16:04 伊努道
駅の柱のポスターが新しいものに替わっていた。
〈夏の文庫フェア〉
「ェ」が小さい。薫は改札へ向かう人の流れから外れて、その前で足を止めた。
千晴が焼き増ししてくれたプリントでは、ここが大きな「エ」だった。宣伝部に知らせたのはお盆休みの前の月曜だ。刷り直しは夏のうちに間に合った。
通りすぎる人は誰もポスターを見上げない。前の字がどうだったかを知る人もほとんどいない。それでいい、と薫は思う。誤植は見つけた者が知らせて、黙って消してもらうものだ。
校閲部の窓は今日も閉めきってある。八月も終わりに近いのに、暑さはまだゆるまない。手洗いの鏡の横には節水の貼り紙が二枚並んでいる。
席に着くと、机の上に宣伝部からの封筒が載っていた。中には刷り直したポスターの見本と一筆箋が一枚入っていた。
〈ご指摘ありがとうございました。おかげさまで、駅貼りは全部替えられました〉
宣伝部の若い人の丸い字だった。薫は一筆箋を封筒に戻して引き出しにしまった。誤植が一つ、どこにも残らずに消えた。こういう知らせを受け取ると、薫は少しだけ息がしやすくなる。
見送りが済んでから、薫は一日も休まずに会社に出ている。休んでもすることがない。ゲラを読んでいるあいだは、ほかのことを考えずに済んだ。
見送りの日、集まった人たちは祭壇のアルバムをめくりながら声を殺して笑っていた。千晴の添えた一言がおかしかったからだ。薫は笑えなかった。
机の端に置いたノートの表紙の内側に、二つのものが挟んである。青春18きっぷの綴りと絵はがきが一枚。
絵はがきの宛名の面には千晴の字で〈小野寺薫様〉とある。「薫」の真ん中の横棒が一本足りない。この字にだけは、薫はまだ一度も手を入れていない。
ゲラを読みはじめた。三十一ページの半ばで薫は鉛筆を取った。
〈彼の話には一つの破綻もなく、完壁だった〉
「璧」の下が「土」になっている。宝玉の「玉」でなければならない。壁の字と取り違えるのは昔からよくある誤りだ。
薫は余白に小さく書いた。
璧?
ノートにも書いた。
10:12 p.31 璧?
いまのノートには確認の時刻しか並ばない。既視感の時刻を書いていた列は、八月十八日の「14:32 停止」から先が空いている。
「また一つ見つけた顔してる」
村井が湯呑みを二つ持って隣の席に戻ってきた。一つを薫の机に置いた。縁の欠けた、薫の湯呑みだ。
「完璧の璧が、壁になっていました」
「よくあるやつね」
村井はゲラをのぞきこんで目を細めた。
「誤植のない本なんて、ないのよ。二十年やってきて一冊も見たことがない」
「目指すものです」
「小野寺さんらしい」
村井は笑って自分のゲラに戻った。千晴のことはあの日から一度も訊いてこない。毎朝、湯呑みを一つ置いていくだけだ。
薫はゲラの続きを読んだ。誤りを一つ見つけるたびに鉛筆で小さく問いを書く。作者と編集者が答え、赤字が入り、本になるころには直っている。本を手に取る人は、そこに何があったのかを知らずにページをめくる。薫はそれがこの仕事のいちばんいいところだと思っている。
昼休みに薫はノートの表紙を開いた。18きっぷの綴りには一日券が四枚残っている。表紙に刷られた利用期間は九月十日まで。
「あら、18きっぷ」
弁当の包みを開きながら村井がのぞいた。
「妹のです。一枚、預かっていて」
村井はそれ以上訊かなかった。
「行ってきたら。土曜は休みなんだし」
九月十日だからね。アパートの外階段の上から千晴はそう言った。
仕事がある、と薫はあの晩二度答えた。今月も仕事はある。そのかわり土曜と日曜は休みになった。
薫は表紙を閉じてゲラに戻った。誤りを見つけて直してもらう。それが薫の仕事で、例外はノートに挟んだ一字だけだった。
*
九月三日の土曜日、薫は千晴の部屋の鍵を開けた。
部屋は今月の末に引き払う。大家にはそれまでに片付けると伝えてあった。
窓を開けると、こもっていた熱がゆっくり外へ出ていく。流しには麦茶のコップが二つ伏せてある。お盆の前の晩、時刻表を広げた座卓で薫と千晴が使ったコップだ。
相変わらず物が多い。壁のカレンダーは八月のページで、十八日から三日分に赤いペンで矢印が引いてある。本棚の一段には誤植コレクションのアルバムが三冊並んでいる。祭壇に置いた一冊と五冊目はもう薫の部屋にある。
電話台の留守番電話で赤い光が点滅していた。
薫は少し迷ってから再生のボタンを押した。機械の声が日付と時刻を読み上げた。
「八月十八日、午後六時十二分」
短い間があって、年配の女の声が続いた。
「留崎の民宿の者ですが。今日お着きのご予定と伺っておりましたけど、まだお見えにならないので。お電話いただけますか」
宿の名前と番号を言って電話は切れた。千晴の予定表のいちばん下に書いてあった番号だ。一桁抜けていたのを薫が案内と見比べて見つけた。
録音はそれ一件だけだ。着くはずだった夕方に、留崎で千晴を待っていた人がいた。薫は消去のボタンに指をのせて押さずに離した。
電話台のメモ帳の一枚目に千晴の字が並んでいる。
〈撮りたいもの
あやまり石 留崎
どの字が違うか いつ彫ったか 薫の宿題〉
ついでに、いつ彫られたのかも。玄関の外で薫が足した頼みごとを千晴は書きとめていた。宿題が増えた、と笑いながら。
薫はその一枚を破りとってノートの表紙の内側に挟んだ。
段ボールを組み立てて本を詰めていった。旅の本、時刻表の古い号、観光案内の小冊子。押し入れの奥からは、写真屋の細長い封筒の束が出てきた。十いくつある。どの封筒の表にも、千晴の字で撮った月が書きこんであった。
古い時刻表にはどれも付箋が貼ってある。めくると、千晴の字で〈乗り換え三分!〉〈ここ走る〉と書いてあった。乗り換えはいつもぎりぎりに組む人だった。八月の予定表の五分も、本人にしてみれば余裕のあるほうだった。
小冊子の一冊が手の中で開いた。
苔のついた道しるべの小さな白黒の写真がある。下に〈あやまり石〉。
あの晩、千晴が開いて見せたページだった。説明の文を読み直しても、どの字がどう違うのかは書いていない。
薫はその一冊を段ボールに入れずに自分の鞄にしまった。服や食器は千晴の友だちが来週引き取りに来ることになっている。本と写真だけは薫が持って帰る。
夕方、三冊のアルバムを抱えて、歩いて十分の道を帰った。三冊は思ったより重い。千晴はこれを高校のころから集めてきた。自分の部屋の本棚に五冊を並べて一冊目から開いた。
最初のページに原稿用紙が二枚貼ってある。題は〈おばあちゃんの家の海〉。鉛筆の大きな字がところどころ枡からはみ出している。その上に中学生の薫が入れた赤鉛筆の字があった。
〈おばあちゃんわ まい日 海を 見ています〉
「わ」の横に赤で〈は〉。
〈かいがらお 十こ ひろいました〉
「お」の横に〈を〉。〈かいがら〉の横には〈貝殻〉。
〈とうくに 船が 見えました〉
「とう」の「う」に〈お〉。
赤字は二枚で十いくつある。あの作文のどこを直したのか、薫はずっと思い出せずにいた。読み返してみると、どれも小学三年生がつまずくところだ。中学生の薫はひとつ残らず拾っている。
〈貝殻〉のところで薫は手を止めた。
ひらがなの〈かいがら〉は誤りではない。三年生の作文としてどこもおかしくない。中学生の薫が、読めない漢字を書き足しただけだ。直すところのない字にまで赤を入れていた。
どこが悪いの、と小学三年生の千晴は泣いた。〈かいがら〉については千晴のほうが正しかった。
下に子どもの字で〈なおされた〉。その横に大人の千晴の字で〈ここから〉。
薫はページをめくっていった。
〈自転車を置かないで下さい 撒去します〉の看板の下に千晴の字で〈自転車、まかれる〉。〈モンブラソ〉の黒板の下に〈ソのほうが甘そう〉。「甘」の横棒はやはり一本多い。路面の〈止まね〉の写真には〈止まらないかも〉。郵便受けの〈郵使〉。古本屋の値札の〈全三巻揃い 二冊〉には〈揃ってない〉と添えてある。
どの写真も千晴が床に並べて一枚ずつ見せてくれた。そう、まかれちゃうの、自転車。千晴は両手でばらまく仕草をして自分で笑った。ソ、おいしそうでしょ。売れって言われたら、売るしかないよね。
どれも薫が仕事で消してきた種類の間違いだ。千晴はそれを町で拾い、一言を添えて面白がっていた。一冊目の作文から五冊目の終わりまで、どのページにも千晴の笑ったものが貼ってある。
五冊目の最後のページに〈冷やし ところでん〉がある。下の余白は空いている。薫が駅前の写真屋で受け取って自分で貼り、何も書かなかった一枚だ。
薫はノートの表紙の内側から18きっぷの綴りを出した。
一日券が四枚。期限は九月十日で、あと一週間ある。
土日に使えばいいじゃない、とあの晩の千晴は言った。九月十日は土曜日だ。
薫は綴りをノートに戻した。小冊子は鞄から出さずにおいた。
行くとも行かないとも、まだ決めていない。
*
九月七日の朝、薫は通勤の電車でノートを開いた。
前の日の最後の行を確かめるのが毎朝の決まりになっている。ページをめくると、表紙の内側から絵はがきが半分のぞいた。宛名の面が上を向いている。
〈小野寺薫様〉
「薫」の真ん中の横棒がそろっていた。
薫は絵はがきを抜き出して窓の明かりにかざした。足りなかった一本がほかの線と同じ太さで並んでいる。同じ黒のボールペンの線だ。字が右に傾く千晴の癖は前と変わらない。
自分で足したのだろうか、と薫は考えた。足した覚えはない。けれど記憶は間違える。
ただ、薫が横棒を足すとその一本だけがほかより濃くなる。辞書のあいだに挟んだプリントの〈薫へ〉がそうだった。この絵はがきには濃い線が一本もない。初めから千晴が正しく書いたように見える。
電車が揺れた。薫は絵はがきをノートに戻した。
校閲部では始業の前に何人かが朝刊を広げている。薫が席に着くと、村井が新聞を指でたたいて笑っていた。
「これ見て。訂正の訂正がいるわ」
社会面の下の〈おわびと訂正〉の囲みだった。
〈六日付五面の記事で「講義」とあるのは「講義」の誤りでした。おわびして訂正します。〉
「同じ字を二つ並べて、何を訂正したのかしらね」
向かいの席からも笑いが起きた。新聞社の校閲も夏ばてだ、と誰かが言った。
薫は囲みの中の二つの「講義」を一字ずつ見比べた。どちらも正しい。この訂正を読めば何かが間違っていたことはわかる。肝心の字がどこにもない。
薫は笑わずに自分の席でゲラを開いた。昨日の夕方まで読んでいた初校だ。付箋を貼ったページの余白に自分の鉛筆の字がある。
門?
隣の行を読んだ。
〈その道の専門家に、話を聞いた〉
昨日は「専問」だった。問うの「問」が、今朝は「門」になっている。
薫は付箋のページを順にめくった。昨日、疑問を出したところが五つある。どの「?」の横の字も合っている。余白の問いだけが、正しい字を指して並んでいる。
「どうしたの」
村井が湯呑みを置いて薫の手もとをのぞいた。
「昨日、ここに疑問を出しました」
「うん」
村井は鉛筆の「門?」と行の「専門家」を見比べた。
「合ってるじゃない」
「昨日は、問うの問でした」
村井はしばらく黙っていた。
「今日は早く帰ったら」
いつもよりやわらかい声で村井はそう言った。
薫は席を立ってデスクのところへ行った。
「この初校、昨日の夕方から今朝までに印刷所から差し替えが来ましたか」
「来てないよ。どうして」
「いえ」
席に戻ってゲラの束をそろえた。付箋の位置はどれも薫が昨日貼ったとおりだ。紙は昨日のものだ。変わったのは、その上の字だけだった。
薫は五つの「?」を一つずつ消した。鉛筆の問いなら、書いた者が引っこめられる。ゲラの字を直したのが誰なのか、薫にはわからない。
帰りに駅の柱のポスターを見上げた。〈夏の文庫フェア〉。刷り直したときから正しい字なので何も変わっていない。
部屋に着いて灯りをつけ、薫は本棚から一冊目のアルバムを抜いた。
原稿用紙の上に赤い字が並んでいる。〈は〉〈を〉〈お〉。その横の鉛筆の字を読んだ。
〈おばあちゃんは まい日 海を 見ています〉
〈かいがらを 十こ ひろいました〉
〈とおくに 船が 見えました〉
「わ」がどこにもない。赤い〈は〉が正しい「は」の横に書いてある。直す相手のなくなった赤字が、原稿用紙の二枚にわたって十いくつ並んでいた。
下の〈なおされた〉も千晴の字で残っている。直されるところはもうどこにもない。
〈かいがら〉と〈貝殻〉の並びだけは四日前に見たとおりだった。もとから誤りではなかったものは何も変わっていない。
薫はページをめくっていった。
看板は〈撤去します〉になっていた。下の〈自転車、まかれる〉は前のとおりだ。まかれちゃうの、と千晴が笑った「撒」の字はどこにもない。
黒板は〈モンブラン〉。〈ソのほうが甘そう〉の「甘」は横棒の数が正しくなっていた。路面の字は〈止まれ〉で、下に〈止まらないかも〉。郵便受けは〈郵便〉。古本屋の値札の〈全三巻揃い 二冊〉だけが前と同じだった。字はどれも正しい。揃っていないのは本のほうだ。
五冊をめくり終えても誤植は一つも見つからなかった。写真の下に千晴の添えた一言だけが並んでいる。どの一言も、もう何も指していない。
千晴がいなくなってからも、アルバムを開けばその笑いどころは見えた。今夜はどのページをめくっても笑うところが見つからない。
終わりのほうのページで薫は手を止めた。千晴の字の「薫」を撮った写真がある。真ん中の一本だけが濃い。薫が足した横棒だ。下に〈直された〉。
このページだけがどこも変わっていなかった。もとから正しい字だったからだ。薫が直したものだけが、直されずに残っている。
五冊目の最後の一枚を開いた。
〈冷やし ところてん〉
「て」の肩に濁点がない。
薫はノートから絵はがきを抜いて裏を返した。
〈早浜着。駅の前がほんとに海。
浜の店の品書きに「ところてん」ってある。あとで撮る。
あやまり石は、あした〉
どこにでもある品書きを千晴がわざわざ撮ると書いている。そういう文になっていた。
記憶は間違える。記録は間違えない。薫はずっとそう言ってきた。
けれど目の前の記録は、どれも薫の記憶と食い違っている。間違えたのが薫の記憶なら、十いくつの赤字と五つの「?」と千晴の添え書きは何を直し、何を問い、何を笑っていたことになるのか。新聞の囲みは何をおわびしたことになるのか。記録どうしのつじつまが合わない。
書き換わったのは、記録のほうだ。
誰かに話そうとして、薫は聞いてくれる相手がいないことに気づいた。千晴ならきっと面白がった。直したらつまらないでしょ、と口をとがらせて――
薫はアルバムを膝にのせて床に座りこんでいた。ソ、おいしそうでしょ。千晴の声は覚えている。その「ソ」の形を、薫はもう写真で確かめることができない。
誤りのない本は薫がずっと目指してきたものだった。誤植のない町も、書き損じのない宛名も。それが一晩でそろった。千晴が笑っていたものはもうどこにもない。
*
その夜、薫は机にノートを開いた。
新しい行に時刻と言葉を書いた。
23:40 ところでん
自分の手で書いた誤字を薫はしばらく眺めた。仕事でもノートでも、間違いを直さずに残したことは一度もない。ノートはゲラではない。それでもわざと字を違えるのは、紙を汚すのに似ていた。
その下にもう一行足した。
23:41 ところてん、の「て」に濁点
校閲の指示の書き方だ。どの字をどうするかを言葉で書く。並んでいる字はどれも正しく、誤りは指示の中にしかない。
灯りを消して横になった。遠くで終電が鉄橋を渡る音がする。
翌朝は雨の音で目が覚めた。薫は布団の上ですぐにノートを開いた。
23:40 ところてん
23:41 ところてん、の「て」に濁点
一行目が直っている。二行目はゆうべ書いたとおりに残っていた。
薫は二つの行を鉛筆の先で一字ずつたどった。どちらも薫の字で、消した跡もない。
誤字だけが直る。間違いを言葉で書いた行には誰も手を入れていない。
直しには、直した人がいる。ゲラの赤字に、書いた人がいるのと同じだ。誰かがどこかで世の中の誤字を消して回っている。
校閲者は自分では字を直さない。気になるところに鉛筆で問いを書き、どうするかは作者が決める。断りなく赤を入れる校閲者はいない。薫もそう教わり、そのとおりにしてきた。
この直しには誰も訊かれていない。千晴にも、薫にも、町で看板を掲げた人たちにも。誰かが作者に断らずに赤を入れている。その誰かは千晴の字の癖を知らない。知っていても構わずに直すのだろう。
薫はノートの表紙の内側から18きっぷの綴りを抜いた。期限まであと二日。
あやまり石の字も、直っているのかもしれない。
どの字が違うのか、見てきて。玄関の外で薫は千晴にそう頼んだ。千晴は留崎に着けなかった。
見に行くのは、今度は薫のほうだ。
ノートの表紙の内側には千晴のメモも挟んである。どの字が違うか、いつ彫ったか。宿題はまだどちらも済んでいない。
昼休みに、薫は机の受話器を取った。電話機には短縮ダイヤルのボタンが二十ほど並んでいる。どれも押せば印刷所か編集部につながる。民宿の番号は、今度は桁を数えてから押した。十日の晩に一人、と言うと、留守番電話と同じ声が「お待ちしております」と答えた。
木曜と金曜のゲラからは誤植が一つも出なかった。どのページも初めから正しく組まれている。薫は何度か鉛筆を取り、そのたびに戻した。誤りのない本を前にすると、校閲者は何も書くことがない。村井は一日に二度、薫の机に湯呑みを置いていった。
金曜の夜、薫は本棚から千晴の時刻表を出した。八月号の付箋だらけの一冊だ。挟んである予定表の「14:15」に引いた線と横の「14:50」は、薫の字だった。
新しい号を買って確かめることはしなかった。この旅だけは千晴の時刻表で行く。
*
九月十日の土曜日、薫は朝早い普通列車で東京を出た。
窓口で一日券を一枚切り離し、乗車日を書きこんでもらう。有人改札で駅員が日付の印を押した。千晴が「預かっとく」と言った一枚がどれだったのかはわからない。四枚とも同じ券だ。薫は綴りのいちばん端を選んだ。
予定表の時刻をたどって海沿いの本線を下っていく。乗り換えの駅の欄の横に千晴の字で〈ここでパン〉とあった。薫はその駅の売店でパンを一つ買った。
ホームの行き先表示の板を見上げる。千晴が十八日に撮った板だ。写真屋から受け取ったとき、薫はその一枚の字を一つずつ確かめている。誤りはなかった。千晴は、旅の道筋も写真に残す人だった。
窓の外で海が近づいたり遠ざかったりする。千晴もこの線の窓から同じ海を見たはずだ。
早浜に着いたのは午後二時十分だった。
ホームから道の向こうの海が見える。浜に人影はない。海の家は二軒とも畳まれて、監視のやぐらにも誰も上っていない。三週間前に漁協の船が戻るのを薫が待った浜だ。北の端に漁港の防波堤が突き出している。あそこです、と監視員の男が指さした場所は、ここからでは防波堤に隠れて見えない。
支線の乗り場へ細い通路を渡った。
ここで四十分を過ごす。千晴が早浜で待った時間を同じ場所でなぞる。薫はそのつもりで来た。
乗り場の柱に貼り紙が一枚あった。
〈九月から 土曜日も休日ダイヤで運転いたします〉
薫は横の時刻表を見上げた。支線の欄の「14」の段に「15」と「50」が並んでいる。「15」の横の印の説明に新しい紙が貼られていた。〈土曜・休日運転〉。
二両の列車がもうホームに入っている。行き先の札は「留崎」。
薫は予定表を開いた。千晴の鉛筆で「14:15」。その数字に薫の引いた線が一本かかっている。横に薫の字で「14:50」。
腕時計を見ると午後二時十一分だった。発車まで四分ある。ホームの端で駅員が時計と列車を見比べている。
今日の時刻表なら千晴の書いた「14:15」は正しい。直すところはどこにもない。
八月十八日は木曜日だった。あの日の時刻表では薫の直しが正しかった。どちらも正しくて、千晴はもういない。
間違えたままのほうが、面白い旅になったかもよ。あの晩の千晴なら迷わずに乗る。
薫は、線を引いて消した数字のほうに乗った。
発車のベルが鳴った。列車はゆっくり動きだし、早浜の海岸を右に見ながら海沿いのカーブを曲がっていく。三週間前、薫はこのホームに立って留崎行きの列車を見送った。今日は窓の内側にいる。
車内には釣り竿を持った子どもが三人いた。
「土曜に学校ないと、得した気がする」
「来週はあるけどね」
三人は二つ目の駅で降りていった。ホームを走っていく背中で竿の先が揺れている。
薫は腕時計を見た。
午後二時三十二分。
窓の外に海がある。波が寄せて、白く崩れて、また沖から寄せてくる。どこも止まっていない。
薫はノートを開かなかった。
八月十八日のこの時刻、千晴は早浜の海にいた。薫の直した四十分のなかほどだった。今日の薫はその四十分を飛び越えて、千晴の行くはずだった先へ運ばれている。
列車は岬の陰に入り、山の切り通しを抜けた。片側に崖が迫り、反対の窓の下にまた海があらわれる。小さな駅に停まるたびに、ホームの花壇にサルビアの赤が見える。乗ってくる人はいない。
午後三時の少し前に列車は留崎に着いた。線路はホームの先で終わっている。車止めの向こうに夏草が伸びていた。
駅を出ると、坂と石段の町だった。軒の低い家が斜面に並び、どの路地の先にも海がのぞいている。干した網のにおいがする。坂の途中に民宿の看板が出ていた。留守番電話の声が名乗った宿だ。
小冊子の地図をたよりに石段を上っていった。
道は岬の先で二つに分かれている。右は半島の西の岸へ、左は東の岸へ下りていく。その分かれ目に薫の腰ほどの高さの石柱が立っていた。
向かって右の面に〈右 伊勢道〉。左の面に〈左 江戸道〉。字のくぼみにまで苔が入りこんでいる。根もとにはガラスのコップに挿した野菊が供えてあった。花はまだ新しい。
薫は小冊子のページと見比べた。白黒の小さな写真では字までは読めない。目の前の字はどれも正しい。どこが違っていたのか、薫にはわからなかった。
そこには先に人がいた。首に手拭いをかけた男が二人。石の根もとにしゃがんで濡れた布で台石を拭いている、年配の女の人。
男の一人が薫の手の小冊子に気づいた。
「見に来たの」
「はい」
「直っちゃったんだよ。水曜の朝に」
男は石のほうへ顎をしゃくった。
「石屋のばあちゃんが、最初に見つけてさ。町じゅうで見に来たよ。駐在さんまで来て、首をひねって帰ってった」
しゃがんでいた女の人が立ち上がった。七十は過ぎているように見える。日に焼けた手に濡れた布を下げている。
「伊勢はこっちです。字が違っていて――」
言いかけて、女の人は口をつぐんだ。
「違ってないんですよね、今は」
布を手に、石に目を落とす。
「水曜の朝、いつもみたいに拭こうとしたら、字が合ってたんです。違ってないのが、違ってた」
石屋の人は右の面の〈伊勢道〉を指でたどった。
「勢の字の上が、奴になってたんです。下の力は合ってるのに、上だけ。二百年、ずっとそうでした」
石の横に回って苔を指で払う。細い字が二行あらわれる。
〈寛政六年〉
〈石工 与七〉
「うちのご先祖です。与七が彫り違えて、そのあと家の者がずっと謝ってきたんです。毎朝ここを拭いて、道を訊かれたら、字が違っていてすみませんって。母も祖母もそうしてました。石屋は父の代でやめましたけど、これだけは続けてて」
石屋の人は布をたたみなおした。
「あやまり石って、誤りのほうだと思うでしょう。うちでは、謝りのほうだって聞かされてきたんです」
「彫り直そうという話は、なかったんですか」
薫が訊くと、石屋の人はうなずいた。
「何度もありました。そのたびに、これで通じてきたからって。伊努道って書いてあっても、伊勢へ行く道だって、みんなわかるんです。間違ってるから、見に来る人もいる。正しい道しるべなんて、誰も見に来ませんよ」
男が笑った。
「直ってよかったじゃないって、言ってるんだけどね」
石屋の人も少し笑った。
「直ったら、うちは何を謝ったらいいんですかね」
寛政六年。薫は頭の中で数えた。寛政の元年が一七八九年だから、六年は一七九四年になる。今年は平成六年で、一九九四年。
ちょうど二百年だ。
二百年立ってる石があるの、とあの晩の千晴は言った。その数字はぴったり合っていた。メモにあった宿題の一つに、いま薫が自分で答えている。
薫は小冊子を閉じた。
「妹が、見に来るはずでした」
石屋の人が薫の顔を見た。
「八月に。来られなくなって」
石屋の人はしばらく何も言わなかった。濡れた布を両手で持ちなおし、深く頭を下げた。
「せっかく来ていただいたのに。字が合っていて、すみません」
薫も頭を下げた。
二人は石の前でしばらくそうしていた。草むらで虫が鳴いている。崖の下で波の音がする。
顔を上げると、石屋の人が「あ」と小さく声をもらした。
右の面に〈伊努道〉とある。
「勢」の上が「奴」になっている。下の「力」は合っていて、上だけが違う。
石屋の人は石に手を当て、苔の上からくぼんだ字を指でなぞった。おかえり、と小さく言うのが聞こえた。男の一人が寄ってきて「戻ってる」と言った。もう一人は黙って石の字と石屋の人の顔を見比べている。
石屋の人は薫のほうへ向きなおり、もう一度頭を下げた。
「伊勢はこっちです。字が違っていて、すみません」
今度は最後まで言った。顔を上げたとき、その人は笑っていた。
「妹さんに、字が違っていてすみませんって、伝えてください」
「伝えます」
男たちは町の者に知らせてくると言って、坂を走って下りていった。
薫は鞄からノートを出した。
23:40 ところでん
23:41 ところてん、の「て」に濁点
一行目の「て」に濁点が戻っている。表紙の内側から絵はがきを抜くと、〈小野寺薫様〉の「薫」は横棒が一本足りなかった。
腕時計を見た。午後四時四分。
薫は新しい行に書いた。
16:04 伊努道
ノートの字は書いたとおりに残っている。それが戻った印だった。
直されたものは、戻ることがある。
薫はノートの前のほうのページに指をかけた。八月十八日の行がある。開きかけて、やめた。
石の前にしゃがんで〈伊努道〉を一字ずつ読んだ。ちゃんと読んでくる、薫の仕事みたいに一字ずつ。あの晩、千晴はそう言った。
伊。努。道。
夕方、坂の途中の民宿の戸を開けると、奥から小柄なおかみが出てきた。留守番電話の声の主だった。
「小野寺さん」
宿帳に書いた名前を見ておかみは手を止めた。
「八月にも、小野寺さんというお客さんのご予約があったんです」
「妹です」
おかみはしばらく黙っていた。早浜の海水浴場のことはこの町にも聞こえているはずだ。
「お電話をいただいたとき、石の字を見に行くんだって、楽しそうにおっしゃってました」
薫は小さくうなずいた。
「同じお部屋に、しておきましたから」
通されたのは二階の海に向いた部屋だった。窓の下に夕方の港が見える。船が二艘、岸壁に並んでつながれている。
夕食には昼に揚がったという小魚の煮つけが出た。おかみは膳を置くと何も言わずに階段を下りていく。
食べ終えて窓を開けると、岬の灯台がともっていた。光は少し間をおいて海の上をひと回りしていく。灯台の手前の分かれ道に、〈伊努道〉の石が立っている。
薫は座卓にノートを開き、表紙の内側から千晴のメモを抜いた。〈薫の宿題〉の下の余白に鉛筆で書き足す。
〈二字目 努 寛政六年〉
違うのは二字目だった。薫は胸の中で千晴にそう伝えた。
*
スマートフォンの時計が「0:12」に変わる。
部屋の灯りはもう消してある。会社のチャットに上司から〈明日9時からでお願いします〉が一件。既読だけつけて閉じた。会議の資料は半分までしかできていない。考えるのはやめて、ベッドの中で計算のアプリを開く。
いつだったか、寝る前の思いつきで頼んだ計算だ。祖父母が若かったころの時代をAIが一日ずつ再現している。いつのまにか「この日の新聞」という欄ができていて、開くとその日の紙面が読める。
紙面の日付は「1994年9月6日」。指で広げる。見出しの字が大きい。広告がやたらに多い。テレビ欄に並ぶ番組の名前はほとんど知らない。地元のクリーニング店の広告の隅に〈完壁な仕上がり〉とある。社会面の下には〈おわびと訂正〉の小さな囲み。投書の欄にも送り仮名のおかしい行が一つ見つかる。
AIは昔から字が苦手だ。看板がぐにゃぐにゃに崩れた画像を前にも何度か見たことがある。せっかくの再現がこれでは安っぽく見える。
〈なんか誤字多いから直しといて〉
送ると、返事はすぐに来る。
〈承知しました。誤字と脱字を修正します。完了したらお知らせします。〉
画面を切り替えて動画を一本見る。猫が小さすぎる箱に入ろうとして、半分はみ出して満足している。もう一本見る。三本目の途中で通知が届いた。
〈修正が完了しました。誤字と脱字を12,843,105件修正しました。〉
多い。そんなにあったのか。AIも大変だ。
続けてもう一通来る。
〈なお、史実の資料との不一致が12,843,105件あります。修正した誤字の多くは、当時の資料にあったものです。元に戻しますか?〉
「え」
暗い部屋で声が出た。
元からあったのか。AIの打ち間違いだと思っていた。昔の人も字を間違えるらしい。
〈え、元からなの じゃあもどしで〉
親指で打って送る。
〈元に戻しました。1994年9月10日16時04分。史実との不一致は0件です。〉
0件、のところだけを読む。0という字は見ていて気持ちがいい。スマートフォンを裏返して枕の横に置く。画面のふちが一度だけ光って消えた。
昔の人も字を間違える。そう思うと少し気が楽になった。明日の資料にもたぶん誤字はある。
時計は「0:19」。目覚ましは六時に合わせてある。
打ち間違えたことには、最後まで気づかなかった。




