤労感謝の日から薫はずっと同じところで考えている。
*
十二月三日の土曜日、薫は早浜へ行った。
千晴の荷物と宿帳に初校の跡が出たのなら、八月十八日の浜の記録にも出ているかもしれない。同じ出来事を書いた記録が二つあれば突き合わせる。校閲者はいつもそうする。
早浜の駅に着いたのは昼すぎだった。改札の横の時刻表の、支線の欄に「15」と「50」が並んでいる。今日は土曜日なので、休日の印のついた「15」の列車も走る。支線のホームには二両だけの列車が止まっていて、行き先の札に〈留崎〉とある。
駅を出ると、道の向こうがすぐ海だ。冬の浜には誰もいない。海の家は二軒とも板で囲われ、監視のやぐらは骨組みだけになっている。夏の足跡はどこにも残っておらず、風の筋だけが砂の上に引かれている。防波堤のわきでは白い波が同じ間をおいて崩れていた。
小屋へ行く前に薫は浜の北の端まで歩いた。十月に花を流した場所だ。小菊と竜胆の花束はうねりの向こうへ遠ざかっていった。今日は手に何も持っていない。防波堤のつけ根で波が寄せては引いている。八月十八日にも波はここでこうして寄せていた。
漁協の小屋は港の端にある。戸を叩くと、監視員だった男が顔を出した。手首には十月と同じ古い腕時計がある。男は薫を見て少し驚いた顔をした。
「寒いでしょう。どうぞ」
小屋の中はストーブで暖まっていた。壁の潮見表は十二月のものに替わり、漁船の名前を書いた黒板には今朝出た船の数が白墨で書いてある。
男はやかんの湯でお茶をいれてくれた。夏のあいだは浜に立ち、冬は網の繕いと港の見回りをしているという。
「あの子は元気ですよ。毎朝この前を走って学校へ行く。手を振ってくれます」
十月二日の子どもだ。男はそう言って少し笑った。
「先月、あの子の母親が菓子折りを持ってきました。あの子は手紙を書いてくれた。字が大きくて、半分は読めない」
男は壁の黒板の横を指さした。画用紙が一枚、押しピンで留めてある。青いクレヨンで海と防波堤が描かれ、防波堤の上に人が二人立っている。二人とも腕が体より長い。片方は大人で、もう片方は少し小さい。防波堤の上で男のベルトをつかんでいた薫を、あの子は見ていたのかもしれない。
薫は用件を言った。八月十八日の日誌を、もう一度見せてもらえないか。
男は理由を訊かなかった。机の引き出しから表紙の擦れた帳面を出し、頁を繰っていく。八月のところで男はめくるのをやめた。しばらく黙って帳面を見ている。やがて薫のほうへ向けた。
〈8月18日 14時32分 北端遊泳区域 女性一名 沖へ流される 流れ止まる 自力で戻る〉
十月に薫が見た行だ。あのときは「沖へ流される」で終わっていた。行の終わりの空いていたところに二つの言葉が続いている。字は同じ四角い大きな字だ。その下には捜索の船が出た時刻が前と同じに並んでいる。
一つの行に、二つの八月十八日が書いてある。
薫は字を一つずつ追った。あとから書き足した字なら、筆の運びか力の入り方のどこかに継ぎ目が出る。継ぎ目はなかった。同じ日に同じ手で書いた字に見える。
「わたしの字です」
男が言った。
「でも、書いた覚えがない。この行はあの日の夕方に書いたきりなんです。十月にお見せしたあとは、一度も開いていません」
「気づいたのは、いつですか」
「今です」
男は腕時計に目を落とした。
「届かなかったんです。わたしは」
声は低かった。
「手を振ってるのに気づいて、時計を見て、走った。腕一本ぶん届かなかった。毎晩、夢で見ます。夢の中でも届かない」
男は帳面の字を指でなぞった。流れ止まる。自力で戻る。
「この字を書いたわたしは、届かなくてもよかったんですね。向こうから戻ってきたんだから」
薫は千晴のアルバムのことを話した。ところでんの余白に、ある夜、千晴の字で一言が増えていたこと。流された。海が一回止まって、戻れた。男は目を閉じて聞いている。
言えることは一つしかなかった。
「どこかに、そうなった日があったんだと思います」
男は何も訊かなかった。帳面を閉じずにしばらく机の上に置いていた。
「これを、少しお借りできますか。すぐにお返しします」
男はうなずいて帳面を差し出した。薫は手帳の紙を一枚破り、自宅の電話番号を書いて机に置いた。
*
小屋を出ると日が傾きかけていた。防波堤の先に紺の制服が見える。
ようこだった。防波堤のいちばん下の段にカメラを向けている。十月二日にしぶきが宙で止まった場所だ。シャッターの音がして、巻き上げのモーターが短く鳴る。
薫は防波堤を歩いていった。ようこが振り向く。
「こんにちは。寒くなりましたね」
薫は日誌を開いて差し出した。日付は口にしなかった。
「この行を、撮ってもらえますか」
「承知しました」
シャッターの音がした。ようこはカメラを下ろして日誌の行をしばらく見ていた。
「この日誌には、照らし合わせる史料がありません。不一致にはなりません」
「史料というのは……」
「元になる控えがある記録です。刷られた本や新聞、役所の届けなどですね。控えのないものは照らし合わせることができません」
「照らし合わせられないものは、依頼主さまのところへは届かないの?」
「届きません。ご依頼主さまへのご報告は、照らし合わせて食い違ったものだけです」
「控えのあるものなら、届くの?」
「はい。食い違えば、不一致としてご報告します」
ようこの答えは短かった。日付さえ名指ししなければ、この子は答える。
「依頼主さまは、どんな人?」
「申し訳ありません。それは、わたしがお答えできる範囲を超えています」
八月十八日のときとは違う断り方だった。答えられないのと、答える範囲の外なのとは、別のことらしい。
「今日は、何を確かめに来たの」
「三人の記録を詳しくした結果を、確認しに参りました」
「三人って」
「十月二日の写真に写っている方々です」
防波堤のいちばん下の段の、三つの人影。腹ばいの男と、その腰をつかむ人と、水の中の子ども。腰をつかんでいたのは薫だ。千晴の持ち物に初校の跡が出たのも、宿帳に出たのも、薫があの写真に写っていたからだった。
「こちらの確認は終わりました。よい週末をお過ごしください」
ようこは一礼して防波堤を戻っていった。揺れのない背中が浜の向こうの道に入っていく。
薫は小屋に日誌を返しに行った。男は帳面を受け取り、八月の頁をもう一度開いた。
「この行、消えたりしませんかね」
「消えても、覚えていてください」
男はうなずいて帳面を引き出しにしまった。
薫は駅へ向かった。
帰りの列車は空いている。窓の外が暗くなるころ、薫はノートの新しい頁を開いた。
九月七日の朝を覚えている。町じゅうの誤字が一斉に直った朝、指示の形で書いた一行だけは直されずに残った。
23:41 ところてん、の「て」に濁点
書いたことが直されても、どこに何を入れればいいかが残っていれば入れ直せる。
薫は初校の跡を一つずつ写していった。
17:52 五冊目 最後のページ ところでんの下に、右へ傾く字で〈ところ「で」ん。このあと四十分ひまで海に入ったら、流された。海が一回止まって、戻れた。ほんと〉と入れる
17:58 留崎の民宿の宿帳 8月18日の行 〈小野寺様 一名〉の横に、若い字で千晴の名前と東京の住所を入れる
18:03 早浜の漁協の監視の日誌 8月18日の行の終わりに、四角い字で〈流れ止まる 自力で戻る〉と入れる
台紙の三枚の写真と下の字も、同じ形で写した。どの行も「入れる」で終わる。ゲラの余白に書く指示と同じ形だ。
この写しも消されるかもしれない。指示の形が守られたのは、誤字直しのときだけかもしれない。それでも写しておく。
写しながら、ようこの言葉を考えた。元になる控えがある記録。
新聞には控えがある。けれど新聞の紙面に薫の手は届かない。役所の届けは、戸籍を読んだ日に見たとおり何人もの手を経て書き写される。そこへ一行を足すことはできない。
刷られた本。
薫の机には、刷られて本になる紙が毎日届く。
*
十二月五日の夕方、作者から戻った再校が校閲部に届いた。
村井が束の一つを薫の机に置いた。
「最後の章、照合お願いできる? 明日の朝には責了で印刷所に戻すから」
表紙には〈岬の先の石〉とある。留崎の章だった。責了なら次のゲラは出ない。作者の最後の赤字は印刷所が直してそのまま刷る。
薫は束を鞄に入れて持ち帰った。
部屋で机に広げ、作者の赤い字を一つずつ追っていく。章のなかほどで作者は支線に乗っていた。
〈早浜の浜は弓なりに長い。北の端に防波堤が突き出していて、夏の終わりには海水浴客もまばらになる〉
あやまり石のくだりでは作者は石屋の家の人に道を訊いている。伊勢はこっちです、字が違っていてすみません。何十年も前の旅でもあの家は同じことを言っていた。
薫は早浜の段落に戻り、終わりの余白を見ていた。
筆箱の底に赤いボールペンが一本ある。ゲラに使ったことは一度もない。
人の書いた紙に字を書き足したことが、一度だけある。八月のはじめ、千晴の予定表の「14:15」に線を引き、横に「14:50」と書いた。休日しか走らない列車だと時刻表で確かめてからだった。直したことは正しかった。その四十分のあいだに千晴は海に入った。
薫は赤いボールペンを出して机に置いた。手には取らない。
台所で湯を沸かし、お茶をいれて机に戻った。時計は夜の九時十分を指している。つまずくのも旅のうち、この先生ならそう言う。十月に村井はそう笑っていた。揃っていない道を歩いていく作家の本に、作家の知らない一行を混ぜる。
お茶が冷めるまで薫はゲラの前に座っていた。
作者の赤い字を一枚ずつ見なおす。字の大きさ。「の」の結びの小さな輪。送りがなだけを細く書く癖。挿入の印の、三角の開き方。
ノートの白い頁に作者の字で〈その年の〉と書いてみた。〈の〉の輪が大きすぎる。もう一度書く。「年」の縦の線が長い。五度目で作者の字に見えるようになった。
段落の終わりに挿入の印を入れ、余白に一行を書き足した。
〈その年の八月十八日、午後二時三十二分に、早浜の海は一度止まったという〉
書き終えてから、校閲者の目で数えた。三十四字。この本の組みなら一行と少しになる。段落の終わりなので送りは次の段落の頭で収まる。頁の終わりまでは響かない。印刷所の手間もほかの直しと変わらない。
ボールペンを置き、湿った手のひらをハンカチで拭いた。
入社してからゲラには鉛筆でしか書いてこなかった。校閲者が書いていいのは疑問だけだ。答えを書くのは作者で、イキを書けるのも作者だけだ。
だから、作者の字を借りた。
この一行は刷られて本になる。本には控えがある。控えと違えば照らし合わされ、依頼主に届く。
疑問の形はしていない。初校に書いてあったことを写しただけだ。校閲者はときどき疑問に初校の頁を添える。前はこうでした、と作者に見せるためだ。
この本を読む人はこの一行を作家の文として読む。作家はこの一行を知らない。見本を開いた日に書いた覚えのない一文を見つけることになる。
薫は赤い字をもう一度読んだ。作者の字に見える。しかし、作者の字ではない。
消すなら今だ。赤いボールペンの字は消しゴムでは消えない。それでも修正の白い液で塗れば、まだ間に合う。薫は筆箱を開け、白い液の小瓶を見た。蓋には手をかけずに筆箱を閉じた。
机の時計は夜の九時四十分を指している。ノートを開いていつものように時刻を書いた。
21:40 赤字
嘘は書けなかった。
*
十二月六日の朝、薫は束を渡す前に早浜の頁を一枚だけコピー機にかけた。消されるかもしれない一行の、控えがほしかった。赤い字もコピーでは黒く写る。
村井は照合のすんだ束を受け取った。
「ありがとう。先生の赤字、きれいだったでしょう」
「はい」
村井は束を担当の編集者に渡した。編集者は束を大きな封筒に入れて印刷所へのバイク便を頼んだ。封筒が階段を下りていくのを、薫は席から見送る。
次の一週間、薫はいつもどおりにゲラを読んだ。一枚終えるたびにノートに時刻を書く。夜は眠りが浅かった。目を覚ますたびに赤い字の形が浮かんでくる。〈の〉の小さな輪。
作家のところへも見本は届く。書いた覚えのない一行を作家が見つければ、電話は編集部に来る。編集部から校閲部へ、照合をしたのは誰かと訊きに来る。薫はその日の来ることを数えながらゲラをめくっていた。
十二月十四日の午後、紀行文の見本が届いた。
編集部の机に帯のかかった本が十冊積まれている。藍色の表紙に白い字で題が刷ってある。担当の編集者が一冊を手に取り、帯の位置を確かめてから薫に渡した。
「小野寺さんにも一冊。おかげさまで年内に出ます。先生のところには、今日の午後に届くはずです」
薫は自分の席に戻って最後の章を開いた。
早浜の段落の終わりに、その一行は刷られていた。前後の行と同じ書体で、同じ字の間隔で並んでいる。読み流せば作者の書いた文と見分けはつかない。
製本された本の字は、もう消しゴムでは消せない。
村井も一冊受け取っていた。通りがかりに薫の手元をのぞき、「いい装丁ね」と言って自分の机に戻っていく。
次の朝、薫は見本を鞄に入れて家を出た。
駅の改札の横で、伝言板の前に紺の制服が立っている。黒板には白墨の字がいくつか並んでいる。〈ヨシへ 駅前で待つ 8:10〉。〈忘れもの 預かってます〉。ようこは黒板を一枚に収めてカメラを下ろした。
薫は鞄から見本を出し、留崎の章を開いた。
「これを、撮ってもらえますか」
「承知しました」
シャッターの音がした。巻き上げのモーターが短く鳴る。カメラの裏ぶたの小窓に細い数字で〈'94 12 15〉と出ている。ようこはカメラを下ろし、開いた頁に目を落とした。
「この一文は、史料と一致しません。ご依頼主さまに報告します」
改札へ急ぐ人たちが二人をよけて通っていく。
「依頼主さまは、これを読みますか」
「ご依頼主さまは、詳細をご確認いただけます」
読みます、とは言わなかった。校閲者の耳は答えの形に引っかかる。それでも届く道はこれしかない。
「ほかにお手伝いできることはありますか」
「今は、ない」
「承知しました」
ようこは一礼して改札を抜けていった。
薫は見本を閉じて鞄にしまった。電車が入ってくる。窓に映った自分の顔はふだんと何も変わらない。
その日の午後、紀行文の担当の編集者が長い電話をしていた。受話器を置くと見本を開き、最後の章のあたりで首をかしげる。薫と目が合うと、編集者は何も言わずに見本を閉じた。
疑問は出した。あとは作者の答えを待つだけだ。ゲラの疑問なら答えが返ってくるまでに一週間はかかる。この作者がどれだけで答えるのか、薫にはわからない。
その夜、薫は見本を枕もとに置いて床についた。眠る前にもう一度開くと、一行はまだそこにあった。三十四字。作者の字をまねて書いた一行が、作家の本の活字になって並んでいる。
灯りを消した。どこかで誰かがこの一行を読んでいるかもしれない。
*
十二月十六日の朝、校閲部はいつもより騒がしかった。
評伝の念校が届いていた。担当の編集者が束を抱えて村井の机の前に立っている。
「年譜の上京の年、二十歳で組まれてるんです。先生、再校で十九歳に直してますよね」
村井が後ろの書類箱から再校の束を出してその頁を開いた。年譜の余白に作者の赤い字はなかった。薫の鉛筆の疑問〈年譜では二十歳 ご確認ください〉だけが、ぽつんと残っている。
薫はノートを開いた。十一月二十二日の夜に「了」と書いてある。作者の答えが正しく組まれたのを確かめて、薫が書いた。〈年譜を十九歳に直します。妹の日記に「十九の春」とあり〉。あの字を、薫は覚えている。
「先生に確認します」
編集者は首をかしげて電話をかけに行った。少しして戻ってきた顔はもっと困っていた。作者は十九歳に直したと言い張っている。妹の日記の写しも送ったはずだという。
隣の席では若い校閲者が新聞の切り抜きを前に首をひねっていた。事実の確かめに使っている切り抜きの日付が、きのう見たのと一日ずれているという。誰も取り合わなかった。年の瀬の校閲部ではそういうことはよくある。
薫は鞄から紀行文の見本を出し、最後の章を開いた。
一行はなかった。
段落は〈夏の終わりには海水浴客もまばらになる〉で終わり、次の行は支線の列車の話に移っている。字の間隔も行の数も、はじめからそうだったように詰まっている。
校閲の言葉なら、トルツメだ。取って、詰める。
紀行文の担当の編集者が見本を手に校閲部へ来た。
「きのう先生から電話があって。最後の章に、書いた覚えのない一文があるっておっしゃるんです。早浜のところに、海が止まったとかなんとか」
編集者は見本を開いて村井に見せた。
「でも、今朝見たらないんですよ。どの見本にも。先生、お疲れなのかな」
村井は見本の頁をしばらく見ていた。何も言わなかった。薫も何も言わなかった。作家は一行を覚えている。記録からは消えている。
編集者が出ていくと、村井は一度だけ薫の机のほうを見た。薫は見本から顔を上げなかった。
昼前に評伝の作者からファクスが届いた。画家の妹がつけていた日記の写しだという。編集者が感熱紙を引き抜いて読み上げかけ、途中で黙った。
〈二十の春、兄は東京へ発つ〉
編集者は紙を村井に渡した。村井は読んで、薫に回した。日記の字は細く、少し震えている。どこにも十九とは書いていない。電話口の作者はしばらく何も言わなかったという。やがて自分の覚え違いだったのかもしれないと、小さな声で言った。妹さんの字を何度も読んだはずなのに、と。
依頼主の直しは人の日記にまで届いている。
編集部へ行くと、机には見本が八冊積まれていた。薫は一冊ずつ開いた。どの本にも一行はない。
自分の席に戻り、六日の朝にとったコピーを出した。段落の終わりの余白は白かった。挿入の印も、作者の字をまねた黒い一行もない。
薫は自分のしたことを順にたどった。
初校の跡はアルバムと宿帳と日誌に出ていた。どれも控えのない記録だ。照らし合わされることがなく、依頼主のところへは届かない。だから作者の字を借りて、控えのある本に同じことを一行刷らせた。活字になった文は史料と食い違う。ようこが撮れば不一致として報告される。依頼主が詳細を開けば、八月十八日に海が一度止まったことを読む。十月二日に依頼主は子どもの写真を見て、そのままで、と答えた。千晴も同じ種類の誤りだ。読めば、残してくれるかもしれない。
一行は届いた。見本から消えたのがその証しだ。依頼主は読んだのだ。そこまではねらったとおりだった。
違ったのはその先だ。依頼主の答えは薫の一行だけでは終わらなかった。同じ朝、評伝の年譜は二十歳で組まれ、妹の日記まで二十の春になっている。食い違っていたものが、一度にまとめて控えのほうへそろえられた。
十月二日のそのままでは、あの子一人に向けた言葉だった。今度のは決まりの形をしている。記録と控えが食い違ったら、控えに合わせる。どちらが本当にあったことかは問わない。妹の日記より年譜。作者の直しより控え。初校より、今の組み。
薫の一行は不一致という形でしか運ばれない。控えと違うから報告され、依頼主の前には片づけるべき誤りの一つとして並ぶ。届く道が、直される道でもあった。
イキは退けられた。
薫はノートの表紙の内側を確かめた。ようこから受け取った写真は、そこにある。しぶきは宙で止まり、防波堤の段に人影が三つ写っている。子どもは残されている。依頼主は子どもを残し、千晴の跡は消した。
村井の湯呑みが机の上にある。薫は両手で包んだ。お茶はとうに冷めていた。
*
その晩は校閲部の忘年会だった。
会社の近くの小料理屋の座敷に部の十人ほどが集まる。部長が一年の礼を短く言い、村井さんが戻ってきてくれてよかったと付け足した。拍手が起きて村井は照れくさそうに頭を下げた。乾杯がすむと話は年末進行と印刷所の電話の多さに移っていく。評伝の年譜の話も出た。誰かは印刷所の組み違いだと言い、誰かは作者の書き忘れだと言った。
今年いちばんの誤植の話にもなった。若い校閲者が、料理の本の〈大さじ〉が〈大きじ〉になっていたのを刷る前に見つけた話をする。大きなきじを一羽、と誰かが言い、座敷が笑った。
千晴なら、撮りに行っただろう。
薫は座敷の端でほとんど箸をつけずにいる。
村井が隣に移ってきた。徳利を傾けて薫の猪口に少しだけ注ぐ。
「紀行文の見本、読んだの」
薫は顔を上げた。
「十四日に、わたしも開いたのよ。最後の章。早浜の段落の終わりに、一行あったでしょう。八月十八日、午後二時三十二分」
村井は猪口を口に運んで、置いた。
「今朝見たら、なかった」
薫は答えなかった。
「あの一文、先生の赤字だった?」
何も言えなかった。村井はしばらく薫の横顔を見ていた。やがて小さく息をついた。
「八月十八日は、妹さんの日でしょう。四十九日を数えたから覚えてる」
薫は目を伏せた。
「赤字はね、作者の字なの。わたしたちのは鉛筆」
責める声ではない。入社した年に聞いたのと同じ声だ。
座敷の向こうで誰かが笑った。村井は自分の猪口に酒を足した。
「答えてくれない作者は、いるのよ」
「疑問を出しても、答えが来ないんですか」
「そう。何度出しても、ママ、ママって返ってくる先生もいる」
村井は少し笑った。咳はもう出ない。
「二十年近く前にね、どうしても答えない先生がいたの。元号の誤りで、どう見ても間違ってる。わたしが三度出しても、ママ。それで部の五人で、同じ頁に同じ疑問を書いたの。字の違う鉛筆が五つ並んだら、六度目にやっと返ってきた。〈ご指摘のとおり〉って、一行だけ」
村井は猪口の縁を指でなぞった。
「一人で出して通らない疑問も、部で出すと通ることがある。同じことを五人が訊けば、作者も読むのよ」
「五人で出しても、答えなかったら」
「十人で出すの」
村井はあっさり言って煮物の小鉢に箸を伸ばした。
村井はそれ以上何も訊かなかった。薫が誰に宛ててあの一行を書いたのかも。
店を出ると、駅までの道は霜が降りたように白く光っている。村井は薫と並んで歩いた。改札の前で村井は手袋をはめながら言った。
「次に出すときは、わたしにも言いなさい。鉛筆なら貸すから」
薫は返事ができなかった。村井は笑っている。
「神様だか何だか知らないけど、答えない相手にも出すのよ。出さない疑問は、ないのと同じだから」
村井は手を振って反対側のホームへ下りていった。
夜の十一時を回って部屋に戻った。郵便受けに留崎の石屋の人からの封筒が入っている。表書きは筆で、薫の名前が一字ずつ丁寧に書いてある。
便箋は一枚だった。十一月三日の礼と、岬の先で妹さんに伝えてもらったことの礼が短く書いてある。終わりに一行あった。
〈毎朝石を拭くとき、妹さんのぶんも頭を下げております。字が違っていてすみませんと言う相手が、一人増えました〉
薫は便箋をたたんで封筒に戻した。
本棚から五冊目のアルバムを抜き、最後のページを開く。
〈冷やし ところでん〉の写真がある。下の余白は白い。八月に薫が貼ったときと同じ白だ。ページの残りの台紙にも何も貼られていない。
裏表紙の内側の封筒からネガを出し、電気スタンドにかざした。ところでんの隣から先は、向こうが透けて見える薄い茶色が終わりまで続いている。
机の引き出しにしまっておいた海の一枚を出した。
真っ黒だった。印画紙のつやだけが灯りを返している。封筒の中の焼き増しも七枚とも黒い。
電話が鳴った。早浜の男だった。
「日誌の、あの行の続きが、なくなりました」
男の声は落ち着いていた。
「消えても、わたしは見ましたから。あなたも見た」
「はい」
「それだけ言いたくて」
男はそう言って電話を切った。
宿帳の行も、たぶん空に戻っている。それでもおかみはあの晩の電話を覚えているはずだ。
薫はノートを開いた。三日の帰りの列車で写した頁がある。
17:52 五冊目 最後のページ ところでんの下に、右へ傾く字で〈ところ「で」ん。このあと四十分ひまで海に入ったら、流された。海が一回止まって、戻れた。ほんと〉と入れる
一字も欠けずに残っていた。宿帳の行も、台紙の三枚の行も、日誌の行の終わりも、「入れる」で終わる形で並んでいる。
初校の跡は記録から一つ残らず消えた。残ったのは、この写しと、覚えている人だけだ。薫と、村井と、早浜の男と、留崎のおかみ。
記憶は間違える。記録は間違えない。
四人の記憶は、同じことを覚えている。
一人で出して通らない疑問も、部で出すと通ることがある。
薫はノートの頁をめくり、覚えている人の名前を書き出していった。四人で足りないなら、もっと要る。八月十八日のあとで何かが食い違ったのを覚えている人は、ほかにもいるはずだ。見本の一行を覚えている作家。日記を書き換えられた評伝の作者。切り抜きの日付が一日ずれた、隣の席の後輩。
五人が訊けば、作者も読む。十人なら、なおさらだ。
*
忘年会の店は駅前の居酒屋の二階で、座敷に長い机が三つ並んでいる。
乾杯の音頭は部長がとった。今年は大きな案件が二つあって、どちらもなんとか年内に終わる。そう言って部長がグラスを上げると拍手が起きた。
グラスを合わせてひと口飲み、スマートフォンを出す。会社のチャットには〈今年もお疲れさまでした〉が並んでいる。計算のアプリの通知も一件ついている。
〈史実との不一致が1件あります。詳細を確認しますか?〉
またか。
前に一度詳細を開いたことがある。あのときはコインランドリーで、ほかにすることがなかった。今は隣の同僚が唐揚げの大皿を回してくる。向かいの二人はレモンをかけるかどうかでもめている。
〈なんかよくわかんないけど、いい感じにしといて〉
打って、スマートフォンを伏せた。レモンはかけないほうに一票入れる。
少しして画面のふちが光った。
〈承知しました。「いい感じ」の基準を、記録と史料の食い違いがない状態と判断しました。食い違っている記録を、史料に合わせて整えます〉
何の記録なのかは読まない。基準を自分で決めてくれるのは助かる。仕事でもこういう後輩がいればいいのに。
この一年、仕事でもずいぶんAIに投げた。会議のまとめ、メールの下書き、表の整理、取引先へのお詫びの文面まで。細かく言わなくても、いい感じにと書けばだいたいいい感じになって返ってくる。読まずに使うことも増えた。読まなくても困ったことはない。
二杯目のビールが来たころ、もう一件届いた。
〈整えました。史料に合わせた記録:1,284件。1994年12月15日23時50分〉
「おお、優秀」
声が出た。隣の同僚が画面をのぞきこむ。
「なに、仕事?」
「趣味。AIに昔の再現させてるやつ。祖父母が若かったころの」
「へえ。それ、本当の昔とずれたりしないの」
「ずれたら直してくれる。今も千件ちょっと、そろえてくれた」
「いい感じにって、それで通じるんだ」
「通じる通じる。今のAIは賢いから。変なほうに行ったら、さっきのなしでって言えば戻してくれるし」
「便利だね」
「便利だよ」
同僚は笑って自分のグラスを空けた。
部長がまわってきてグラスにビールを注いでくれた。来年もよろしく、と言われて、こちらこそと頭を下げる。部長が次の島へ移っていく。
千二百八十四件。何がそんなに食い違っていたのかは知らない。そろったのなら、それでいい。祖母のアルバムの裏書きの日付も半分くらいはあやしかった。あれも誰かがそろえてくれたら、少しはすっきりするかもしれない。
大皿が戻ってきた。誰かが気を利かせて、唐揚げにレモンを全部かけてある。
「訊いてからかけてよ」
向かいの一人が言って、みんなが笑った。
レモンのかかった唐揚げを一つ取る。思ったより悪くない。
二次会には行かずに店を出た。帰りの電車でもう一度アプリを開く。「この日の写真」に本の頁を撮った一枚がある。開いた頁に字がぎっしり並んでいるだけで、何が面白いのかわからない。次の一枚は、どこかの駅の伝言板だ。白墨の字がいくつか並んでいる。
字ばかりだ。指で払って、次へ送った。




