22:15 初校
十一月十五日の火曜日、薫は午前中だけ休みを取った。
区役所の戸籍の窓口は開いてすぐの時間から混んでいた。申請書を書いて出し、長椅子で名前を呼ばれるのを待つ。千晴の名義の口座を閉じるには死亡の載った戸籍の写しが要る。銀行の窓口でそう言われたのは先週だった。
隣の窓口では若い二人が婚姻の届けを出している。職員が書類を一枚ずつめくり、判を押した。二人は顔を見合わせて小さく笑った。二人の名前も今日のうちに誰かの手で書き写される。何十年かあとにその字を一字ずつ読む人がいるかもしれない。向かいの長椅子では年配の男が膝の上で印鑑の箱を開けたり閉めたりしている。
八月の終わりにも役所で書類を一通取り、日付を一字ずつ読んだ。今日は戸籍の写しだ。
名前を呼ばれて窓口へ行くと、職員が写しを封筒から出して見せてくれた。縦書きの紙が二枚ある。どの欄も手で書かれている。
薫は長椅子に戻り、ゲラと同じように一行目から読みはじめた。
字は書いた人ごとに違う。いちばん古い欄の字は太くて角ばっている。何十年か前にこの戸籍を作った職員の字だろう。
千晴の欄は二人の字でできていた。名前と生まれた日を書いたのは細くて几帳面な字だ。千晴が生まれたときに届けを受けた人だろう。その左に今年の字が書き足してある。少し右上がりで、急いだ跡がある。
平成六年八月拾八日。
数字は「拾」のような古い字で書いてある。あとから書き換えられないための字だ。ゲラなら表記を揃えるよう疑問を出すところだが、戸籍ではこれでいい。日付のあとには早浜のある町の名が続いている。
薫は名前の欄に戻って一画ずつ確かめた。こういう書類では届けた名前の字を取り違えられることが少なくない。千晴の「晴」は正しかった。日へんが少し縦に長いのは書いた人の癖だ。癖は誤りではない。
二枚目の最後まで読んだ。日付にも場所にも字にも、誤りはなかった。いちばん下には、この写しが元の戸籍と違わないと区長が認める一文があり、朱の印が押してある。
記録の上で、千晴は八月十八日に死んでいる。
浜で手を振っていた千晴を、薫は見ていない。見たのは監視の男だ。男の話を警察が書きとめ、警察の報告を役所が書き写した。この紙はその写しのそのまた写しになる。どの段でも書き違いは起きていない。
記憶は間違える。記録は間違えない。
薫はノートを開いて書いた。
10:40 戸籍 了
了と書けば、それは済んだものになる。疑う理由はどこにもない。
薫は写しを封筒にしまい、その足で銀行へ回った。窓口の行員は写しの日付を指でたどり、奥の机へ持っていった。しばらく待たされてから、千晴の通帳が返ってきた。
薫は窓口の前で通帳を開いた。八月十七日に二万円が引き出されている。旅の前の日だ。その下の行に今日の日付で残高の〈0〉が印字されている。
銀行から駅へ戻る道で写真屋の前を通った。八月に一時間待った長椅子が今日も店の前に出ている。
昼すぎに校閲部へ戻った。
席に着くと、村井が湯呑みを置いていった。縁の欠けた、いつもの湯呑みだ。いれたばかりのお茶から湯気が立っている。
村井の咳はもうほとんど聞こえない。十一月のはじめに戻ってきたときより頬に少し肉がついた。
「お昼は食べた?」
「食べました」
村井はうなずいて自分のゲラに戻った。それ以上は何も訊かない。
午後のゲラはある画家の評伝だった。作者は画家が十九の春に上京したと書いている。巻末の年譜では二十の春だ。作者は画家の晩年に何度も会って話を聞いたという。聞いた話のほうを覚えていたのだろう。
薫は迷わなかった。余白に鉛筆で小さく書く。
〈年譜では二十歳 ご確認ください〉
ノートにも書いた。
13:50 p.42 上京の年 疑問
「年譜のほうが合ってる?」
村井が自分のゲラから顔を上げずに訊いた。
「年譜は手紙の日付から起こしてあります」
「じゃあ、そっちね」
村井はそれだけ言って鉛筆を動かしつづけた。
薫はゲラを一枚めくった。初めて読む行が続いている。八月から、ずっとそうだ。
*
十一月二十二日の夜、薫は持ち帰ったゲラを机に広げていた。先週の評伝の再校だ。
上京の年の疑問には作者の字で答えが書きこんである。
〈年譜を十九歳に直します。妹の日記に「十九の春」とあり〉
年譜は手紙の日付から起こしたものだ。日記のほうは、妹がその日のうちに書いている。記録と記録が食い違えば、どちらを取るかは作者が決める。薫は作者の直しが正しく組まれているのを確かめて、ノートに「了」と書いた。
窓の外で風が鳴っている。夕方に急に冷えこんだので、押し入れから出したばかりの電気ストーブをつけた。ほこりの焦げるにおいがする。九時を少し回ったころ、部屋の電話が鳴った。
「夜分にすみません。留崎の民宿の者ですが」
最初の一言で誰の声かわかった。八月十八日の留守番電話に残っていた声だ。
「先日はお手紙のことでご心配をおかけしました。あれからは新聞も毎朝ちゃんと届いてます。石屋さんも毎朝あの石に、おかえりって声をかけてますよ」
おかみは少し笑ってから用件に入った。
「石屋さんがね、小野寺さんにお手紙を書きたいっておっしゃるんです。この前、妹さんに伝えていただいたお礼をちゃんとしたいって」
十一月三日、薫は岬の先で海に向かって言った。字が違っていて、すみませんって。石屋の人は何も言わずに、薫の横で頭を下げていた。
「それで、九月にお泊まりいただいたときの宿帳を開いたんです。ご住所を石屋さんにお教えしてもいいか、先に伺おうと思って。お電話番号は、ご予約のときに伺っていましたから」
薫は礼を言った。住所なら伝えてもらってかまわない。そう言いかけたところで、おかみが先に続けた。
「うちは夏が過ぎるとお客さんが少ないものですから。小野寺さんの行と同じ見開きに、八月十八日の行もあるんです」
おかみは少し黙った。
「うちでは、お客さんが見える日の朝にお名前だけ先に書いておくんです。あの日も朝のうちに、小野寺様、一名って書きました。妹さんの分です」
「はい」
九月十日の夕方、おかみは宿帳に書いた薫の名前を見て手を止めた。八月にも小野寺さんというお客さんのご予約があったんです。あのとき薫は、妹ですとだけ答えた。
「その横に、お名前とご住所が書いてあるんです。小野寺千晴さんって。お若い方の字です。右のほうへ、こう、傾いた」
薫は受話器を持ち直した。
「誰かのいたずらかとも思ったんです。でも宿帳は帳場の引き出しにしまってありますし、九月からあとはお客さんも数えるほどで」
「はじめは、九月に小野寺さんが書いてくださったのかと思ったんです。それで見比べたんですけど、字が違うんですよ。小野寺さんの字はもっとまっすぐで」
薫は机の上のゲラに目をやった。余白に並んだ鉛筆の字はどれもまっすぐに立っている。
「あの晩どなたもお見えにならなかったのは、よく覚えてるんです。お夕飯も二階のお部屋に用意してあったんですよ。窓を開けて、風を通しておいて」
二階の海に向いた部屋だ。九月に薫が通されたのもその部屋だった。窓の下に夕方の港があり、岸壁に船が二艘並んでつながれていた。
「夕方にお電話して、留守番電話にも吹きこみました。九月にいらしたときも、そのお話をしましたよね」
「はい」
「わたしの覚え違いでしょうか」
宿帳に書いたのが千晴なら、千晴はあの晩あの部屋に泊まったことになる。
薫はすぐには答えなかった。どちらかが間違えている。記録と記憶なら、間違えるのは記憶のほうだ。薫はずっとそう言ってきた。
「その住所を、読んでいただけますか」
おかみがゆっくり読み上げる。区の名前、町の名前、番地、アパートの名前、部屋の番号。薫は黙って聞いた。
記録のほうが正しいと言いかけて、薫は口を閉じた。
おかみの覚えていることは、薫の覚えていることと一つも違わない。あの晩、千晴は留崎に着かなかった。同じ晩に薫は早浜の民宿で波の音を聞いていた。
「妹は、あの晩そちらに着いていません」
「そうですよねえ」
おかみは小さく息をついた。
「九月に妹さんのことを伺ってから、あのページはなるべく開かないようにしてたんです。今日は久しぶりに開いたものですから」
おかみの声が少し低くなった。受話器の向こうで帳面を閉じる音がした。
「石屋さんに、ご住所をお伝えしてもよろしいですか。お手紙、近いうちに出すそうなので」
「お願いします」
「お寒くなりましたから、お体に気をつけて」
おかみは何度か礼を言って電話を切った。
*
受話器を置いても薫はしばらく電話の前に座っていた。
おかみが読み上げた住所は千晴の住んでいた部屋のものだ。部屋は九月の末に引き払っている。番地にも部屋の番号にも誤りはなかった。お若い方の字です、とおかみは言った。
本棚の端に千晴のアルバムが五冊並んでいる。薫は五冊目を抜いて机に置いた。裏表紙の内側には写真屋の細長い封筒が挟んである。八月に薫が駅前の店に出した使い捨てカメラの一本分だ。
最後のページを開いた。
〈冷やし ところでん〉の写真がある。品書きの黒板の向こうに砂浜があり、端のほうに灰色の防波堤が小さく写っている。八月に薫が自分で貼った一枚だ。下の余白には何も書かなかった。十月のはじめに開いたときも、そこは白かった。
その余白に、字があった。
〈ところ「で」ん。このあと四十分ひまで海に入ったら、流された。海が一回止まって、戻れた。ほんと〉
千晴の字だった。予定表の鉛筆書きと同じに右へ傾いて並んでいる。
薫は一字ずつ追った。読み終えると、ゲラと同じ速さでもう一度頭から読んだ。
四十分。流された。止まって、戻れた。
薫の知っている八月十八日に、こんな言葉はない。あの日の千晴は浜に戻ってこなかった。
誰かが書き足したのかと薫はまず考えた。けれどこの部屋の鍵は薫しか持っていない。千晴の字をここまで真似られる人にも心当たりはなかった。
ページの残りも、そのときは白い台紙だった。いまは写真が三枚貼られている。
一枚目は苔のついた道しるべだ。彫られた字は〈伊努道〉。下に〈本物!〉とある。九月に薫が見たのは、一度直された字が元に戻ったあとの石だった。千晴は、直される前の石を見ている。
二枚目は窓から見下ろした夕方の港だった。手前に窓枠が黒く入り、岸壁に船がつながれている。薫はこの眺めを知っていた。九月十日の夕方に留崎の民宿で通された、二階の部屋から見た港だ。同じお部屋にしておきましたから。おかみはそう言った。
写真の下には〈薫も泊まるべき〉。「薫」の真ん中の横棒が一本足りない。
千晴の書く「薫」はいつもこの形をしている。似せて書こうとする人なら、まず正しく書いてしまうだろう。
三枚目に千晴がいた。
道しるべの横にしゃがみ、二つ目の字を指さして笑っている。下に〈石屋さんに撮ってもらった。謝られた〉。
薫はその顔から目を離せなかった。見送りの日に祭壇に置いた写真より、新しい顔だ。指先で写真の縁にふれた。台紙にしっかり貼りついていて、角の一つも浮いていなかった。
石の肌に朝の光が当たっている。石屋の人は毎朝あの石を拭く。千晴は十八日の晩を民宿で過ごし、十九日の朝に石を見に行ったのだ。絵はがきに〈あやまり石は、あした〉と書いてきたとおりの旅だった。
字が違っていてすみませんって、伝えてください。九月に石屋の人は笑ってそう言った。伝えます、と薫は答えた。伝える相手はもうどこにもいなかった。この写真の中では、石屋の人が千晴にじかに謝っている。
薫は裏表紙の内側から封筒を抜いた。表には店の人の字で薫の名字と〈13〉が書いてある。八月に焼いた枚数だ。中には残りの十二枚のプリントが入っていた。東京駅のホームの一枚から始まる、八月に見たとおりの束だ。
ネガは六コマずつに切られて薄いビニールの袋に入っている。薫は電気スタンドの灯りにかざした。
八月に見たときは、ところでんの隣から先に何も写っていなかった。向こうが透けて見える薄い茶色が終わりまで続いていた。
いまはそこに何かが写っている。
浜と防波堤らしい形。細長い石。窓枠の四角。しゃがんだ人の形。隣り合う八コマが埋まり、九コマ目からはまた薄い茶色に戻る。
薫は縁に刷られた番号を一つずつ読んだ。数字は途切れずに続いている。切り口の位置も八月のとおりだ。ほかのフィルムをつないだ跡は、どこにも見つからなかった。
薫はアルバムを最初のページに戻し、写真と字を一枚ずつ突き合わせた。
〈自転車、まかれる〉。〈売るしかない〉。〈ソのほうが甘そう〉の「甘」には、横棒がやはり一本多い。封筒の〈13〉も店の人が書いたとおりの数字だ。
書いてあった字は一字も変わっていない。写っていた像も一つも変わっていない。変わったのは白かったところだけだ。
薫の記憶では、千晴は留崎に着いていない。おかみの記憶でも、あの晩は誰も来なかった。しかし、宿帳にもアルバムにもネガにも、着いた跡がある。
記憶は間違える。記録は間違えない。
二十年そう言ってきた。今夜は、どちらにも赤字を入れられるし、どちらにも入れられない。
*
薫は鞄からノートを出して前のほうのページを開いた。
14:32 停止
既視感の列はここで終わっている。そのあとは時刻と頁と「了」の並ぶ一列だけだ。
あの日の朝、薫は再校のゲラを読んでいた。脇には初校が置いてある。初校には作者が線を引いて消した一行があり、その横に〈イキ〉と書き足してあった。再校ではその一行が元の位置に組み直されていた。薫は一字ずつ突き合わせた。
再校は、初校を一度通した目で読む。直しの入っていない行には、初校と同じ字が同じ順に組まれている。読んだことがあると思うのは当たり前だ。
二十九年の既視感は、それだったのではないか。薫は初めから再校を読んでいた。どの行にも先に組まれた初校がある。この世界は二度目に組まれたものだ。一度目が、どこかにある。
中学の保健室で「疲れてるのね」と言われた日も、病院で脳波に異常はないと告げられた日も、薫はノートに既視感を書いた。治したい不具合だと思ってきた。その不具合は薫の頭の中にはなかった。
一字足せば、そこから先の字は一つずつ後ろへ送られる。行の頭に来る字が入れかわり、改行の位置がずれる。送りが段落の中で収まらなければ、次のページまで組み直しになる。
八月十八日の午後二時三十二分に、赤字が一つ入った。その行から先は一度も収まらずに送られ続けている。読んだことのある行は、あの日からどこにもない。薫が何を見ても初めてなのはそのためだ。
初校のその行で、海は止まった。
ところでんの下に千晴がそう書いている。十月二日に早浜の防波堤で薫が見たことが、初校の八月十八日にも起きていたのだ。
あの日の午後、薫は校閲部の机でノートに「停止」と書いた。既視感が止まったからだと、今夜まで思っていた。なぜその二文字なのかは、自分でもわからずにいる。初校の同じ時刻には海が止まっている。読んできた初校の最後の一行を、薫はどこかで覚えていたのかもしれない。
薫はアルバムの最後のページに戻った。
〈このあと四十分ひまで〉
予定表の「14:15」に線を引き、横に「14:50」と書いたのは薫だ。赤字の入る前の行だから、初校にも同じ直しが入っている。初校の千晴も薫の直した列車を待って浜で四十分を過ごし、海に入った。
違ったのは、海が止まったかどうかだけだ。
八月から薫は、その四十分を作ったのは自分だと思ってきた。それは間違っていない。初校の薫も同じ直しを入れている。初校の千晴はその四十分のあとで、ところでんの下に〈ほんと〉と書き添えた。
千晴を死なせたのは、薫の直しではなかった。
薫は机に肘をつき、両手で顔を覆った。長いあいだ、そうしていた。
八月から何度も思い浮かべてきたのは、予定表の「14:50」だ。迷いのない、薫の字の数字だ。今夜は同じ数字が、少しだけ違って見える。
では、赤字を入れたのは誰か。直しには直した人がいる。留崎からの帰りの列車で、薫はそう考えた。
机の時計は夜の十時十五分を指している。薫は鉛筆を取った。
22:15 初校
*
勤労感謝の日の駅前はふだんの朝より人が少ない。写真屋は開いていた。ガラス戸に〈日曜祝日も営業いたします〉の貼り紙が出ている。
店先のワゴンに使い捨てカメラの箱が積んである。千晴がいつも買っていたのと同じ箱だ。
カウンターには八月と同じ年配の店の人がいた。薫はネガの袋と封筒を出した。
「この八コマを、一枚ずつお願いします」
店の人はネガを蛍光灯にかざし、封筒の表と見比べた。
「八月にうちで焼いたときは、十三枚になってますね」
ところでんの隣のコマを、店の人は爪の先でたどった。
「こっちも写ってるのに、焼いてない。プリント漏れだ。すみません、うちの手落ちです」
店の人は頭を下げ、焼き増しの代金はいらないと言った。
薫は首を振った。店の人のせいではない。八月にこのコマは透けていた。そう言っても通じる話ではない。
「焼き増しですと、お渡しは明日になりますが」
「スピードで」
八月にも同じことを頼んだ。あのときは口に出してから千晴の言い方だと気づいた。今日は、知っていて選んだ。
「でしたら、一時間ほどみてください」
店の前の長椅子で待つことにした。
紙袋からアルバムを出して膝にのせ、最後のページを開く。〈ほんと〉の三文字は外の光で見ても千晴の字だ。
長椅子の端に、ふいに誰かが腰を下ろした。近づいてくる足音は聞こえなかった。
紺のセーラー服だった。胸の前にカメラを提げている。ようこだ。留崎の岬で別れてから三週間になる。
祝日の朝に制服で駅前の長椅子に座る高校生は、あまりいない。
「確認させていただいても、よろしいですか」
返事をする間もなく、シャッターの音がした。モーターの音が続く。ようこはカメラを下ろしてアルバムをのぞきこんだ。
「とても自然に仕上がっていますね」
仕上がってるって、誰が仕上げたの。そう訊きかけて、薫は言葉を選び直した。
最後のページに手を置く。
「この写真は、どこから来たの」
「足りないところを、前回の結果で補いました」
ゆうべ、ノートに二文字を書いたばかりだ。
「前回って、初校のこと?」
「初校、という言い方はとても的確です。今回は、再校にあたります」
ようこは褒めてから認めた。一人で出した答えと少しも違わない。
日付を口に出してみた。
「八月十八日の初校で、千晴は」
「申し訳ありません。その日については、お答えできません」
三度目だった。留崎の岬で聞いたのと句読点の位置まで同じだ。
アルバムに目を落とす。校閲の疑問は決めつけて書かない。誤りだと言い切れば、書いた人は身構える。〈〜では?〉と問いの形にして余白に小さく書く。日付を名指しすれば同じ文が返ってくる。名指ししなければいい。
「たとえばの話をしても、いい?」
「どうぞ」
「たとえば、初校で生きていた人が、再校では死んでいる。そういう直しが入ることはある?」
「あります」
ようこは間をおかずに答えた。
「記録と違う結果は、不一致として報告されます。ご依頼主さまが消してとおっしゃれば、記録どおりに直して、最初からやり直します。そのままでいいとおっしゃれば、残ります」
十月二日の早浜で海は止まり、子どもは残った。初校の八月十八日にも海は止まり、千晴は戻ってきた。そのあとで消された。違ったのは依頼主の言ったことだけだ。
消して、と誰かが言った。そう判断したのだ。
千晴は誤植として直された。
「たとえば、最初から別の形で組み直してもらうことは、できる?」
「できます。条件を変えると、はじめからすべてが別の結果になります。今いらっしゃる方は、どなたも同じ形では生まれてきません」
ようこは駅前の通りに目をやった。祝日の朝の人がまばらに行き来している。
村井の湯呑み。おかみの声。十月二日の子どもと、その手首をつかんだ男。どの人も同じ形では生まれてこない。薫も、千晴も。組み直した世界に千晴がいたとしても、それは薫が知っている千晴とは違う形の誰かだ。
やり直せば全員が消える。
「一つの直しだけを、取り消すことは?」
「できます。ご依頼主さまが、そうおっしゃれば」
校正を入れるべきなのは一箇所だけだった。八月十八日の午後二時三十二分の一行だ。それを取り消せば、そこから先の送りは初校の組みに戻る。
作者が書けば、一度消した行は生き返る。その印を薫は毎日ゲラの上で見ている。
「依頼主って、誰なの」
「いい質問ですね」
ようこはそれだけ言ってほほえんだ。続きを待っても何も出てこない。
ようこは立ち上がってスカートの裾を整えた。
「ほかにお手伝いできることはありますか」
「今は、ない」
「承知しました」
一礼して、ようこは駅のほうへ歩いていった。行き来する人の中で、紺の背中だけが少しも揺れない。改札の手前でその姿は人の陰に入った。
呼んでもいないのに来て、撮って、帰っていく。留崎でも今日も同じだった。
薫はアルバムを閉じて膝の上で両手を重ねた。駅のほうから電車の着く音が聞こえる。改札を出てくる人の中に、紺の制服はもう見えない。
一時間がたつころ、店の人が戸口から顔を出した。
「お待たせしました」
薫は長椅子で袋を開けた。
一枚目は早浜の海だった。
浜の北の端から沖へ向けて撮った一枚だ。防波堤が横から灰色に突き出し、その向こうで海が光っている。波は低い。手前の濡れた砂に、海のほうから足跡が続いている。足跡の終わりに、カメラを構えた人の影が落ちている。
初校の、八月十八日の海だった。
*
写真屋を出ても、薫はまっすぐには帰らなかった。
駅の裏の公園でベンチに座り、焼き増しを一枚ずつ見た。台紙に貼られたのと同じ写真が三枚ある。ほかに留崎の駅名の看板と、岬の灯台と、民宿の膳と、坂の石段。どれにも日付は入っていない。それでも撮った順はわかる。順に並べると、千晴が留崎で過ごした一晩がそのまま見えてくる。
石段の写真の端には猫が一匹写りこんでいる。千晴はたぶん猫のほうを撮りたかったのだ。
海の一枚だけは膝にのせておいた。
写真の端に葦簀をかけた海の家が写っている。八月十九日の朝に薫が同じ浜に立ったとき、海の家の一軒は葦簀を外しはじめていた。写真の中では二軒ともまだ営業中だ。
海は本来、止まらない。止まったのは世界のほうの誤りだ。千晴はその誤りのおかげで浜に戻ってきた。千晴が生きていたのは、世界の誤りのおかげだった。
十月二日の子どもも同じだ。記録どおりの世界でなら、二人とも死んでいた。
依頼主は子どもを残すと決め、千晴を消すと決めた。同じ種類の誤りを二度読んで、それぞれに違う赤を入れた。
祭壇に置いたアルバムの終わりのほうに一枚の写真がある。千晴の書いた「薫」の字に、薫が横棒を一本足したものだ。下には千晴の字で〈直された〉とだけ書いてあった。
今度は千晴が直された。
なぜ千晴のほうに赤が入ったのか、薫にはわからない。ゲラでも作者は直しの理由を書かないことのほうが多い。理由のわからない赤字にも校閲者は従ってきた。薫もそうしてきた。
間違えたままのほうが、面白い旅になったかもよ。予定表を直したとき、千晴はそう言って笑った。初校の千晴は世界の間違いのほうで旅を続ける。留崎に着いて、石を見て、謝られて、〈本物!〉と書く。
九月十日、薫は千晴の代わりに留崎へ行った。同じ部屋に泊まり、同じ石の前に立った。あの旅は、初校の千晴の旅を再校の薫がなぞったものだったのかもしれない。
やり直しは選べない。要るのは一つの直しを取り消すことだ。
校閲の言葉なら、イキにあたる。
八月十八日の朝、薫は初校の〈イキ〉を一字ずつ突き合わせてノートに書いた。
10:45 p.119 イキ 確認
あの〈イキ〉を書いたのは作者だ。消すと決めるのも、消したものを生かすと決めるのも作者で、校閲者はそれが正しく組まれたかを確かめる。校閲者にできるのは余白に鉛筆で〈イキ?〉と疑問を出すところまでだ。
この世界の作者は依頼主だ。
疑問は作者の目に入らなければ意味がない。ゲラなら編集者が運んでくれる。依頼主のところへは何が運ぶのか。
ようこは頼まれもせずに確かめに来る。確認させていただいても、よろしいですか。あの子が確かめたものは、確かめる目の向こうへ届いているはずだ。
作者にものを見せる手は、たぶんあの子のカメラだ。
〈イキ?〉の横に何を添えれば、作者は線を引いた行をもう一度読むのか。それはまだわからない。疑問は短いほど読まれる。薫が知っているのはそれだけだ。ゲラの余白なら鉛筆の字は消しゴムで消せる。この疑問は一度出したら消せないかもしれない。
日が傾いてから、薫は遠回りの道で家へ向かった。祝日の夕方の住宅街は静かで、どこかの台所から鍋の音がする。
二十九年、薫は不具合を直したいと願ってきた。既視感を治したかった。間違いを一つでも多く消したかった。
今は、直されたものを一つ戻したい。
作者は自分が線を引いた行を覚えているだろうか。ゲラの作者なら、たいてい覚えていない。消した行のことは、消した人がいちばん早く忘れる。
部屋に着くと、薫はノートの日時の一覧に一行足した。
11/22 夜 余白が埋まっている
あの子の列にも印をつけた。確かめに来たのは翌朝だ。列の印はこれで三つになる。
海の一枚を残して、焼き増しはネガと一緒に写真屋の封筒へ戻した。台紙には貼らない。千晴のアルバムに手を入れていいのは千晴だけだ。
作者が迷った跡は初校のゲラにだけ残る。八月十八日の朝、薫はそう思った。
千晴が生きていた跡も、初校にだけ残っている。その写しが一枚、薫の手の中にある。
*
新幹線の窓の外はもう暗い。トンネルに入るたびにガラスに自分の顔が映る。
膝の上の紙袋には祖母のアルバムが入っている。
日曜の夜の車内は混んでいる。通路をはさんだ席では法事帰りらしい黒い服の家族が三人とも眠っている。前の席の子どもは窓に額をつけて外の灯りを数えている。
三回忌の法事は昼すぎに終わった。お寺の本堂は底冷えがして、お経のあいだずっと靴下のつま先をこすり合わせていた。
精進落としの膳には祖母の好きだった煮しめが出た。叔母に仕事は忙しいのかと訊かれて、まあまあと答えた。まあまあで話が済むのが親戚のいいところだ。
親戚の家の座敷に移ってお茶を飲むあいだ、形見分けでもらったこのアルバムを回した。持っていこうと決めたのはゆうべだ。
知らない人の写真が何枚もあった。浜に並んで写っている人たち。白い開襟シャツの男。赤ん坊を抱いた誰か。裏に何も書いていない写真は、誰に見せても首をかしげられた。
叔父が一枚を指さして、どこそこの家の人じゃないかと言った。叔母は、その人はもっと背が高かったと言った。二人ともそれ以上は思い出せなかった。
「おばあちゃんしか知らなかったからね」
母はそう言ってアルバムを閉じた。表紙の角がすり切れて、下の厚紙がのぞいている。
帰りぎわ、住職が玄関まで見送りに出てきた。三回忌は亡くなって二年目にするものだという。三年目ではないのかと訊くと、数え方が違うのだと笑われた。
祖母は生きていたころ、アルバムをめくりながら「この人はね」と話しはじめることがあった。そのたびに宿題があるからと席を立った。大人になってからは用事のない電話に出ないことが増えた。出なかった電話のどこかで、この人たちの話をしていたのかもしれない。
この計算を頼んだのも、アルバムがきっかけだった。祖母が若かったころの町をちゃんと見てみたかった。
スマートフォンを出す。母からメッセージが来ている。
〈今日はありがとう。気をつけて帰ってね〉
猫のスタンプが一つ付いている。〈ありがとう。もう新幹線〉と返す。
通知の一覧には一週間前の一件が残っている。
〈今月のご利用枠がリセットされました〉
枠が戻ったら何かするつもりだった気がする。何だったかは思い出せない。動画のサブスクもまだ解約していない。そっちは覚えている。
計算のアプリを開く。「この日の写真」は相変わらずつるりとした顔ばかりだ。保存した写真の一覧をさかのぼると、防波堤の一枚がある。十月二日の、しぶきが宙で止まっている写真だ。
指で広げる。しぶきの粒は一つ一つまでくっきり写っている。防波堤のいちばん下の段に人影が三つある。腹ばいの人と、その腰をつかむ人と、水の中の小さな頭。顔はどれもぼやけている。
祖母のアルバムの人たちと同じだ。写っているのに、誰なのかわからない。
〈この人たちのこと、もっと詳しく〉
〈承知しました。写っている3人の記録を詳しくします。記録の足りない部分は、前回の実行結果で補います〉
AIは三人の誰のことも知らないはずだ。どうやって詳しくするのだろう。
前回という言葉で思い出した。最初のころに一度、エラーを消して回しなおしたことがある。昼休みのそば屋で打った気がする。ネギを山盛りにしていた日だ。何のエラーだったのかは覚えていない。
前の結果まで取ってあるらしい。AIは物持ちがいい。祖母の家の押し入れにも何十年分の年賀状が輪ゴムでまとめてあった。捨てられない人だった。
スマートフォンを伏せて背もたれに頭をあずける。揺れに身をまかせているうちに、うとうとした。
次は終点だと車内の放送が流れる。目を開けると、伏せた画面のふちが光っている。前の席の子どもは窓に額をつけたまま眠っている。
〈3人の記録を詳しくしました。1994年11月22日12時04分〉
〈詳細を表示しますか?〉
詳細は開かない。あとでゆっくり見ればいい。降りる支度をしながら防波堤の写真をもう一度開く。人影がさっきより少しくっきりしている気がする。腰をつかんでいる人の指に、白いものが巻いてある。包帯だろうか。顔まではわからない。
紙袋の口からアルバムの角がのぞいている。
「おばあちゃんのアルバムの人たちも、誰かが詳しくしてくれたらいいのに」




