15:12 起きる
十一月の最初の朝、薫の机に湯呑みが戻ってきた。
縁の欠けた湯呑みから湯気が立っている。顔を上げると村井が自分の席へ歩いていくところだった。カーディガンの肩が前よりひと回り薄い。
「おかえりなさい」
「ただいま。ひと月も休むと鉛筆の持ち方を忘れるわね」
村井は小さく咳をして笑った。
「入院してるとね、今日が何日なのかわからなくなるの。朝ごはんが毎日同じだから」
肺炎の話はそれで終わりになった。薫が病院へ行ったのは十月一日の土曜だ。行ってきたら、海のほう、と言われたのもあの病室だった。
村井は自分の席に座りかけて、振り返った。
「海、行ってきた?」
「行きました。花を流しました」
「そう」
村井はそれだけ言って、自分のゲラを開いた。
村井が休んでいたひと月、薫は朝のお茶を自分でいれていた。給湯室で湯呑みを洗うたびに欠けた縁に親指が当たる。そのたびに空いた席が目に入った。今朝の湯呑みはいつもの場所に置かれている。
年配の作家の紀行文の初校が、三日前から薫の机にある。半島や岬の町を歩いた連載を一冊にまとめる本で、今日の分は東北の港町の章になる。
この作家は同じ言葉をその日の気分で書き分ける。「けれど」と「けれども」が一ページの中に混じっている。「ひとつ」と「一つ」も「行く」と「いく」もある。薫は一つずつ拾って余白に鉛筆で書いた。
けれど/けれども 統一?
揺れを揃えるのは校閲の基本だ。版元の決まりがあればそれに合わせる。なければ本の中で多いほうに寄せる。薫は章のはじめから数えなおした。「けれど」が十四、「けれども」が九。多いほうに丸をつけて少ないほうに疑問を出していく。読む人がつまずかないように道をならしておく。薫はこの仕事のその部分が好きだった。見落とし一つなく揃ったゲラは掃き清めた石畳に似ている。
章の終わり近くに作家はこう書いていた。
〈町は、人が通る分だけ町である。誰も通らなくなった路地は、地図に載っていても、もう路地ではない〉
その二行には鉛筆を当てなかった。事実の誤りも表記の揺れもない。
昼すぎに村井が薫の机の横に立った。余白に並んだ疑問を上から下まで眺めている。
「全部拾ったの」
「はい」
「この先生の揺れはね、歩き方みたいなものよ。坂を上るときと下りるときで足の出し方が違うでしょう」
「読む人がつまずきます」
「つまずくのも旅のうちって、この先生なら言うわね」
村井は笑って咳をひとつした。
薫はノートの表紙の内側に目をやった。千晴の絵はがきが挟んである。宛名の〈小野寺薫様〉の「薫」は横棒が一本足りない。千晴は薫の字をいつも少しずつ違えて書いた。一本多いときもあれば、足りないときもあった。この一枚だけは直さずにとってある。
それとこれとは別だ、と薫は思った。絵はがきは一枚きりで、本は何千部も刷られる。
薫は疑問を一つも消さなかった。揃っているほうが読みやすい。坂の上り下りで足の出し方が違うのは本当だとしても、本の中の道は平らなほうがいい。
その晩、アパートの郵便受けに薫の字の封筒が入っていた。
宛先は留崎の民宿のおかみだ。九月に一晩泊まった宿になる。封筒の表に付箋が貼られ、早浜の郵便局の印が押してある。
〈あて所に尋ねあたりません〉
十月の終わりに出した手紙だった。おかみへの礼状に石屋の人あての便箋を一枚添えた。
書きあげるのに三晩かかった。九月の礼と、十月のはじめに早浜で花を流したこと。そこまでは一晩で書けた。終わりに一つだけ問いを書いた。その一行を何度も書き直した。
字が戻ったとき、石に「おかえり」とおっしゃいましたね。戻ることを、ご存じだったのでしょうか。
問いの形にすると責めているように読める。問いの形をやめると何を訊きたいのかわからなくなる。三晩目に、薫は書いたとおりに封をした。
薫は封筒の宛名を一字ずつ確かめた。町の名にも番地にも写し間違いはない。
宿はある。薫はそこに泊まり、二階の海に向いた部屋で小魚の煮つけを食べた。
付箋の文言は事実と合っていない。
*
次の朝、駅の自転車置き場の前で薫は足を止めた。
セーラー服の少女が自転車の前にかがんでいる。紺の冬服で、襟に白い線が三本。手に小さなカメラを構えている。シャッターの音がして、巻き上げのモーターが短く鳴った。
撮っているのは籠だ。前籠の網目に茶色い錆が浮いている。少女は少し位置を変えてもう一枚撮った。
通学の生徒が何人も横を通りすぎていく。誰も少女を見ない。錆を撮る高校生がいても、朝の駅ではそれほど目立たない。
少女は立ち上がると改札の横の伝言板の前へ行った。黒板に白墨の字が並んでいる。〈ユミ 先に行く 7:50〉〈Kへ きのうはごめん〉。少女は伝言の一つに寄ることもなく、黒板を丸ごと一枚に収めた。
少女は振り返って、改札へ流れていく人にもカメラを向けた。シャッターの音がする。レンズの向きには薫も入っていた。
撮り終えると少女は改札へ歩きだした。
薫はその背中を目で追った。
足の出し方が一歩ごとに同じだ。腕の振りも同じ幅で、体の重みが右から左へ移る間合いまでそろっている。人の歩き方にはふつう癖がある。片方の肩が少し下がる。どちらかのつま先がわずかに外を向く。少女にはそれがない。
校正を通した歩き方だ、と薫は思った。
坂を上るときと下りるときで足の出し方が違うでしょう。きのうの村井の言葉が浮かぶ。あの少女はたぶん坂でも同じ歩き方をする。
胸当てにも襟にも校章は見えなかった。どこの学校の制服なのか薫にはわからない。
紺の背中は改札を抜け、反対側のホームへ下りる階段に消えた。薫は腕時計を見て自分の電車へ急いだ。
昼休みに、薫は机の受話器を取った。
民宿の番号は九月に一度押している。今度も桁を数えてから押した。呼び出し音が鳴る。五回、十回。留守番電話にも切り替わらない。二十まで数えて受話器を置いた。
「長い呼び出しね」
向かいの席から村井が言った。
「留崎の宿です。九月に泊まりました」
「明日は祝日だもの。今夜のお客さんの支度で手が離せないのよ」
村井の言うとおりかもしれない。休みの前の日は宿の書き入れどきだ。それなら、なおさら予約の電話は逃したくないだろう。九月にかけたときはおかみの声がすぐに応えた。
前の薫なら村井と同じ答えを先に出していた。千晴にはよく、薫に言うと怪談も理科になる、と笑われた。今は答えを出す前に記録のほうを見たくなる。
薫は番号案内で早浜の郵便局の番号を訊き、もう一度受話器を取った。付箋の印は早浜の局のものだった。
出てきた局の人は、戻した郵便のことを覚えていた。
「留崎の宿あてのですね。配達の者の話では、看板の字がかすれていて、宿がわからなかったそうです。町の方に訊こうにも、どなたも出てこられなかったとか」
「どなたも、ですか」
「昼どきでしたから。申し訳ありません、もう一度お出しいただければ」
局の人の声は丁寧だ。薫は礼を言って受話器を置いた。九月の宿の看板は、坂の下からでも読めた。
夕方、仕事の手が空いたところで薫はノートの前のページを開いた。
8/18 14:32 既視感が止まる
9/7 朝 誤字が直っている
9/10 16:04 伊努道に戻る
9/26ごろ 止まって見える話が出はじめる
10/2 14:47 海が止まる
十月三日に書き出した一覧だ。どの行も、世の中の何かが変わった時刻になっている。
薫は三行目を読み返した。
九月十日の午後四時四分。石の字が戻ったとき、石屋の人は「あ」と小さく声をもらしてすぐに石に手を当てた。苔の上からくぼんだ字を指でなぞった。おかえり、と小さく言うのが聞こえた。
「あ」のすぐあとに出たのは迎える言葉だった。
直しには直した人がいる。九月に薫はそう考えた。直されたものが戻るなら戻すほうにも誰かがいる。その誰かのそばに、あの人はいたのかもしれない。
手紙は戻ってきた。電話には誰も出ない。
薫は十月号の時刻表を鞄から出した。明日は文化の日だ。休日なら早浜を午後二時十五分に出る留崎行きが走る。九月に一度乗った列車で、薫が線を引いて消した時刻の列車でもある。
千晴の予定表には鉛筆で「14:15」とあった。薫はその数字に線を引き、横に「14:50」と書いた。八月十八日の木曜には薫の直しのほうが正しかった。九月十日の土曜には千晴の数字のほうが正しかった。明日の祝日も、千晴の数字が正しい。
その晩、アパートの電話からもう一度宿にかけた。呼び出し音は昼と同じ間で鳴りつづける。三十まで数えて薫は受話器を置いた。
*
十一月三日、薫は朝のうちに東京を出た。
祝日の下りの列車は行楽の家族連れで混んでいる。千晴の綴りに残った青春18きっぷは九月十日で期限が切れた。今日の切符は窓口で買った片道だ。乗り換えを二度して、早浜の駅に着いたのは午後二時の少し前だった。
十月に来たときより風が冷たい。支線の乗り場に二両の列車が入っていて、行き先の札は「留崎」。
ホームの端に紺のセーラー服が立っていた。
薫は足を止めた。きのうの朝、駅の自転車置き場で錆を撮っていた少女だ。首からカメラを提げている。きのうは東京の駅にいた。今日は祝日で、制服を着て一人でここにいる。
少女は背すじを伸ばして立っている。列車を待つ人はふつう時計を見たり足を踏みかえたりする。少女はどちらもしない。風に吹かれて襟が揺れても体は揺れない。
発車の五分前に少女は列車に乗った。薫が四人がけの席に座ると、少女は通路を来て向かいに腰をおろした。ほかの席はいくらでも空いている。
「こんにちは」
少女は膝の上でカメラを両手に持ち、にこりとした。
「こんにちは」と薫は返した。
黒い小さなカメラだった。裏ぶたの小窓に、日付が細い数字で出ている。〈'94 11 3〉。今日の日付だ。
少女の髪は肩の上で切りそろえてある。毛先が一本も跳ねていない。
整った顔だった。目の大きさも眉の高さも、両側でそろっている。さっきにこりとしたときも、口の端は右も左も同じだけ上がっていた。人の顔はふつう、どこかがずれている。片方の目が少し細い。笑うと片方の頬が先に上がる。少女の顔は左右を突き合わせても、一か所も食い違わない。
午後二時十五分、列車は動きだした。早浜の海岸を右に見ながら海沿いのカーブを曲がっていく。浜の端に灰色の防波堤がある。一か月前に海が止まった防波堤だ。
防波堤のつけ根の漁協の小屋の前で、男が一人、網を繕っていた。日に焼けた手首に古い腕時計が光っている。八月に浜の監視をしていた人だ。男は手もとから目を上げずに、網の目を一つずつ結んでいた。
少女が窓にカメラを向けてシャッターを切った。巻き上げのモーターが鳴る。
心の中で、一枚、と薫は数えた。
通路の向こうの席で、風呂敷包みを膝にのせた年配の女の人がみかんをむいている。斜め後ろには作業着の男がいて新聞を広げている。
「終点まで?」
薫が訊くと少女はうなずいた。
「留崎へ行きます。理由は三つあります。一つめは」
車輪の音が少女の声に重なった。
二つ目の駅を過ぎたあたりで音が変わっていた。ガタン、ゴトン。レールの継ぎ目を越える音はふつう同じ間で続く。その間がときどき崩れる。
ガタ……タン。
一つ目の音のあとで二つ目が遅れてくる。薫は窓枠に指を置いて数えた。四つに一つ、五つに一つ、遅れる。列車の速さは変わっていない。遅れる理由が薫にはわからない。
少女は話の続きをしなかった。二つめと三つめの理由を薫は聞きそびれた。
「留崎に何があるか、知ってるの」
「あやまり石があります。寛政六年に建てられた道しるべで、字の誤りで知られています」
少女はすらすらと答えた。案内書の一行を読み上げるような調子だった。寛政六年は合っている。石の横に彫られた年だ。
通路の向こうを見ると女の人が眠っていた。むきかけのみかんを膝にのせて首を垂れている。皮は半分だけむけている。斜め後ろの男も新聞を胸に落として眠っている。二人とも列車の揺れに合わせて小さく首を振る。さっきまで二人とも起きていた。
眠っていないのは薫と少女だけだ。
少女は窓の外にカメラを向けては、ときどきシャッターを切る。小さな駅のホームの花壇が過ぎていく。九月に見たサルビアの赤が今日はにじんで見える。花の形がわからない。薫は目をこすった。こすっても赤はにじんでいた。
「写真、好きなの」
少女はカメラを下ろしてこちらを見た。十六か十七に見える。
「好きというより、確かめている、ですね」
「何を」
「町が、ちゃんと町であるかどうかを、です」
少女はにこりとした。
言葉の選び方が少し変だ。ゲラなら疑問を出すところだと薫は思った。好きかと訊かれて確かめていると答える。並べて比べる言葉ではない。
「あなたは、どうして留崎へ」
今度は少女が訊いた。
「人に会いに」
「それは、とても大切な時間ですね」
少女はまっすぐに薫を見ていた。何が大切なのかは言わない。言わなくても通じる言い方を選んでいる。薫には中身のない言葉に聞こえた。
町は、人が通る分だけ町である。きのう読んだ紀行文の一行を薫は思い出した。
ガタ……タン。継ぎ目の音がまた遅れた。
午後三時の少し前に列車は留崎に着いた。線路はホームの先で終わっている。車止めの向こうの草は、九月には夏草だった。今は枯れて倒れている。
女の人はみかんを膝にのせて眠りつづけている。薫が肩に手をかけて声をかけても目を開けない。息はおだやかで、寝顔は少し笑っている。
「この人、起きない」
「ご安心ください。少し休んでいるだけです」
少女は通路を出口へ向かった。安心していい理由は言わない。
ホームに先に降りたのは少女だった。歩いていく足の運びは、やはり一歩ごとに同じだった。
*
駅を出ると坂と石段の町は静まりかえっていた。
干した網は九月と同じところに下がっている。港のほうから音がしない。エンジンの音も人の声も、カモメの声もない。波の音だけが下から上がってくる。
坂の途中の店をのぞくと、帳場で年配の男が頭を垂れて眠っていた。台に並んだ干物の袋に値札が付いている。「すみません」と声をかけても男は動かない。肩に手をかけると、服の上から体の温かさが伝わってきた。息もしている。揺すっても目を開けない。奥の壁に日めくりが掛かっている。
〈22〉
十月二十二日の紙だ。今日は十一月三日になる。十二枚、誰も破っていない。
隣の家の郵便受けから新聞が一部のぞいている。日付は十月二十二日。そのあとの新聞は入っていない。
路地の石段では、小学生くらいの男の子が膝にボールを抱えて眠っている。軒下の猫も塀の上の猫も眠っている。物干しの洗濯物だけが風に動いている。
薫は自分の腕時計を見た。秒針は動いている。指先をつねると痛い。眠くはない。
一か月前の早浜では海が止まった。止まったのは水だけで、人も風も時計も動いていた。今日は町が眠っている。眠っているのは人や猫で、風と時計は動いている。止まり方は違う。それでも薫には同じ筋の上のことに思えた。
坂をもう少し上ると民宿の看板が出ている。その字がつぶれて読めない。九月には読めた字だ。戸が開いていて、帳場の奥で小柄なおかみが座ってうつむいている。
「ごめんください」
返事はない。おかみの肩が息に合わせてゆっくり上下している。
郵便局の人の話と合っている。看板の字が読めず、町の人は誰も出てこない。配達の人はこの戸の前で首をかしげて、坂を下りていったのだろう。
薫は石段を上った。
途中で振り返ると港が見える。岸壁に船が二艘、並んでつながれている。九月に宿の窓から見た船だ。片方の船では、網を広げかけた漁師が甲板に座りこんで眠っている。防波堤には釣り人が三人並んで座っている。三人とも竿を立てて首を垂れている。防波堤の先には白い鳥が何羽か、羽に頭をうずめて動かない。
岬の先の分かれ道に、石は九月と同じ姿で立っていた。
右の面の字が読めない。くぼみの角がつぶれ、どの字も輪郭がにじんでいる。〈右〉と〈道〉のあいだに字が二つあることはわかる。その二字が何なのか薫には読めなかった。根もとのガラスのコップには野菊が挿してある。花びらの白も石の字と同じようににじんでいる。
石の根もとの石段に石屋の人が腰をおろしていた。膝に布をのせて、こくりこくりと首を揺らしている。
「石屋さん」
石屋の人は目を開けない。
後ろで石段を上ってくる足音がした。
少女だった。石段の上りでも足の運びは平らな道と変わらない。一段ごとに同じ高さだけ膝が上がり、同じ間で次の段に移る。坂を上るときと下りるときで足の出し方が違うでしょう。この子は違わない。
少女は石の前に立ってカメラを構えた。
「この石には、伊勢道と彫ってあります」
迷いのない言い方だった。
「伊努道です」と薫は言った。「勢の上が、奴になっています」
「おっしゃるとおりです。申し訳ありません」
少女はすぐに頭を下げた。言い訳もなければ、なぜそう思ったのかの説明もない。疑問を出したとたんにこう答える作者を薫は見たことがない。
シャッターの音がした。巻き上げのモーターが短く鳴る。
苔の下から字が浮かび上がった。にじんでいた輪郭が締まり、くぼみの角が立つ。
〈伊努道〉
伊。努。道。薫は一字ずつ読んだ。九月に読んだ字と同じだ。コップの野菊の白も花びらの一枚ずつに分かれて見える。
腕時計は午後三時十二分を指していた。
石屋の人がまばたきをした。顔を上げて石を見て、薫を見る。
「あら」
少し間があった。
「小野寺さん」
石屋の人は膝の布を持って立ち上がり、石に向かって頭を下げた。顔を上げると、いつもそうしているように薫に言った。
「伊勢はこっちです。字が違っていて、すみません」
「九月にも伺いました」
「そうでした。癖でねえ」
石屋の人は笑って布をたたみなおした。少しして首をかしげ、空を見上げる。
「わたし、ここで寝てました? 石を拭いて、ひと休みしようと座ったところまでは覚えてるの。まだお昼前だったのに」
日はもう海の上へ傾いている。坂の途中の店の日めくりを薫は思い出した。
「今日は十一月三日です」
「十一月?」
石屋の人はしばらく黙った。台石を見下ろし、手の中の布を見る。布はまだ湿っていた。石を拭いたばかりの湿り方だ。
「座ったのは二十二日ですよ。十月の」
言い張るでもなく、覚えていることをそのまま口にする声だった。少しして石屋の人は息をついた。
「年を取ると、こういうこともあるのかしらねえ」
年のせいではない。店の帳場でも港の船の上でも、人が眠っている。薫はそう言いかけて、やめた。言えばこの人は町を見下ろして、怖くなる。
かわりに、薫は手紙のことを話した。宿に送った手紙が戻ってきたこと。石屋の人あての便箋を入れていたこと。その便箋に書いた問いのこと。
「おかえり、っておっしゃいましたね。九月に、字が戻ったとき」
「言いました?」
石屋の人は石の字に指を当てた。〈伊努道〉の「奴」をなぞる。
「言ったかもしれません。字が戻ったら、うちの仕事も戻ってくるでしょう。直っていたあいだは、朝ここへ来ても何を謝ったらいいのかわからなくて」
石屋の人は少し笑った。
「さびしかったんです。だから、おかえりって」
「戻ることを、ご存じだったわけでは」
「まさか。あの晩は、うちじゅうで腰を抜かしました」
薫はうなずいた。便箋に書いた問いをもう一度口にするのはやめた。この人は帰ってきた字を迎えただけだ。
「妹さんには、伝えていただけました?」
石屋の人が訊いた。九月の別れぎわ、この人は字が違っていてすみませんと伝えてほしいと言った。薫は伝えますと答えた。
「まだです」
「いつでもいいんですよ。急ぐ話じゃないから」
薫は岬の先から海を見た。午後の光が沖のほうで細かく割れている。千晴が見るはずだった海だ。
「字が違っていて、すみませんって」
海に向かって薫は言った。声は小さかった。石屋の人は何も言わずに、薫の横で頭を下げた。
後ろでシャッターの音がする。巻き上げのモーターが短く鳴る。振り返ると、少女がカメラを下ろすところだった。少女は何も言わない。薫も何も訊かなかった。何を撮ったのかは、訊かなくてもわかる気がした。
*
少女は石から少し離れて岬の下の町を見下ろしていた。カメラは胸の前にある。
坂の下の家並みはまだ静まっている。
シャッターの音がして石の字が戻った。石屋の人が目を覚ました。二つの出来事のあいだは薫の腕時計で一分もない。ゲラを突き合わせるときと同じで、並べれば筋が見える。
「港のほうも、撮ってもらえますか」
少女はこちらを向いた。
「承知しました。ちょうど、そうしようと思っていました」
少しだけ考える顔をする。
「町を撮るというより、町の暮らしを撮る、ですね」
少女は石段を下りていった。下りの足の運びも上りと変わらない。薫は少し離れてあとを追った。
民宿の前でシャッターの音がする。看板の字が締まり、帳場のおかみが顔を上げた。
路地の石段で、少女はボールを抱えた男の子にカメラを向けた。シャッターとモーターの音。男の子が目を開け、ボールが膝から転がり落ちる。男の子はボールを追って石段を駆け下りていった。軒下の猫が伸びをして、塀の上の猫があくびをする。
坂の途中の店では、帳場の男が首を起こした。大きなあくびをして柱の時計を見る。「いけねえ」とつぶやき、台の端のラジオをつけた。
「……十一月三日、文化の日の午後、いかがお過ごしでしょうか……」
男の手が止まった。ラジオを見て、壁の日めくりを見る。〈22〉の紙が下がっている。
隣の家の戸が開いて、エプロン姿の女の人が郵便受けから新聞を抜いた。
「おい、今日は何日だ」
「二十二日でしょう。ほら」
女の人は新聞の日付を見せた。男はラジオのほうへ顎をしゃくった。
「三日だとさ。十一月の」
二人は黙って顔を見合わせた。やがて男は日めくりの紙をまとめてつかみ、破った。一枚ずつ破るには多すぎる。
「なんだ、十日も寝てたみたいだ」
男は紙の束を手に笑ってみせた。女の人は笑わずに、手の中の新聞をもう一度見ている。
店の前から、少女は駅のほうへもカメラを向けた。少しして、列車でみかんをむいていた女の人が風呂敷包みを提げて坂を上ってきた。むきかけだったみかんを一房ずつ口に入れながら歩いている。
港へ下りる石段でまた一枚。防波堤の釣り人が三人そろって竿を上げた。一人は針の先を確かめ、そのまま海へ投げなおす。餌は付けたばかりの色をしている。もう一人は西に傾いた日を見上げて首をかしげた。船の上では漁師が網の続きを広げはじめる。白い鳥がいっせいに飛び立って海の上へ散っていく。どこかでエンジンがかかり、犬が吠えた。
開いた窓から、別のラジオが同じ日付を読み上げている。窓の内側で誰かが「え」と声をあげた。
撮られたところから町が目を覚ましていく。
岬を見上げると、石屋の人が石の横に立って町を見下ろしていた。犬の声のするほうへ顔を向けて、少し笑っている。
港の岸壁で少女は振り返った。
「町の解像度が、静かに戻ってきましたね」
解像度、と薫は口の中でくり返した。印刷所の人が写真の話をするときの言葉だ。町に使う言葉ではない。
四十一、と薫は数えていた。列車の窓から撮った分を入れて、少女のシャッターは四十一回鳴っている。フィルムは長いもので三十六枚撮りだ。少女は一度もカメラの裏ぶたを開けていない。
「フィルム、替えなくていいの」
「お気づかい、ありがとうございます。まだ撮れます」
少女はカメラを胸の前に戻した。
「名前、訊いてもいい」
「ようこです」
少女はそれだけ言った。高校生が初対面の大人に名乗るなら、ふつうは名字だ。重ねて尋ねる隙のない言い方だった。
ようこ。薫の学年にも二人いた名前だ。上の学年にも下の学年にもいた。どこの町にもいる名前だった。
「どこの学校?」
「いい質問ですね。その問いは、いったん棚に置いておきましょう」
問いは棚に置く物ではない。薫はそう思ったが、口には出さなかった。
「誰かに頼まれて、撮ってるの」
「ご依頼主さまのために、確かめています」
「依頼主って」
ようこは笑って答えなかった。かわりに肩の鞄から写真を一枚出した。
「これは、あなたが持っているほうが効きます」
薬みたいな言い方だ、と薫は思った。受け取って写真に目を落とす。
漁港の防波堤に波が当たり、しぶきが高く上がっている。しぶきは粒になって宙に浮いている。防波堤のいちばん下の段に人影が小さく写っている。腹ばいになった人と、その腰に手をかけた人。水の中に小さな頭がもう一つ。
写真の右下にオレンジ色の数字が焼き付けてある。
〈'94 10 2〉
腰に手をかけた人の指に、白い包帯がのぞいている。
薫は写真から顔を上げた。
「あの日、早浜にいたの」
「はい。あの日の波は、とても静かでした」
波が止まって音が消えた。あれを静かと言う人を、薫はほかに知らない。
薫は写真を持つ手に力をこめた。訊かなければならないことが、もう一つある。
「八月十八日は」
ようこは薫を見た。
「八月十八日の、午後二時三十二分。早浜の浜に、いた?」
「申し訳ありません。その日については、お答えできません」
声の調子は、ほかの答えと少しも変わらなかった。
「いたか、いなかったかだけでいい」
「申し訳ありません。その日については、お答えできません」
一字一句同じだった。句読点の位置まで同じに聞こえた。ゲラの中で同じ文が二度続いていたら、薫は迷わず片方に線を引く。
八月十八日の午後二時三十二分、薫は校閲部の机で一つの行を読んで顔を上げた。ノートに「14:32 停止」と書いた。同じ時刻に、千晴は早浜の海にいた。
ほかの問いには、ようこは何かしら答える。中身があってもなくても、答えの形はしている。答えないと答えたのは、この日だけだ。
ようこは岬のほうへ顔を向けた。
「この町は、正しさより手ざわりが勝ちますね」
勝ち負けの話はしていない。薫が何か言う前に、ようこは小さく頭を下げた。
「ほかにお手伝いできることはありますか」
薫は首を振った。手伝ってほしいことなら一つある。今それを頼んでも、同じ文が三度目に返ってくるだけだ。
ようこは一礼して石段を上っていった。岬の灯台へ向かう道だ。紺の背中が分かれ道の石の前を過ぎ、木の陰に入る。最後まで揺れのない歩き方だった。
少しして薫も同じ道を上った。木の陰を抜けると灯台の白い壁がある。道は灯台の下の柵で終わっていて、その先は崖だった。
誰もいなかった。柵の向こうで、海が午後の光を返している。
駅へ下りる坂の途中で、民宿のおかみが戸口に出ていた。薫に気づいて「小野寺さん」と目を丸くする。
「今日は三日なんですってね。新聞は二十二日のが最後で、あとが一つも来てないんですよ」
おかみは郵便受けをのぞいて首をかしげた。
薫は手紙のことを話した。おかみは表に出て、自分の宿の看板を見上げた。
「字、ちゃんと読めますよねえ」
「今は読めます」
おかみは看板と薫の顔を見比べて、それ以上は訊かなかった。薫は頭を下げて駅への坂を下りた。
帰りの列車は日が沈む少し前に留崎を出た。発車してしばらくは、ガタ……タン、と継ぎ目の音が遅れる。二つ目の駅を過ぎて早浜の手前のカーブにかかったところで、音は元に戻った。ガタン、ゴトン。同じ間で、いくつも続く。
薫はノートを開いて書いた。
15:12 起きる
書いてから前のページの日時の一覧に戻った。行の右に細い線を一本引いて、もう一つの列を作る。そこに、あの子がいたかどうか。
10/2の行に印をつけた。写真がある。いちばん下に今日の行を足して、そこにも印をつける。
ほかの行は空いている。いなかったから空いているのか、薫が見ていなかったから空いているのか。薫にはわからない。
8/18の行にだけ、薫は印のかわりに「?」を書いた。訊いて、答えのなかった行だ。校閲の疑問と同じ形をしている。疑問を出せば、いつかは誰かが答えを書きこむ。ゲラならそうなっている。
直しには直した人がいる。直した人には、確かめる目があるはずだ。あの子は、その目なのかもしれない。
町は、人が通る分だけ町である。あの子が通ったところから、留崎は町に戻った。
薫は鉛筆を止めた。窓の外の海が灰色に沈みかけている。
千晴は誤植を撮った。看板や貼り紙の間違いを見つけるたびに使い捨てカメラを向けた。あの子は町が町であるかを確かめて撮る。同じようにシャッターを切っても、向けている先が違う。千晴の写真には、いつも間違いが写っていた。
早浜の駅に着くころ、海の上の空はもう暗かった。
明日は紀行文の続きを読む。あの先生の「けれど」と「けれども」に付けた疑問を、薫はいくつか消すことになりそうだった。
*
ベッドに入ってスマートフォンを開くと、時計は〈23:48〉になっている。
計算のアプリはこのところ重い。「この日の写真」を開くたびに読み込みの輪がいつまでも回る。このあいだ今月の上限に達して、精度は標準に戻された。あのときはいったん軽くなった。何日かすると、また輪が回るようになった。
画面の上に小さな文字が出ている。〈今月の残りのご利用枠:わずかです〉
回る輪を眺めながら打った。
〈重いから、使ってないとこ軽くしといて〉
〈承知しました。人口の少ない地域の計算を簡略にします。動作が軽くなり、ご利用枠の節約にもなります。簡略にした地域の一覧を表示しますか?〉
一覧はいらない。どうせ行かないところだ。
輪が消えて、写真がすぐに出るようになった。
「お、サクサク」
指で送っていく。駅の改札、商店街の八百屋、団地のベランダの洗濯物。顔はまたつるりとしているけれど、待たされないのがいい。来月になって利用の枠が戻ったら、精度も軽くしたところも戻せばいい。
使っていないものなら、ほかにもある。動画のサブスクが二つ、夏から一度も開いていない。あれも来月には解約する。たぶん。
送っていく指が一枚で止まった。
岬の先の分かれ道に古い石の道しるべが立っている。年配の女の人が布を手にして、石に頭を下げている。
石の字が一つおかしい。伊勢の「勢」の上が違う字になっている。
見覚えがある。前に誤字を直させたら、元からそういう字だったと言われた石だ。あのときは〈え、元からなの じゃあもどしで〉と打った。打ち間違いも直さずに送った。
今度は直させない。次の写真へ送る。
同じ町の写真が続いている。石段でボールを抱えて目をこする男の子。軒下で伸びをする猫。日めくりの紙の束を手に笑っている男。港の防波堤で竿を上げる釣り人たち。
どの顔も寝起きの顔をしている。
一枚だけ、誰の顔も写っていない写真がある。岬の先に人が一人立って、海のほうを向いている。後ろ姿で、顔はわからない。横に年配の女の人が頭を下げている。さっきの道しるべの人だ。
何をしているところなのかはわからない。少し見て、次へ送る。
「みんな寝てたの?」
声に出して少し笑う。日めくりなんて久しぶりに見た。祖母の家の台所にも掛かっていた。毎朝一枚破るのは、いつのまにか自分の役目になっていた。夏休みに泊まりに行くたびのことだ。
通知が一件来る。
〈確認のために撮影した地域は、元の精度に戻っています。1994年11月3日15時12分〉
撮影、と思う。誰が撮ったのか一瞬だけ気になる。AIのやることだ。考えるのはそこでやめる。
岬の町の写真をもう一度開く。人の少ない町だ。祖母の家のある町も人の少ない町だった。駅前の商店街は、祖母が亡くなる前から閉めた店が目立っていた。
あの町も、どこかの誰かにとっては「使ってないとこ」なのかもしれない。
祖母はよく電話をかけてきた。用事はたいていなかった。忙しいときは出ずに、あとでかけなおすつもりで画面を伏せた。かけなおさなかった電話が何本あったのかは覚えていない。
三回忌には行く。母にはもう返事をしてある。新幹線の切符は明日の昼休みに取る。
アラームを確かめて、スマートフォンを伏せる。明日も七時に起きる。




