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薫は千晴をイキにする  作者: 春凪一


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14:47 落ちる

 九月の二十日になって校閲部の窓がようやく開いた。

 朝のうちに誰かが掛け金(かけがね)を外したらしい。通りを走る車の音と一緒に、乾いた風が少しずつ入ってくる。八月には一度も開かなかった窓だ。手洗いの鏡の横の節水の貼り紙はいつのまにか一枚に減っていた。

 薫(かおる)は席に着くとまずノートの前のページを開いた。留崎(とめざき)から戻ってからの決まりになっている。


 16:04 伊努道(いせみち)


 十日の夕方に石の前で書いた行だ。誤字は書いたとおりに残っている。既視感の列は八月十八日から空いていて、九月に入っても一行も増えていない。表紙の内側から絵はがきを抜くと、〈小野寺薫様〉の「薫」は今朝も横棒が一本足りない。

 それを確かめてから朝刊の〈おわびと訂正〉の囲みに目を通した。同じ字を二つ並べたような訂正はあれから一つも出ていない。

 直されたものは戻ることがある。留崎で知ったのはそれだけだ。誰が直して誰が戻したのか、薫にはわからない。わからないことは記録を続けて待つしかない。

 薫は小説の初校を読みはじめた。山あいの温泉町を舞台にした長編で、今日の分は月見の晩の場面になる。主人公が旅館の二階の窓辺で、別れた人のことを思い出している。


 〈満月が、夜十時の西の空に沈んでいった〉


 薫は鉛筆を取った。

 満月は日の入りのころに東から昇り、ひと晩かけて空を渡る。西の山の端(やまのは)にかかるのは明け方だ。夜の十時ならまだ東から南へ上っていく途中にある。

 作中の晩は十五夜とある。今年はちょうど今夜がその晩にあたる。

 薫は七十ページほど前に戻った。同じ月がそこでは〈まだ満ちきらない〉とある。十五夜の三日前の晩だ。そちらは合っている。作者は月の満ち欠けを数えながら書いている。沈む時刻だけが違っていた。

 薫は席を立って部の本棚から理科年表を抜いた。暦の部に毎日の月の出と月の入りが並んでいる。今夜の東京の月の出は午後五時四十分。沈むのは明日の明け方だ。

 作中の町は東京ではない。それでも夜の十時に満月が沈む土地は、日本のどこにもない。

 薫は余白に小さく書いた。

 満月の入りは明け方?

 ノートにも書いた。


 10:20 p.88 満月 入り?


「お月さま?」

 村井が湯呑みを置きながらゲラをのぞきこんだ。毎朝のことだ。縁の欠けた薫の湯呑みから今日も湯気が立っている。

「満月が、夜十時に西へ沈んでいます」

「沈んじゃいけないの」

「満月は明け方まで沈みません」

 村井は理科年表の開いたページと薫の顔を見比べて笑った。

「小説の月くらい、好きに沈ませてあげたら」

「読む人が空を見上げたら、わかります」

「見上げる人がいたらね」

 村井は自分の湯呑みを両手で包んで少し考える顔をした。

「前にね、三日月が真夜中に昇ってくる小説があったの。疑問を出したら、作者から一言だけ返ってきた。そこは小説ですから、って」

「直りましたか」

「そのまま本になったわ。誰からも何も言われなかった」

 村井は笑って自分のゲラに戻った。

 そこは小説ですから。そう返されたら、校閲者にはもう言うことがない。

 作者がどんな月を思い描いたのか、薫にはわからない。決めるのは作者で、校閲者にできるのは問うことだけだ。それでも空にない月を黙って本に残すわけにはいかない。どこかに一人は窓から月を見上げてからこのページを開く人がいる。薫はその一人のためにゲラを読んでいる。

 子どものころ、祖母の家で十五夜を迎えた年があった。

 縁側から海が見える家だった。月が昇ると、沖から浜まで海の上に光の帯がまっすぐ伸びた。千晴(ちはる)はそれを月の道と呼んで、歩いて渡れると言いはった。

「あれは光が水に映ってるだけ。歩いたら沈む」

 薫がそう言うと千晴は泣いた。祖母は笑って二人の頭に手を置いた。あの晩も薫は正しいことを言った。祖母の家の縁側から見た月の道を、薫はそれきり見ていない。

 帰りの電車を降りると、東の空の低いところに丸い月が出ていた。家並みの屋根の上でまだ少し赤みを帯びている。

 正しい時刻に、正しい場所に月がある。

 薫は駅前の通りで足を止めてしばらく月を見上げた。間違いのないものを前にすると息がしやすくなる。

 千晴なら村井と同じことを言っただろう。好きに沈ませてあげたらいいのに、と。

 空の月は、明け方まで沈まない。


    *


 九月二十六日の月曜日、薫はゲラの端で人差し指を切った。

 紙で指を切るのは校閲部ではめずらしいことではない。血がにじむほどでもなく、たいていは昼までにふさがる。薫は指先を軽く押さえて次のページをめくった。

 翌朝、目を覚ますと指先が熱かった。

 傷のまわりが赤く腫れて脈を打つたびに痛む。紙で切っただけの傷が一晩でこうなるのは初めてだ。薫は駅前の薬局で包帯を買い、電車の中で巻いた。

 朝の電車ではあちこちで咳が聞こえる。九月だというのに、マスクをした人が目につく。前に座った男のワイシャツは糊がきいていて、襟の内側だけが古い汗じみで黄ばんでいる。その日はそういうところにばかり気がついた。

 校閲部でも咳が続いている。

「ただの風邪よ」

 鼻声の村井はいつものように薫の机に湯呑みを置いた。包帯に気づいて「紙で?」と訊く。薫はうなずいた。

「小野寺さんでも切るのね」

 包帯を巻いた指では鉛筆がうまく持てない。疑問の字がいつもより大きくなる。薫は一つ書くたびに余白の字の形を確かめた。

 水曜の朝、薫の机に湯呑みはなかった。

 村井の席が空いている。休むと電話があったとデスクが言った。木曜には肺炎で入院したと聞かされた。

 薫は給湯室へ行って自分の湯呑みにお茶をいれた。二十年この部屋にいる人が毎朝こうしていたのだ。席に戻って口をつけると、欠けた縁が唇に当たった。

 村井の受け持ちのゲラは薫と隣の島の同僚とで分けることになった。

 村井の鉛筆の字は細くて小さい。余白の端に遠慮するように疑問が書いてある。〈ママ?〉〈ルビ要?〉。ところどころに〈作者の癖か〉と自分あての走り書きもある。疑問を出す前に、作者が何をしたかったのかを考えた跡だ。薫の疑問にはそういう書きこみが一つもない。

 今週は校閲部の席がいくつも空いている。風邪をこじらせた人、子どもが熱を出した人、階段で足をくじいた人。

 印刷所からの電話もいつもより多かった。機械の故障で刷り出しが半日遅れるという。デスクは受話器を置くたびにため息をついた。

 校閲部には毎朝何紙もの新聞が届く。言葉の使い方や記事の書き方を見比べるためだ。今週の社会面には事故の記事がいやに多い。駅の階段で転んだ老人。ブレーキが利かなくなったバス。給食のあとに何十人もの子どもが腹痛を訴えた小学校。

 その下に小さな記事も並ぶようになった。


 〈増水した用水路に落ちた男児救助 「流れが止まって見えた」〉


 〈岸壁から転落の作業員 自力で上がる 「波が一瞬止まった」〉


 二つは別の新聞の記事で、書いた記者も土地も違う。それでも助かった人やそばにいた人は同じことを話している。一瞬、水が止まって見えた。そのあいだに岸へ上がれた。

 薫は二つの記事の日付を見比べた。どちらも今週の出来事だ。

「ワイドショーでもやってたよ」

 隣の島の同僚が新聞を指でたたいた。

「止まって見えた人が、今週だけで何人も出てるんだって」

「錯覚です」

 薫はゲラから目を上げずに答えた。

 危ない目にあうと時間がゆっくり感じられる。事故の瞬間がこま送りに見えた、走馬灯を見た。そういう話は昔からある。お盆の海の言い伝えにクラゲで答えたのと同じように、薫はそれで片づけた。

 その日の帰り道、薫の目の前に植木鉢が一つ落ちてきた。

 アパートの手前の古いマンションの三階で、ベランダの手すりに載せてあった鉢だ。鉢は薫の一歩先の歩道で割れて、土と赤い花が散らばった。見上げると、ベランダで年配の女の人が口に手を当てている。

「すみません、おけがは」

 薫は首を振った。

 鉢は止まって見えたりしなかった。ふつうの速さで落ちてきて、ふつうに割れた。止まって見えるのは、そう見たい人なのだろう。

 木曜は朝から雨だ。台風が近づいている、と昼のニュースが言っている。

 昼すぎ、薫は開いた窓の外に目をやった。通りの向こうのビルの灰色の壁を背に、雨粒が宙に止まっている。

 薫は目を閉じて、開けた。

 雨はふつうに降っていた。

 ゆうべは指の痛みでほとんど眠れていない。目が疲れているのだと薫は考えた。

 その晩、テレビのニュースで、台風の進路の合間に止まって見えたという人の話が一つ流れた。用水路から子どもを引き上げた近所の男が、手で水の高さを示しながら「ほんとに、止まったんですよ」と言う。画面の下に同じ言葉が字幕で出た。


 〈ほんとに 止まったんですよ〉


 薫は送り仮名を確かめてからテレビを消した。

 台風はその夜のうちに近畿に上陸して日本海へ抜けた。金曜の朝刊によると、東海の沿岸も大しけだったという。

 薫は早浜(はやはま)の浜を思い浮かべた。弓なりの砂浜と、北の端に突き出した漁港の防波堤。あそこです、と監視員の男が指さしたつけ根のあたり。

 土曜の昼、薫は村井の入った病院を訪ねた。

 待合室の長椅子は埋まって、立って順番を待つ人もいる。あちこちで咳の音がした。病室は六人部屋で、村井は窓ぎわの寝台にいる。腕に点滴の管をつけて薫を見ると笑った。

「来なくていいのに」

 声はまだかすれている。

「病院もいっぱいなのよ。今週は運ばれてくる人が多いんですって。看護婦さんが言ってた」

 村井は咳をして枕もとの水を一口飲んだ。

「月のゲラ、返事きた?」

「まだです」

「きっとママで返ってくるわよ」

 薫は村井のゲラを分けて読んでいることを話した。〈作者の癖か〉の走り書きのことも言った。

「あれは自分に訊いてるの。作者に訊く前にね」

 村井は少し黙って窓の外を見た。

「来週の水曜でしょう。妹さんの四十九日」

 薫は顔を上げた。千晴のことを、村井はあの日から一度も訊いてこなかった。

「数えてたのよ」

 村井はそれだけ言った。

「行ってきたら。海のほう」

 八月の終わりにも村井は同じことを言った。行ってきたら、土曜は休みなんだし。

 帰り道、薫はノートを開いて日を数えた。八月十八日を一日目にすると、四十九日目は十月五日の水曜日になる。村井の数えたとおりだ。

 薫はその前の日曜に早浜の海へ花を流しに行くことにした。

 駅前の書店で時刻表の十月号を買い、花屋で小さな花束を作ってもらった。小菊に竜胆(りんどう)を足した秋の花だ。九月の旅は千晴の付箋だらけの八月号で行った。今度は自分の時刻表で行く。

 部屋に戻ると、台所のパンの袋に青いかびが浮いていた。買ってからまだ三日しかたっていない。薫はパンを袋ごと捨てて、水を張った桶に花束を挿した。

 その夜、薫は千晴の五冊目のアルバムを開いた。

 最後のページに〈冷やし ところでん〉の写真がある。下の余白は今も白い。薫は写真の端に目をとめた。品書きの黒板の向こうに砂浜がのぞき、そのまた向こうに灰色の防波堤が小さく写っている。

 八月十八日、千晴はあの浜でこの一枚を撮った。撮ったあとで海に入った。

 薫は時刻表を開いて新幹線と在来線の乗り継ぎを一行ずつ照らした。早浜に着く時刻をノートに書く。


    *


 十月二日の日曜日、薫は朝の新幹線に乗った。

 在来線に乗り継ぐと、やがて窓の外に海があらわれる。三週間前、千晴の予定表をたどって下った海沿いの本線だ。

 ノートの表紙の内側には18きっぷの綴りがまだ挟んである。一日券は三枚残っていて、期限は先月の十日で切れた。今日の切符は窓口でふつうに買った。

 窓の外の海は台風のあとで濁っている。薫は木曜の雨粒のことを考えかけて、やめた。眠れなかった晩の目の疲れだ。

 早浜に着いたのは昼前だった。三週間前には乗り換えの数分しかいなかった駅だ。木造の駅舎の前に今日は車が一台も停まっていない。八月の夜にここへ着いたとき、警察の車が待っていた。

 支線の乗り場の柱には九月の改正の貼り紙が残っている。横の時刻表の「14」の段に「15」と「50」が並ぶ。今日は日曜なので、二時十五分の留崎行きも走る。

 駅前の道を渡ると、浜がひと目で見わたせる。

 砂の上には流木や海藻が打ち上げられて黒い筋を何本も引いていた。台風が置いていったものだ。海の家の跡には杭の穴だけが残っている。監視のやぐらも骨組みだけになっていた。風はもうおさまっているのに、沖からは長いうねりが寄せては、波打ち際の手前で白く崩れていく。

 八月の朝、薫はこの浜で漁協の船が出入りするのを見ていた。浜には二軒の海の家があり、品書きの黒板が出ていた。その字を薫は読まなかった。

 駅前の食堂で遅い昼を済ませてから、薫は花束を抱えて浜の北の端まで歩いた。

 漁港の岸壁では何人かが船の舫い(もやい)を確かめたり網を広げたりしている。そのうちの一人が網から顔を上げて薫を見た。年配の男だ。日に焼けた手首に古い腕時計がはまっている。

 男は網を置いて立ち上がり、帽子を取った。

 八月に浜で会った監視員だった。

「その節は」

 薫が頭を下げると、男も深く下げた。

 夏のあいだは浜の監視をして、ほかの季節は漁協の仕事をしているという。台風のあとなので今日は網の手入れに出てきたのだと男は話した。

 男は薫の抱えた花束に目をやった。

「四十九日ですか」

「今週の水曜です」

「そうですか」

 男は帽子を手の中で回した。

「捜しに出る船が減ってからも、うちの者は沖に出るたびに見てました。九月の半ばまでは」

 薫は頭を下げた。

「四十九日までは、まだこのへんにいるって言いますね」

 薫は答えなかった。理屈で直しを入れる言葉なら、いくらでも思いつく。今日はそのどれも言う気になれない。

 男は防波堤のほうを見た。

「この一週間、港でもけがが続きましてね。舫いのロープが切れて、指を挟んだのがいます。テレビじゃ、止まって見えたって話ばかりやってるけど」

 男は首をかしげてそれ以上は言わなかった。

 薫は包帯の指を握りこんだ。

 防波堤の先のほうで子どもが三人並んで釣り糸を垂れている。小学生くらいだ。うねりが防波堤に当たるたびに、しぶきが子どもたちの足もとまで上がってくる。

「しけのあとは魚が寄るんで、ああして来るんです」

 男はそう言って声を張った。

「落ちるなよ」

 子どもたちは「わかってる」と声をそろえた。一人が釣り上げた小さな魚を高く掲げてみせる。男は片手を上げて応えた。

 岬のほうで警笛が短く鳴った。浜の向こうの線路を二両の列車が海沿いに走っていく。

 二時十五分の留崎行きだ。

 八月十八日は木曜日で、この列車は走らなかった。千晴が予定表に書き、薫が線を引いて消した一本だ。今日は時刻表どおりに走っていく。列車は岬の陰に入って見えなくなった。

 二人は防波堤のつけ根まで歩いた。八月に男が指さした場所だ。浜と防波堤の継ぎ目で、引き波のたびに水が沖へ吸いこまれていく。

「あれが沖だしです」

 男は水面の一筋を指でたどった。まわりより少し色が濃い。泡がそこだけ沖へ向かって流れている。見た目じゃわからない、と八月に男は言った。教えられれば、わかる。

「岸と平行に泳げば抜けられる、と本で読みました」

 薫が言うと男はうなずいた。

「そのとおりです。けど、足のつくところで急に持っていかれたら、誰だって岸のほうへ泳ごうとする。わたしでも、たぶんそうする」

 男はしばらく水の筋を見ていた。

「あの日、手を振ってるのが見えたんです。最初は、友だちにでも振ってるのかと思った。呼んでる手だとわかって、時計を見た。監視の日誌に時刻を書く決まりがあるんで、体が先にそうするんです」

 男は手首の時計に目を落とした。

「時計を見た一秒があれば、と何度も思いました。走って海に入ったときには、もう腕一本ぶん遠かった。あと少しのところで、いつも目が覚めるんです」

 時刻を書く決まり、と薫は胸の中でくり返した。薫のノートも同じ決まりで続いてきた。

 薫は何も言えなかった。千晴の予定表に四十分の待ち時間を書きこんだのは薫だ。その四十分のなかほどで、この人の腕は千晴に届かなかった。

 あの時刻、薫は東京の校閲部で文庫のゲラを読んでいた。〈彼女はポケットの中で、切符の角を確かめた〉。その一行を知らないと思ったのが、二時三十二分だった。

 薫は沖を見た。まだこのへんにいる、と男は言った。そんなことはない、と言いかける声が今日は薫の中でも小さい。

 薫は腕時計を見た。午後二時三十分。

 包み紙を外して花束をほどき、小菊と竜胆を一本ずつ水に落としていく。

 午後二時三十二分に最後の一本を落とした。

 花は防波堤のそばにしばらく浮いていた。やがて引き波に乗ってまっすぐ沖へ運ばれていく。どの花も同じ筋をたどっている。

 八月十八日、千晴はこの筋を運ばれた。薫はそれを初めて自分の目で見ている。

 海は止まらなかった。

 波は寄せては崩れ、花は沖へ遠ざかる。三週間前に支線の窓から見た海と、何も変わらない。

 男は帽子を胸に当てている。薫も黙って花の行く先を見ていた。


    *


 十五分ほど、二人はつけ根に並んで立っていた。

 花はもう小さな点になってうねりの上で見え隠れしている。男はあの日のことをそれ以上話さなかった。薫も訊かなかった。

 防波堤の上で子どもの一人が竿を持って段を下りてきた。つけ根に近いほうが釣れると思ったのかもしれない。石の面はしぶきで濡れて黒く光っている。

「そこは滑る」

 男が言い終わる前に、子どもの足が横に流れた。

 竿が先に水に入り、小さな体がそれを追った。子どもは段から落ちて水の中に消えた。

 すぐに頭が浮かんでくる。子どもは水をたたいて防波堤のほうへ手を伸ばす。けれど体は少しずつ壁から離れていく。さっき花を運んでいったのと同じ筋だ。

「つかまれ」

 先のほうで、ほかの二人が竿を放り出して叫んでいる。男が走った。防波堤のいちばん下の段に腹ばいになり、水の上へ腕を伸ばす。指先と子どもの手のあいだに、まだ腕一本ぶんの水がある。

 届かない。

 八月十八日にも、こうして腕一本ぶんが足りなかったのだ。

 薫は駆け寄って男の腰のベルトを両手でつかんだ。男の体が段の外へ乗り出す。濡れた石の冷たさが膝にしみてくる。包帯を巻いた指にベルトの革が食いこむ。痛みは感じなかった。

 子どもの顔が波の陰に沈み、また浮く。そのたびに少しずつ遠くなる。

 沖から寄せたうねりが防波堤に当たって高く盛り上がった。崩れれば、子どものいるところへまともに落ちてくる。

 その波が、崩れかけた形で止まった。

 音が消えた。

 さっきまで耳を埋めていた海の音がしない。盛り上がった波の斜面に、日の光が筋になって止まっている。宙に散ったしぶきが一粒ずつ浮いている。日を受けて光り、落ちてこない。遠くでカモメが鳴いている。その声だけがふつうに聞こえる。風は吹いていて、頬に当たる。男の荒い息が耳もとでする。動いていないのは海だけだ。

 沖のほうで千晴の花も水の上に止まっていた。引き波の筋も動いていない。千晴の花は、沖へ続く水の道の途中にある。

 子どもだけが動いている。もがいて顔を上げ、こちらへ腕を伸ばす。目を大きく見開いている。口から出た泡が水の上に丸い形で並んでいる。髪から落ちかけた滴も宙で止まっている。何が起きているのか、本人にもわかっていない。水から抜けた腕のあとに、腕の形のくぼみが残っている。くぼみは埋まらない。

 薫の目の前に男の手首がある。古い腕時計の文字盤が見える。長い針は四十七分のところにある。

 秒針が、一つ進んだ。

 もう一つ進んだ。

 男の手が子どもの手首をつかんだ。細い手首を、男は指が白くなるほど握りしめる。

 薫はベルトを引いた。男が子どもを引き寄せて段の上へ抱え上げる。三人は濡れた石の上に倒れこんだ。

 頭の上で、止まっていた波が崩れた。

 海の音がいっぺんに戻ってきた。さっきまで子どもがいた水面を白い水がたたく。しぶきが三人の背中に降りそそいだ。沖の花はまた流れはじめ、うねりの向こうへ遠ざかっていく。

 男は子どもを胸に抱えてしばらく動かなかった。子どもの指が男のシャツをつかんで離さない。

 子どもの運動靴が片方、引き波にさらわれて沖へ流れていった。


    *


 子どもは段の上で咳きこみ、水を吐いて、声を上げて泣きだした。

 ほかの二人が坂の上へ走っていき、少しして母親らしい人を連れて戻ってくる。母親は子どもを抱きしめて男と薫に何度も頭を下げる。

 抱き上げられながら、子どもは母親の肩ごしにこちらを見た。

「水が、かたかった」

 泣き声の合間にそれだけ言った。母親は聞いていない。二人は坂を上っていき、子どもは一度だけこちらを振り返った。

 見送ってから男は濡れた石の上に座りこんだ。

 男は腕時計を見た。八月十八日、浜で千晴に気づいたときにも見た時計だ。

「止まりましたよね」

 男は時計から目を上げずに言った。

 お盆の海の言い伝えにも、止まって見えたという新聞の話にも、薫は理屈で直しを入れる。薫に言うと怪談も理科になる、と千晴はよく笑っていた。

 けれど、さっき秒針は二つ進んだ。錯覚なら秒針もゆっくりに見えたはずだ。秒針はいつもの速さで進み、波だけが止まっていた。海の音も消えていた。水がかたかった、と子どもは言った。

「止まりました」

 薫はそう答えた。

 男は自分の手のひらを見た。子どもの手首をつかんだ手だ。

「届いた」

 小さな声だった。

 男はしばらく黙って沖を見ていた。花はもう見えない。

「あの日は、止まらなかった」

 時計を見た一秒があれば、と男は言っていた。今日、波が止まっていたのは秒針二つぶんだった。あの日の海には、その一秒もなかった。

 薫は男の隣に立っている。かける言葉は見つからない。

 ノートを開いて新しい行に書く。


 14:47 落ちる


 子どもが落ちた時刻だ。波のことも書き足そうとして、薫はしばらく紙の上で鉛筆を浮かせていた。停止、と書きかけてやめる。その二文字は、八月十八日の行にもうある。

 男は漁協の小屋から乾いたタオルを二枚持ってきて、一枚を薫に渡した。二人とも膝から下が濡れている。

 小屋の中で男はポットの湯でお茶をいれてくれた。壁に潮見表と、漁船の名前を書いた黒板がかかっている。窓の外ではさっきと同じうねりが防波堤に当たって崩れていた。

「東京では、何のお仕事を」

「本の校閲です。字の間違いを探します」

「時刻も書くんですか」

 男は薫の膝のノートを目で示した。

「書きます。確かめたかどうか、わからなくなるので」

 男は少し笑った。

「わたしの日誌と同じだ」

 男は机の引き出しから表紙の擦れた帳面を出した。監視の日誌だという。今日の日付と時刻を書き、防波堤のつけ根で子どもが一人落ちたこと、引き上げたことを短く書きつける。

 書き終えると、男はページを一枚戻して薫のほうへ向けた。


 〈8月18日 14時32分 北端遊泳区域 女性一名 沖へ流される〉


 その下に捜索の船が出た時刻が並んでいる。男の字は四角くて大きい。

 薫は自分のノートの「14:32 停止」を思った。同じ時刻が別の人の手で、別の帳面に書いてある。記録は間違えない。二つの帳面の時刻はぴったり合っている。

「来年の夏も、浜に立ちます」

 男は防波堤の先を見ながら言った。薫はタオルを握りしめてうなずいた。

 帰りの列車は空いていた。

 ノートの表紙の内側で18きっぷの綴りが角を見せている。九月十日に一枚を使った。千晴が預かっておくと言ったのがどの一枚だったのか、今もわからない。残りの三枚は、もうどこへも行けない券だ。

 薫は窓に頭をもたせて防波堤で見たものを順に思い返した。崩れかけた形の波。宙のしぶき。腕のあとのくぼみ。水が、かたかった。

 錯覚なら、見た人の頭の中で起きる。子どもの腕のあとに残ったくぼみは、薫も見た。あれは薫の頭の外にあった。

 千晴が最後の一枚を撮った浜で、今日、海が止まった。写真の端に小さく写っていた、あの灰色の防波堤のわきでだ。

 窓の外が暗くなるころ、薫はノートの前のほうのページを開いた。


 14:32 停止


 二十年以上続いた既視感の列はここで終わっている。

 あの日、止まったのは薫の既視感だった。海は止まらなかった。

 今日、海は止まった。男の手は届いた。

 なぜ、千晴のときは止まらなかったのか。

 薫は「停止」の二文字を見つめた。あの日なぜこの言葉を書いたのか、薫は自分でもわからなかった。その答えもまだ出ていない。

 船乗りだった祖父は、海が止まるのを見たことがあっただろうか。窓の外の暗い海を見ながら、薫はそう思った。

 月曜の朝、指の腫れはゆうべのうちにだいぶ引いていた。

 電車の中の咳は先週ほど聞こえない。校閲部に届いた朝刊を、薫は端から端まで読んだ。止まって見えたという記事は、どの新聞にも一つもない。先週の月曜より前にも、そういう記事を見た覚えはない。〈おわびと訂正〉の囲みはいつもどおりだ。

 薫はノートの新しいページに日付と時刻を書き出していった。ゲラの中の年表を突き合わせるときと同じやり方だ。


 8/18 14:32 既視感が止まる

 9/7 朝 誤字が直っている

 9/10 16:04 伊努道に戻る

 9/26ごろ 止まって見える話が出はじめる

 10/2 14:47 海が止まる


 どの行も、世の中の何かが変わった時刻だ。並べてみると、直されることと戻ることと止まることが、同じ筋の上にあるように見えてくる。何がその筋を引いているのかは、まだわからない。

 村井の席はまだ空いている。薫は給湯室へ行って自分の湯呑みにお茶をいれた。

 机の上に月のゲラが戻ってきている。満月の行の余白に薫の鉛筆の問いがある。その横に、作者の字で〈ママ〉とあった。

 村井の言ったとおりだ。

 薫は問いを消さなかった。かわりにノートに書いた。


 9:40 p.88 満月 ママ


 小説の月は、夜十時に西へ沈む。

 薫はゲラをめくって、次の行を読んだ。


    *


 乾燥機の丸い窓の中でタオルが回っている。表示は「32」。

 休日の昼のコインランドリーにはほかに誰もいない。部屋の洗濯機が動かなくなって三日になる。壁ぎわのラックに表紙のめくれた漫画雑誌が何冊か差してある。どれも半年は前の号だ。

 長椅子に腰かけてスマートフォンを出し、計算のアプリを開く。

 祖父母が若かったころの再現は九月の終わりあたりを進んでいる。毎晩のぞくわけではない。思い出したときに開いて「この日の新聞」をめくるくらいだ。その隣にいつのまにか「この日の写真」という欄が増えていた。

 開くと、商店街の写真が出てくる。八百屋の店先、自転車の列、電話ボックス、買い物袋を提げた人たち。どの顔も肌がつるりとしている。看板の字はどれも角が立ちすぎている。

 AIの写真によくある、作り物の感じだ。祖母のアルバムの写真は、もっとくすんでいた。


 〈なんか作り物っぽい。もっとリアルにして〉


 〈承知しました。描写の精度を上げます。計算の量が増えるため、処理に時間がかかることがあります。〉


 次の日の写真から、様子が変わった。

 ワイシャツの脇に汗じみがある。自転車の籠に錆が浮いている。指に包帯を巻いた人が駅の改札を抜けていく。病院の待合室は長椅子が埋まり、立って待つ人もいる。誰もが少し疲れた顔をしている。祖母が最後に入院した病院も、待合室はこんなふうに混んでいた。

「お、それっぽい」

 声が出た。指で広げてひとりひとりの顔を見る。目の下のくま、日に焼けた首、ほつれた袖口。祖父母の時代の人たちも、ちゃんと疲れていたらしい。何枚か保存しておいた。

 日付の進み方がときどき引っかかるようになった。九月の終わりから十月のはじめのあたりで、表示が何度か止まる。〈処理が追いつかない箇所があります〉と通知が来る。カクつくのは気になるけれど、リアルにしたのだから仕方がない。

 乾燥機の中でタオルが重たい音を立てて落ちては持ち上がる。表示は「18」。

 会社のチャットの通知が一件ついている。休みの日だ。開かずにおく。

 母からのメッセージも一件ある。


 〈おばあちゃんの三回忌、来月の第二日曜だからね〉


 〈わかった。ありがとう〉と返した。平日なら〈了解〉で済ませるところだ。既読がすぐについて猫のスタンプが二つ返ってきた。

 祖母が亡くなって、もうすぐ二年になる。写真の中の祖母はいつも少しだけ笑っている。この計算を頼んでみたのも、形見分けで祖母の古いアルバムをもらったのがきっかけだった気がする。

 表示が「10」になったころ、十月二日の写真に目を引く一枚があった。

 漁港の防波堤に波が当たってしぶきが高く上がっている。しぶきが粒になって宙に浮いている。防波堤の上には人影がいくつか小さく写っている。

 高速シャッターで撮ったみたいだ。これは保存する。

 保存したところでまた通知が届く。


 〈今月のご利用の上限に達したため、精度を標準に戻しました。1994年10月2日14時47分〉


 上位のプランなら高い精度で続けられる、という案内が続く。月額の数字を見て閉じた。千円台なら考えたかもしれない。洗濯機の買い替えのほうが先だ。

 精度が下がったとたん、アプリは軽くなった。次の日の写真の顔はまたつるりとしている。保存した分があるから、まあいい。


 〈史実との不一致が1件あります。詳細を確認しますか?〉


 前にも見た文面だ。あのときは昼休みのそば屋で、そばが伸びるのが気になって、開かずに消した。

 表示は「6」。ほかにすることもない。めずらしく詳細を開いてみる。


 〈1994年10月2日14時47分。記録では死亡している人物が、生存しています。原因は特定できませんでした。この時刻に、波の動きが一時止まっています。〉


「あ、さっきの処理落ちか」

 保存した写真を開きなおす。宙に浮いたしぶきと、防波堤の小さな人影。このどれかが処理落ちのすきに助かったのかもしれない。

 よかったじゃん、と思う。AIにも原因はわからないという。わからなくても、助かったならそれでいい。

 ゲームなら、処理落ちはいやなものだ。カクついて、負ける。今日は、カクついたほうがよかったらしい。


 〈助かったなら、そのままでいいよ〉


 〈承知しました。不一致を残します。史実との不一致は1件です。〉


 1という数字も、今日は悪くない。

 乾燥機が止まった。

 扉を開けると、タオルはまだ熱い。抱えて畳みながら少しいいことをした気分になっている。

 そば屋で消したあの1件が何だったのかは、考えもしなかった。


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