14:32 停止
校閲部では八月に入ってから誰も窓を開けていない。外は三十五度を超える日が続いていて、手洗いの鏡の横には節水を呼びかける貼り紙が一枚増えた。
小野寺薫は再校のゲラを一枚めくり、次の行を読んだ。
読んだことがある、と思った。
この行をこの順番で前にも読んでいる。主人公が駅の階段で立ち止まり、傘を左手に持ち替える。次の行で雨が降りだす。薫はそれを知っている気がする。
けれど、そう言い切れたことは一度もない。次の行を先に当ててみようとしても何も浮かばない。読み終えてから、やはり知っていたと思うだけだ。
物心ついたころからずっとこうだった。初めて行く場所も、初めて聞く声も、初めて読む文も、薫には二度目に思える。二十九年、一度目というものを知らずに来た。
校閲の仕事ではこれがやっかいだった。確かめたはずの行を本当に見たのか、見た気がしているだけなのか、薫には区別がつかない。だから一枚終えるごとに手元のノートに時刻を書く。
10:42 p.118 了
ゲラには書かない。校正紙は汚すなと入社した年に教わった。
同じノートにはもう一種類の時刻が並んでいる。
10:43 既視感
10:43 既視感
10:44 既視感
子どものころから書き続けて、ノートは四十冊を超えた。中学の保健室で「疲れてるのね」と言われた日も、去年から通っている病院で「脳波に異常はありません」と言われた日も、同じ形で書いてある。治るものなら治したい。そう思いながら薫はその不具合を毎日書き留めている。
再校では直しが正しく組まれているかも確かめる。薫は脇に置いた初校のゲラを引き寄せた。同じページに作者が線を引いて消した一行がある。その横に〈イキ〉と書き足してあった。一度は削った字を生かして元に戻せ、という指示だ。
いま読んでいる再校では、その一行が消される前の位置に組み直されていた。薫は一字ずつ突き合わせた。
10:45 p.119 イキ 確認
作者が迷った跡は初校のゲラにだけ残る。
次の行で薫は鉛筆を持つ手を止めた。
〈その夜の宴は、彼の独擅場だった〉
独擅場。どくせんじょう、と読む。「擅」の字を「壇」と読み誤ったところから「独壇場」という書き方が生まれ、今ではそちらをよく目にする。薫は広辞苑の第四版を引き、記者ハンドブックの第七版を開いた。春に出たばかりのハンドブックはまだ背が固い。
間違いのほうが広まって、いつのまにか正しいことになった言葉だ。薫はこういう成り立ちが好きではない。
作者がわざと古いほうを選んだのかもしれない。単に字を取り違えたのかもしれない。どちらにしても決めるのは薫ではない。薫は余白に鉛筆で小さく書いた。
ママ?
このままでいいですか、という問いだ。答えるのは作者と編集者で、赤字を入れるのも向こうになる。鉛筆の字は消しゴムで消せる。
ノートに書く。
10:47 p.119 独擅場 ママ?
10:47 既視感
「また書いてる」
隣の席の村井が湯呑みを片手に覗きこんでいた。校閲部に二十年いる先輩で、薫に校正紙の扱いを教えたのもこの人だ。
「書いておかないと、確かめたかどうかわからなくなるので」
「小野寺さんの記憶なら、わたしのよりよっぽど確かでしょうに」
薫は首を振った。
「記憶は間違えます。記録は間違えません」
村井は笑って自分のゲラに戻った。
部屋の奥で電話が鳴り、デスクが受話器を取った。印刷所からだった。校閲部にかかってくるのはたいていそこか編集部だ。私用の電話が取り次がれることはめったにない。
薫もゲラに目を戻した。次の行も読んだことがある気がした。
*
日曜の夜、千晴が写真屋の袋を提げてやってきた。
「スピード仕上げにしちゃった。三日も待てないもん」
靴を脱ぎながら千晴はもう袋の口を開けている。部屋に上がると冷蔵庫から麦茶を勝手に出してきて、扇風機の前に座りこみ、床にプリントを並べはじめた。
「見て。今回は当たりが多いの」
一枚目は駅前の自転車置き場の看板だった。
〈自転車を置かないで下さい 撒去します〉
「撤去の撤が、撒くになってる」
「そう。まかれちゃうの、自転車」
千晴は両手で何かをばらまく仕草をして自分で笑った。
二枚目は喫茶店の黒板だ。
〈本日のケーキ チーズケーキ モンブラソ〉
「ソ」
「ソ。おいしそうでしょ」
三枚目は文房具屋のガラス戸の貼り紙で、〈冷房中 ドアを閉めて下ちい〉とある。
「これはわざとだと思う」
「わざとでもいいの。かわいいから」
四枚目は八百屋の店先の札だ。〈スイカ 切り売れ〉。
「命令されてる」
「り、が、れになってる」
「売れって言われたら、売るしかないよね」
五枚目は喫茶店の入口の貼り紙で、〈営業時間時間 午前十時より〉と同じ言葉が二つ続いている。
「衍字」
「えんじ?」
「余計な字。一つ多い」
「余計なのがあるほうが、にぎやかでいいのに」
千晴はこれを誤植コレクションと呼んでいる。町で見つけた書き間違いや刷り間違いを使い捨てカメラで撮り、プリントをアルバムに貼って集める。アルバムはもう五冊目になる。
始まりは千晴が小学三年生のときの夏休みの作文だった。題は〈おばあちゃんの家の海〉で、浜で貝がらを拾った話が書いてある。中学生だった薫が見てやって、原稿用紙二枚に赤鉛筆で十いくつ直しを入れた。千晴は「どこが悪いの」と泣いた。先生に出したのは清書のほうで、赤の入った下書きは捨てずに取っておいた。
アルバムの一冊目の最初のページには今もそれが貼ってある。〈かいがら〉の横に薫の赤鉛筆で〈貝殻〉と書きこんであった。小学三年生に読める字ではない。下に子どもの字で〈なおされた〉とある。その横に大人の千晴の字で〈ここから〉と書き足してあった。一冊目を見せられたとき、薫は自分の赤鉛筆の字を前にして居心地が悪くなった。町の誤植を写真で集めはじめたのは高校生になってからだ。
あの作文のどこを直したのか、薫はもう一つも思い出せない。覚えているのは千晴の泣き声だけだ。
千晴は持ってきたアルバムを開き、空いたページにプリントを貼りはじめた。余白にサインペンで書き添えていく。〈自転車、まかれる〉。〈ソのほうが甘そう〉。〈売るしかない〉。書くそばから字が右に傾いていく。
薫は〈甘そう〉の「甘」の横棒が一本多いことに気づいた。
薫が仕事で消している間違いを千晴は拾って集めている。ときどき自分でも作る。
「直したらつまらないでしょ」
薫が口を開く前に千晴はそう言った。何度も聞いた台詞だ。今夜のこの言い方まで薫には覚えがある気がする。
薫はテーブルの端のノートを引き寄せた。
20:14 既視感
「また書いてる。航海日誌」
千晴はこのノートをそう呼ぶ。中学に上がったころからだ。海の近くの祖母の家に船乗りだった祖父の航海日誌が残っていて、時刻と出来事を一行ずつ並べた書き方が薫のノートにそっくりなのだという。
「今のも?」
「今のも」
「じゃあ、わたしの冗談って、薫には全部二回目なんだ」
千晴は眉を下げてすぐに笑った。
「なら、二回とも笑ってよ」
薫は少し笑った。二回目でも、おかしいものはおかしい。
「お盆が明けたら旅行するの。また撮ってくるね」
千晴はアルバムを閉じて残りの麦茶を飲みほした。
帰りぎわ、千晴は袋に残っていた一枚を抜き出してテーブルに置いた。
「これは薫の分。焼き増ししといた」
薫の勤め先の駅貼りのポスターだった。〈夏の文庫フエア〉とある。
「フエア」
「ちょっと元気でしょ」
薫は額に手を当てた。宣伝部の誰が見落としたのか、月曜に確かめなければならない。
プリントを裏返すと、ボールペンで〈薫へ〉と書いてあった。「薫」の字の真ん中の「重」の横棒が一本足りない。千晴は昔から薫の名前をこう書く。
「足りない」
「通じるでしょ」
薫はボールペンを借りて横棒を一本足した。千晴は「はいはい」と言いながらそれを見ていた。直された字を見るときの千晴は、いつもどこかつまらなそうな顔をする。
千晴が帰ったあと、薫はそのプリントを本棚の辞書のあいだに挟んだ。足した横棒だけがほかの線より濃かった。
*
お盆休みに入る前の晩、部屋の電話が鳴った。千晴だった。
「時刻表、見てほしいの。今から来られる?」
「今から」
「薫に見てもらうと安心だから」
受話器の向こうで紙をめくる音がしている。薫は脱いだばかりの靴をもう一度履いた。千晴の部屋は歩いて十分のところにある。
着いてみると、相変わらず物が多い。本棚の一段は誤植コレクションのアルバムで埋まっていて、その横に分厚い時刻表の八月号が付箋だらけで寝かせてある。
千晴は薫を座らせると、冷蔵庫から麦茶を出してきてコップを二つ座卓に置いた。手書きの予定表と青春18きっぷは先に広げてある。きっぷは表紙の下に一日券が五枚ひと綴りになっている。
薫はそれを開いて挟んであった案内の紙を読んだ。使う日には窓口で乗車日を書いてもらうこと。特急と急行には乗れないこと。JRのほかの会社の線を通るときは別に運賃が要ること。
「それ、読む人いるんだ」
「いる」
「十八日に出て、三日間。東京から普通列車で下って、早浜ってところで支線に乗り換えて、終点まで行くの」
予定表の鉛筆の字はところどころ右に傾いている。薫は時刻表を借りて一行ずつ照らしていった。
本線の時刻は合っている。早浜に着くのは午後二時十分。そこまではいい。
支線のページを開いて薫は手を止めた。
千晴の予定表では早浜発が「14:15」になっている。五分の乗り換えだ。時刻表にもたしかに同じ時刻の列車が載っている。ただ、数字の横に小さな印がついていた。ページの下の注を見ると、休日だけ走る列車だとある。
「十八日は木曜」
「うん」
「この二時十五分のは、休日しか走らない」
千晴は時刻表をのぞきこみ、印と注を見比べた。
「ほんとだ。こんなの読まないよ、普通」
「読む」
次の列車は二時五十分だ。薫は千晴の鉛筆を借りて予定表の「14:15」に線を引き、横に「14:50」と書いた。
「早浜で四十分待つことになる」
「えー、四十分も」
千晴は予定表を引き寄せて薫の書いた数字をしばらく眺めていた。
「間違えたままのほうが、面白い旅になったかもよ」
「ホームで、来ない列車を待つことになる」
「それはそれで面白いじゃない」
千晴は笑って予定表を時刻表に戻しかけた。薫はその手を止めて、いちばん下の行を指さした。留崎の民宿の名前と電話番号が書いてある。
「これ、元は」
千晴は鞄から民宿の案内を探し出した。薫は二つの番号を一字ずつ指でたどって見比べた。最後の一桁が抜けている。
「一桁足りない」
千晴は鉛筆で数字を一つ書き足して、「また直された」と言った。
薫は黙ってうなずいた。間違いを一つ見つけて直すたびに、息がしやすくなる。
千晴は直された予定表を今度こそ時刻表に挟んだ。
薫はノートを出して時刻を書いた。
21:06 既視感
千晴は今夜は何も言わない。
「終点の留崎って町にね、字を彫り間違えたまま、二百年立ってる石があるの」
千晴は本棚から観光案内の小冊子を抜き出して、開いて見せた。小さな白黒の写真に苔のついた道しるべが写っている。下に〈あやまり石〉とある。
「江戸時代の道しるべで、行き先の地名が一字違ってるんだって。何度も彫り直そうって話になったけど、そのたびに、これで通じてきたからって残したの」
「彫り直せばいいのに」
「直さなかったから、二百年残ったんだよ」
千晴は写真を指先でたたいた。
「これを撮りに行くの。今回のいちばんの目当て」
薫は写真の下の説明を読んだ。どの字がどう違っているのかは書いていない。薫にはそれが気になる。
千晴は次に18きっぷの綴りを手に取った。
「五枚つづりで、三日しか使わないんだよね」
綴りの端の一枚をつまんで千晴は薫のほうへ向けた。
「一枚あげる。九月十日まで使えるから」
「仕事がある」
「土日に使えばいいじゃない」
「仕事がある」
「じゃあ預かっとく。気が変わったら言って」
千晴は綴りを表紙に挟みなおして予定表の上に置いた。
千晴は時刻表の前のほうの地図のページを開いた。半島の東の付け根に早浜の小さな駅名がある。細い線がそこから岬の先へ延びて留崎で止まっている。
「早浜って、駅の前がすぐ海なんだって。四十分あるなら、ちょっと足だけ入ってこようかな」
「お盆明けに?」
「そう。お盆過ぎたら海に入っちゃだめって、昔から言うでしょ。引っぱられるって」
「おばあちゃんが言ってた」
「毎年言ってたよね。お盆が明けると、帰っていく人たちが海を通るから、足を持ってかれるって」
祖母の家は海の近くにあった。子どものころ、お盆が明けて浜へ行こうとすると、二人は玄関でそう言われて止められた。千晴はそのたびに泣いて、薫は黙って靴を脱いだ。
千晴は肩をすくめた。
「でも、少しだけならいいよね。足だけだし」
「あれは、お盆を過ぎるとクラゲが増えるからだよ」
「出た」
「刺されると痛い。それだけの話」
「薫に言うと、怪談も理科になっちゃう」
千晴は笑って氷の溶けた麦茶に口をつけた。
薫も自分のコップを空けて腰を上げた。千晴はサンダルをつっかけて玄関の外までついてきた。
「お土産、何がいい?」
「いらない」
「じゃあ、誤植を買ってくる」
「売ってない」
「探す」
「あやまり石、薫の分も撮ってくるね」
「どの字が違うのか、見てきて」
「そこ?」
「そこ」
千晴は声を立てて笑った。
「わかった。ちゃんと読んでくる。薫の仕事みたいに、一字ずつ」
「ついでに、いつ彫られたのかも」
「はいはい。宿題が増えた」
千晴は片手を上げた。薫も同じようにしてアパートの外階段を降りた。下で振り返ると、廊下の明かりの中で千晴がまだ手を振っている。通りに出てからもう一度見上げると、暗い建物の並びのなかでその部屋の窓だけが明るい。
「九月十日だからね」
上から声が降ってきた。預かっておくと言った一枚のことだ。薫は返事をしないで片手だけ上げた。
帰り道、薫は街灯の下で立ち止まり、ノートを開いて今夜の時刻を確かめた。
21:06 既視感
21:31 既視感
21:48 既視感
いつもと同じだ。時刻表の印の話も、あやまり石の話も、クラゲの話も、前にどこかで聞いた気がする。
十八日の朝、千晴は早い普通列車で東京を出た。見送りには行かなかった。薫には仕事があった。
*
お盆が明けて最初の木曜日、校閲部の席は半分ほどしか埋まっていなかった。休みを延ばした人が何人かいて、部屋の奥の冷房の音がいつもより大きく聞こえる。
薫は文庫の初校を読んでいた。昼を過ぎてもノートには同じ言葉が並んでいく。
13:52 既視感
14:05 既視感
14:21 既視感
ゲラをめくる。次の行を読む。読んだことがある、と思う。二十九年、それが当たり前だった。
午後二時三十二分、薫は一つの行を読んで顔を上げた。
〈彼女はポケットの中で、切符の角を確かめた〉
知らない、と思った。
この行を、薫は知らない。前に読んだ気がしない。もう一度読んだ。やはり知らない。次の行に進む。それも知らない。その次も初めて読む文だった。
薫はゲラから目を離して部屋を見回した。村井が鉛筆の尻で額をかいている。デスクが受話器を肩に挟んで何か書き留めている。いつもの部屋の、いつもの午後だ。その光景を見たことがないと感じたのは生まれて初めてだった。
腕時計に目をやった。気づいたときにはノートにこう書いていた。
14:32 停止
なぜ「停止」なのか、薫は自分でもわからなかった。既視感が来ないのはこの数行のあいだだけかもしれない。それでもほかの言葉は浮かばなかった。薫はその二文字をしばらく眺めた。二十年以上つけてきたノートに初めて書いた言葉だ。
十分待った。何も来なかった。もう十分待った。廊下の足音も、村井の咳も、ゲラの次の行も、すべて初めてだ。
治ったのかもしれない、と薫は思った。
病院に電話をしようかと考えて、やめた。一日だけでは何もわからない。三日続いたら連絡しよう、と決めた。記録がそろうまでは結論を出さない。
それでも、その日の午後のゲラは軽かった。一行見終えるたびにもう済んだと思える。時刻を書き留める必要もない。薫は何度か意味もなくノートを開いては閉じた。「14:32 停止」のあとには何も続かない。
三時に村井がお茶をいれてくれた。湯呑みの縁が欠けているのに、薫は今になって気づいた。何年も同じものを使ってきたはずだ。閉めた窓の向こうを配達のバイクが走りすぎていく。ありふれた音の一つ一つが新しい。
手洗いに立ったとき、鏡の横の節水の貼り紙が目に入った。毎日見ていた文字が初めて読む文に見える。席に戻ってノートの前のページをめくってみた。既視感、既視感、既視感。二十年分の同じ言葉が急によその人がつけた記録に思えた。
薫は一人で少しだけ笑った。
千晴に知らせようかと思った。今ごろは留崎へ向かう支線の中にいるはずだ。宿に着くのは夕方になる。帰ってきたら話せばいい。あやまり石の写真を見せてもらうときについでに言えばいい。
既視感が止まったと言ったら、千晴は何と言うだろう。治ったらつまらない、と言うかもしれない。
「今日は書かないの?」
村井が湯呑みを持って薫のノートをのぞいた。
「止まりました」
「何が」
薫は答えようとしてうまく言葉にならないことに気づいた。
「たぶん、治りました」
村井は首をかしげて、それでも「よかったじゃない」と言った。その声さえ薫の耳には新しい。
夕方の五時を過ぎたころ、部屋の奥の電話が鳴った。デスクが受話器を取り、二言三言話してからこちらを見た。
「小野寺さん。お電話。警察から」
部屋が静かになった。私用の電話が校閲部に取り次がれることはめったにない。薫は立ち上がってデスクから受話器を受け取った。
「小野寺千晴さんのご家族の方ですか」
知らない男の声だ。
「千晴は、妹です」
相手は早浜という町を受け持つ警察署の者だと名乗った。その地名に薫は聞き覚えがない気がする。ややあって、千晴の予定表に書いてあった駅の名前だと思い出した。
「妹さんが今日の午後、早浜の海水浴場で沖に流されました。いま捜しています。まだ見つかっていません」
薫は受話器を耳に当てて自分の机のほうを見た。開いてあるノートに「14:32 停止」とある。
時刻は訊かなかった。思いつきもしなかった。
受話器の向こうで相手が何か話している。薫はノートの「停止」の二文字に目を据えて、「はい」と答えた。
*
その夜のうちに、薫は早浜へ向かった。新幹線から在来線に乗り継ぎ、駅に着いたのは夜の十時を回ったころだった。木造の小さな駅舎の前に警察の車が一台停まっている。
警察署では昼間の電話の男が同じことをもう一度話した。千晴は浜の北の端の遊泳区域の中にいたという。深さは膝から腰くらい。そこから沖へ運ばれて見えなくなった。漁協の船も出て、暗くなるまで捜した。明日も朝から捜す。
薫は話の区切りごとにうなずいた。訊いたのは一つだけだった。
「何時ですか」
男は手元の書類をめくった。
「監視員の方の話では、二時三十二分です。気づいたときに、腕時計を見たそうです」
薫は鞄からノートを出さなかった。開かなくても、あのページは目に浮かぶ。
男は透明な袋に入った紙を一枚、机に置いた。
「妹さんの鞄にあった予定表です。いちばん下に、お勤め先の番号が書いてありました」
千晴の鉛筆の字が右に傾いて並んでいる。民宿の番号の下に薫の勤め先の番号があった。その上のほうの行で「14:15」に線が引かれ、横に「14:50」と書いてある。薫の字だった。
その夜は駅の近くの民宿に泊まった。
部屋の灯りを消すと、窓の外で波の音がする。薫は暗いなかでその音を聞いていた。蚊取り線香の匂いも、宿の人が廊下をきしませて歩く足音も、薫は初めてのものとして受け取った。
二十九年、薫はこれを望んできた。どんなものにも一度目として出会うこと。病院に通い、ノートをつけ、治るものなら治したいと願ってきた。
その不具合が今日の午後二時三十二分に直った。
千晴がいなくなったのも同じ二時三十二分だった。
薫は枕元のノートに手を伸ばさなかった。開いても、書くことはない。
翌朝、薫は浜へ行った。駅を出ると、道の向こうがすぐ海だ。
弓なりの砂浜に海の家が二軒並んでいる。一軒はもう葦簀を外しはじめていた。もう一軒は店を開けているが、客はいない。店先に品書きの黒板が出ている。薫はその前を通ったが、字は読まなかった。浜の中ほどに監視のやぐらが立っていて、その下で年配の男が沖を見ていた。日に焼けた手首に古い腕時計がはまっている。
男は薫に気づくと、何も訊かずに帽子を取った。
「あそこです」
浜の北の端に漁港の防波堤が突き出している。男が指さしたのはそのつけ根のあたりだった。ほかの場所と変わらず、波が寄せては引いている。
「防波堤のわきは、沖だしが出るんです。見た目じゃわからない。足のつくところでも、持っていかれる」
男は腕時計に目を落とした。
「手を振って呼んでるのに気づいて、時計を見て、すぐに出ました。届かなかった」
薫は頭を下げた。何に礼を言っているのか、自分でもわからない。
「お盆を過ぎたら、ここらの者は海に入らないんです」
男は沖から目を離さずに言った。
「昔からそう言うんです。迷信ですよ。泳ぎに来た人にまで言うことじゃない」
お盆過ぎたら海に入っちゃだめって、昔から言うでしょ。あの晩、千晴はそう言った。薫はクラゲが増えるからだと答えた。それで済ませた。
駅へ戻る道で薫はノートを開き、時刻を順に書き並べた。
14:10 早浜着
14:32
14:50 支線発
真ん中の行には時刻のほかに何も書けなかった。四十分の待ち時間のなかほどにあたる。
その四十分を作ったのは、薫だった。
千晴の予定表にあった二時十五分の列車は休日しか走らない。直さずにおけば、千晴はホームで待ちぼうけになっていたはずだ。
「間違えたままのほうが、面白い旅になったかもよ」
予定表を直したとき、千晴はそう言って笑った。
自分が直したもののせいだ、と薫は思った。ほかに筋の通る説明は見つからない。
駅に着くと、薫は改札の横に貼られた時刻表を見上げた。支線の欄の「14」の段に「15」と「50」が並んでいる。「15」の横に小さな印がついていて、下に「休日運転」とある。
直したことは、正しかった。
薫はしばらくその二つの数字の前に立っていた。
翌日も、その次の日も、薫は浜で漁協の船が出入りするのを見ていた。
その間の午後に一度、薫は駅へ行き、支線の乗り場に立った。本線のホームの端から細い通路を渡った先に二両だけの列車が止まっている。行き先の札には「留崎」とある。
大きなリュックを背負った学生が一人、改札で切符を差し出していた。表紙のついた綴りから切り離した一日券に駅員が日付の印を押す。千晴が持っていたのと同じ券だ。学生は礼を言って二両目に乗りこんだ。リュックの脇で使い捨てカメラが揺れている。
発車のベルが鳴ったとき、ホームの時計は午後二時五十分を指していた。
乗ろうと思えば乗れた。財布にはここまで来た切符の控えといくらかの金がある。薫は乗らなかった。捜索の船が戻ってくるのを浜で待たなければならない。
列車は動きだし、海沿いのカーブをゆっくり曲がっていった。十八日に乗るはずだった一本だ。あの晩、時刻表の地図の細い線を千晴は指でたどっていた。その線の上をいま二両の列車が走っていく。終点の町の道ばたには、字を彫り間違えたままの石が今日も立っている。千晴はそれを見ることなく、いなくなった。
どの字が違うのか、見てきて。玄関の外で薫はそう頼んだ。千晴は一字ずつ読んでくると言った。
線路が岬の陰に入り、車輪の音が聞こえなくなっても、薫はしばらくホームを離れなかった。
捜索に出る船は三日目から減っていく。薫はいったん東京へ帰った。
雨が降っている。八月に入ってから初めて、涼しいと思う日だった。
その朝も既視感は来なかった。ノートの既視感の列は「14:32 停止」で終わっている。三日続いたら病院に電話をすると決めていた。薫は受話器を取らなかった。
郵便受けに絵はがきが一枚入っていた。
絵の面は早浜の海岸を写した写真だ。宛名の面に千晴の字で〈小野寺薫様〉とある。「薫」の真ん中の横棒が一本足りない。五十円の切手が斜めに貼ってあり、丸い消印には局名と「6.8.18」、その下に「12-18」とあった。
文面は三行だった。
〈早浜着。駅の前がほんとに海。
浜の店の品書きに「ところでん」ってある。あとで撮る。
あやまり石は、あした〉
薫はペン立てに手を伸ばした。横棒を一本足すのはいつものことだ。
ペンを握り、しばらく宛名を見ていた。やがて元の場所に戻した。
ママ、と薫は思った。このままでいい。
週が明けて薫は会社に出た。
村井は何も訊かない。朝いちばんに薫の机に湯呑みを一つ置いていった。
ゲラに向かった。一行読むと、それはもう済んだものとして手元に残る。疑う理由はどこにもない。それでも薫は、一枚終えるたびにノートに時刻を書いた。
10:42 p.12 了
その横に並ぶはずの言葉はもう来ない。二十年以上、二列で続いてきたノートが一列になった。
しばらくして、警察が千晴の死亡を確実と判断し、役所に報告したと知らされた。浜で見ていた監視員の話がその裏づけになったという。千晴の戸籍に死亡と記された。
役所で取った書類にはその日付と場所が書いてある。平成六年八月十八日。薫は一字ずつ追って読んだ。誤りはなかった。
記憶は間違える。記録は間違えない。そう言い続けてきた薫のところに、千晴の死は記録の形で届いた。遺体はどこからも上がらなかった。
見送りは小さかった。棺はなかった。祭壇には千晴の写真と誤植コレクションのアルバムが一冊置かれている。集まった人たちはアルバムをめくっては、ときどき声を殺して笑う。千晴の書き添えた一言がおかしいからだ。
薫も一枚ずつめくった。終わりのほうのページに見覚えのある字の写真があった。千晴の字で書かれた「薫」の真ん中の一本だけが濃い。薫が足した横棒だった。千晴がいつ撮ったのか、薫は知らない。写真の下に〈直された〉とだけ書いてある。
浜に置かれていた鞄はそのあと警察から戻ってきた。
中には使い捨てカメラと、薫の直した予定表を挟んだ時刻表と、青春18きっぷの綴りがあった。十八日の一日券には日付の印が押されている。残りの四枚はまだ使われていない。そのうちの一枚を千晴は「預かっとく」と言ったのだった。期限は九月十日。薫は綴りを表紙ごと自分のノートに挟んだ。
カメラは駅前の写真屋に出した。
「通常の仕上げだと三日ですが」
「スピードで」
口に出してから、千晴の言い方だと気づいた。
一時間、店の前の長椅子で待った。
仕上がった写真は東京駅のホームから始まっている。乗り換えの駅の行き先表示。車内の吊り広告の一字だけ大きい活字。千晴は一日で十枚以上撮っていた。
最後の一枚は海の家の品書きだった。
〈冷やし ところでん〉
家に帰って薫は千晴の部屋から引き取ってきたアルバムを開いた。祭壇に置いたのとは別の五冊目だった。空いたページの手前までプリントが貼ってある。どの写真の下にも千晴の字で一言が添えてあった。〈自転車、まかれる〉。〈売るしかない〉。〈ソのほうが甘そう〉。「甘」の横棒はやはり一本多かった。
前のページをめくった。路面に書かれた〈止まれ〉が〈止まね〉になっている写真があった。下に〈止まらないかも〉とある。郵便受けの〈郵使〉。古本屋の値札の〈全三巻揃い 二冊〉。
薫が仕事で消してきた種類の間違いばかりが、楽しそうに並んでいる。
薫は最後の一枚を空いたページに貼った。下の余白には何も書かなかった。
*
昼の十二時を少し過ぎたころ、いつものそば屋のカウンターに座る。
壁の品書きは見ない。頼むものは決まっている。かけそばが出てくると、カウンターの端の器からネギをすくい、いつものように多めに載せる。
「今日も山盛りですね」
店の人が笑う。
「ネギがないと、そばじゃないんで」
箸を割って左手でスマートフォンを出す。午前の会議が延びたせいで、通知がたまっている。午後の打ち合わせの時間の変更。宅配便の不在の知らせ。上司から〈午後イチの件、資料まだ?〉。計算のアプリの通知も一つ。
〈史実との不一致が1件あります。詳細を確認しますか?〉
ゆうべ寝る前にふと思いついて頼んだ計算だ。動かしていたこともほとんど忘れていた。
詳細は開かない。通知を横に払って消したが、アプリの角に赤い印が残った。そばが伸びる。赤い印も気になる。
〈なんかエラー出てるから消しといて〉
親指で打って送ると、返事はすぐに来る。
〈承知しました。不一致の原因は特定できませんでした。不一致が出ている箇所を史実に合わせて修正し、同じ条件で最初から再実行します。完了したらお知らせします。〉
スマートフォンを伏せてそばをすする。ネギの辛みが汁の甘さによく合う。
上司には〈すみません、一時までに送ります〉と返した。
汁を半分ほど飲んだところで、伏せた画面のふちが光る。
〈再実行が完了しました。1994年8月18日14時32分の不一致を修正しました。史実との不一致は0件です。〉
どこの何の話なのかは読まない。日付も時刻も目に入っただけだ。赤い印は消えている。
〈おっけー〉
打ち返してそばを食べ終える。どんぶりの底にネギが何切れか残っている。
「ごちそうさまでした」
「また明日」
店の人に見送られて外に出た。
昼休みはあと十五分ある。午後の資料はまだ手つかずだ。会社へ戻る道で信号を待ちながらスマートフォンを開き、一枚目を作りはじめた。見出しを入れ、数字を二つ書いたところで、後ろの人に肩を軽くたたかれた。信号はとっくに青になっている。
小走りで横断歩道を渡った。エレベーターの中で残りを打ち、一時の二分前に送った。上司からは〈了解〉とだけ返ってくる。
「お昼、またそば?」
席に戻ると、隣の同僚が訊いてきた。
「ネギが食べたくて」
「ネギが主役なんだ」
同僚は笑って画面に向きなおる。
ゆうべ頼んだ計算のことはもう頭になかった。




