14:32 イキ
十二月十七日の土曜日、薫は夜が明ける前に目を覚ました。
部屋はまだ暗い。電気スタンドをつけて湯を沸かす。机の上ではゆうべのノートが開いている。その横に紀行文の見本が閉じて置いてある。最後の章に一行はもうない。
頁には名前が並んでいる。薫、村井、早浜の男、留崎のおかみ。見本の一行を覚えている作家。画家の妹の日記を書き換えられた、評伝の作者。切り抜きの日付が一日ずれた隣の席の後輩。
七つの名前の下に、薫は自分のしたことを書き出した。
作家の字をまねた。赤で書いた。答えの形で書いた。一人で書いた。
並べてみると、どれも校閲者のすることではない。
入社した年に村井から教わった。「赤字は作者の字で、わたしたちのは鉛筆」。ゲラに書いていいのは疑問だけで、答えを書くのは向こうだ。答えを書いた紙はもう疑問とは呼べない。
十六日の朝、一行は見本から消えた。食い違っていたほかの記録もまとめて控えのほうへそろえられた。依頼主は一行を読んだうえで控えに合わせると決めた。薫はそう考えている。
ゲラでも同じだ。答えの形で書いた赤字は、作者が残すか消すかを決めて、それで終わる。疑問は違う。疑問は答えを求めて、答えが来るまで余白に残る。
思い返すと、薫はいつも答えを書いてきた。
千晴が小学三年生のとき、夏休みの作文に赤鉛筆で十いくつ直しを入れた。八月のはじめには千晴の予定表の「14:15」に線を引いて「14:50」と書いた。十二月五日の夜には作家の本に一行を足した。どの直しも正しかったか、正しいつもりでいた。千晴にも作家にも訊いたことは一度もない。
ゲラの余白に校閲者が書いていいのは鉛筆の字だけだ。消しゴムで消せる字で、問いの形で、短く書く。疑問は短いほど読まれる。
もう一つある。一人では出さない。
ゆうべの忘年会で村井は二十年近く前の話をした。どうしても答えない作者がいて、部の五人で同じ頁に同じ疑問を書いた。字の違う鉛筆が五つ並んだら、六度目にやっと〈ご指摘のとおり〉と返ってきた。帰りの改札の前で村井は手袋をはめながら言った。「次に出すときは、わたしにも言いなさい。鉛筆なら貸すから」
あのとき薫は返事ができなかった。人に言えば千晴のことを話すことになる。話せば正気を疑われるかもしれない。二十九年分の既視感を薫は誰にも話さずに来た。
窓の外が白んでくる。薫はノートの表紙の内側から写真を抜いた。防波堤のしぶきが宙で止まり、いちばん下の段に人影が三つ写っている。この写真は依頼主のところへ届いた。届いたから、子どもは残された。
届く道はまだある。
九時を待って村井の家に電話をかけた。
「あら、小野寺さん。ゆうべはちゃんと帰れた?」
「はい。今日、少しお時間をいただけませんか。お話ししたいことがあります」
受話器の向こうで村井は少し黙った。
「疑問の話ね」
「はい」
「じゃあ二時に会社の近くの喫茶店で。土曜も開いてるところ、わかるでしょう」
電話を切ってから、薫はノートに時刻を書いた。
09:04 村井 電話
*
喫茶店は会社から角を二つ曲がったところにある。土曜の午後は客がまばらだ。奥の席で村井がコーヒーを前に待っていた。
「先に頼んじゃった。あなたも何か頼みなさい」
薫は紅茶を頼んでノートを机に出した。
話す順番は朝のうちに決めてあった。
二十九年分の既視感のこと。八月十八日の午後二時三十二分にそれが止まったこと。十一月のある夜に千晴のアルバムの白い余白に千晴の字が増えていたこと。民宿の宿帳と漁協の日誌の行。この世界は二度目に組まれた再校で、一度目の初校では海が止まり、千晴は岸へ戻れた。誰かがそれを直した。
直した誰かを、薫は依頼主と呼んだ。直しを頼んだ人で、この世界の作者にあたる。ほかに呼び方を知らない。
見本の一行のことも話した。作家の字をまねて赤いボールペンで書いた。
村井は一度も口をはさまなかった。途中でカップを受け皿に置き、それきり手に取らずにいる。
薫は写しの頁を開いて村井の前に置いた。「入れる」で終わる行が並んでいる。村井は一行ずつ指で追った。赤字を照らすときの指の運びだ。ところでんの行で指が止まった。
「余白の字は、妹さんの字だったの」
「はい。右へ傾いていて、宛名の薫の横棒が一本足りませんでした。まねる人ならまず正しく書きます」
「そうね。誤字は、まねるほうがむずかしい」
村井は最後の行まで読んで顔を上げた。
「妹さん、どんな人だったの」
「町の誤植を写真に撮って集めていました。アルバムが五冊あります」
村井は声を立てて笑った。
「わたしと気が合いそう。わたしたちが消すのを、拾って歩く人ね」
村井はノートを閉じて薫のほうへ押し返した。
「見本の一行と同じことが書いてある。八月十八日、午後二時三十二分。わたしも読んだもの」
少し笑っている。
「鉛筆なら貸すって言ったでしょう」
信じるんですか、と訊きかけて薫はやめた。村井は信じるとも信じないとも言っていない。読んだものを読んだと言っただけだ。校閲者はそれより先のことを口にしない。
「それで、依頼主さんは読んだうえで退けた、と思ってるのね」
「一行を消して、ほかの食い違いもまとめてそろえました。控えに合わせる、という答えです」
村井は首を横に振った。
「その依頼主さん、読んでないわね」
「どうして、そう思うんですか」
「読んでたら、画家の妹さんの日記まで書き換えたりしない」
村井はスプーンでカップの縁を軽くたたいた。
「二十年、そういう作者を見てきたの。疑問を束で返すとね、一枚も読まずにママ、ママ、ママって書いてくる先生がいる。読んでないからどの疑問にも同じ答えが付くのよ」
評伝のファクスの字が浮かんだ。〈二十の春、兄は東京へ発つ〉。画家の上京を妹がその日のうちに記した一行だ。細く少し震えたその字まで書き換える依頼主が一字ずつ読んでいたとは考えにくい。
あの一行は読まれていなかった。ほかの食い違いと一緒に、束ごと片づけられた。
「読まない先生には、どうするんですか」
「読ませるのよ。短く、目につくように。同じ疑問を違う字でいくつも出すの」
薫は防波堤の写真を出して村井に見せた。
「依頼主が目にするのは、ある子が撮った写真です。これもその子が撮りました。駅の伝言板を黒板ごと一枚に撮るのを二度見ています」
「伝言板って、駅の?」
「白墨で書きます。夕方には駅員が消します」
「鉛筆と同じね。消せる字」
村井は鞄から手帳を出した。
「文面はどうするの」
「イキに、疑問の印を付けます」
「イキを訊くなら、それしかないわね。短いのもいい。長い疑問は読まれないから」
場所は早浜の駅にした。あの子は三人の記録を確かめに早浜へ来る。十二月三日にも防波堤にいた。日はあしたの十八日。千晴の月命日で、時刻は午後二時三十二分にする。
「十人、集めましょう」
村井は手帳に書きつけながら言った。
「部の二人と隣の席の子には、わたしが声をかける。あなたは早浜と留崎ね」
手帳の頁には〈12/19 早浜 14:32〉とある。
「十八日です」
「あら」
村井は笑って数字を直した。
「仕事の外だと、日付をよく一日まちがえるの。仕事で一生分そろえたからね」
入り口の脇にピンクの電話がある。薫は十円玉を積んで留崎の民宿にかけた。おかみは話を半分も聞かないうちに行きますと言った。
「石屋さんも誘います。謝る相手が一人増えたって、毎朝石の前で言ってますから」
続けて早浜の漁協の小屋にかけると、男が出た。
「あの子も連れていきます。字を書くのが好きなんですよ。半分は読めないけど」
席に戻ると、村井はもう手帳を閉じていた。冷めたコーヒーを一口で飲みほす。
「わたしたちのは鉛筆。白墨も、まあ鉛筆のうちね」
*
十二月十八日の日曜日、薫たちは朝の列車で東京を出た。
校閲部から来たのは五人だ。薫と村井と、村井と同じころに入った部の二人。隣の席の後輩は切り抜きの日付の話をしたがったが、村井に「あとでね」と止められた。部の二人は向かいの席で編みかけの毛糸を出して二駅ごとに目を数えている。村井は窓に頭をあずけて眠っていた。
半島に入ると窓の外に冬の海が見えてくる。夏とは色が違う。灰色の波が白い筋を引いて浜へ寄せている。
早浜の駅に着いたのは午後二時を少し過ぎたころだった。
改札の横に伝言板がある。九月から何度もこの駅を通ったのに、薫は一度も目を留めたことがなかった。黒板の上の縁に〈伝言板〉の札があり、わきに貼り紙がある。〈伝言は夕方に消します 早浜駅〉。黒板には白墨の字が一つだけ残っていた。〈マサへ 先にバスで帰る 13:05〉。
漁協の男が子どもと母親を連れてきた。子どもは薫を見ると母親の後ろに隠れ、すぐに顔を出した。
「防波堤の人だ」
母親が頭を下げた。十月二日に浜で子どもを抱きしめていた人だ。
「この子、あの日のことをときどき話すんです。海が止まって、大人が二人で引っぱってくれたって」
薫は返事に迷い、頭だけ下げた。
支線の列車で、留崎のおかみと石屋の人が着いた。石屋の人は毛糸の手袋をはずして薫に小さく頭を下げる。おかみは薫の手を両手で包んだ。
「妹さん、うちの二階に泊まるはずだったんですよね。港の見える部屋」
「はい」
「今日は、そのぶんも書かせてください」
これで十人になる。
村井が鞄から白墨の箱を出した。会社の会議室の黒板の下から一箱もらってきたという。一本ずつ配っていく。
「鉛筆の代わり。返さなくていいわよ」
男が腕時計に目を落とした。十月にも見た古い時計で、秒針が文字盤の上を進んでいく。
「二時三十二分です」
薫は黒板の前に立った。
「イキは一度消した行を元に戻すときの印です。書けるのは作者だけなので、こちらからは訊くことしかできません。戻してもらえませんか、と」
子どもが母親の袖を引いた。
「イキって、なに」
薫はしゃがんで子どもと目の高さを合わせた。
「消したのを、元に戻してくださいっていうこと」
「じゃあ、書く」
最初に書いたのは石屋の人だった。白墨を握り、一画ずつ彫るように書く。〈イキ?〉。書き終えると黒板に向かって深く頭を下げた。
「謝るのは慣れてますけど、お願いするのは初めてです」
石屋の人はそう言って、白墨の粉のついた指を見ていた。
おかみの字は小さくて丸い。男の字は日誌と同じ四角い大きな字だ。部の二人は並んで書き、二つの〈キ〉の傾きがそろわない。後輩の字は細く、少し左へ寄っている。
子どもは母親に抱き上げられて黒板のいちばん上に大きく書いた。〈イキ〉の横の〈?〉が裏返っている。母親が消して書き直させようとすると、男が止めた。
「そのままで、いいんです」
母親は少し迷ってから、自分も一つ書いた。
村井は黒板の右下に書いた。部の誰よりも端正な〈イキ?〉だ。書き終えると少し考え、下に小さく一行を足した。
〈読んでから答えること〉
その横に日付を添える。〈12/19〉。
「読まない先生には、これ」
今日は十八日だ。村井のいつもの癖が出ている。薫は白墨を持ち直して黒板に近づいた。一本線を引いて書き直せば済む。
薫は白墨を下ろした。読んだうえでのママだ。
人の書いた字に自分の字を足すのは、十二月五日の夜で終わりにする。
最後に薫は真ん中の空いたところに書いた。ゲラの余白に疑問を出すときと同じ大きさの、目立たない〈イキ?〉だった。
黒板に十の〈イキ?〉が並んでいる。大きさも傾きもばらばらで、一つは〈?〉が裏返っている。
改札の向こうで列車の着く音がした。降りてきた客の中に紺のセーラー服がある。
来るかどうかは、薫にもわからなかった。
ようこは改札を抜けると、まっすぐ伝言板の前へ来た。集まった人たちには目を向けない。
「こんにちは。寒くなりましたね」
「これを、撮ってもらえますか」
「承知しました」
ようこはカメラを構え、黒板を一枚に収めた。シャッターの音がして巻き上げのモーターが短く鳴る。裏ぶたの小窓に細い数字で〈'94 12 18〉と出ている。
ようこはしばらく黒板を見ていた。
「この黒板には、照らし合わせる控えがありません」
「知ってる。だから直されない」
「はい。直す対象にはなりません」
「でも、届くよね」
「撮ったものは、ご依頼主さまのお手もとに届きます」
ようこはカメラを胸の前に下ろした。
「ほかにお手伝いできることはありますか」
「ない。ありがとう」
ようこは少し首をかしげた。礼を言われたときの返事を探しているように見えた。
「どういたしまして」
一礼して改札を戻っていく。揺れのない背中がホームの人波にまぎれた。
「あの子は?」
村井が訊いた。
「依頼主の目です」
村井はそれ以上何も訊かなかった。
おかみと石屋の人は二時五十分の支線で留崎へ帰っていった。男は子どもと母親を送って浜のほうへ歩いていく。部の三人は三時すぎの列車だ。
薫と村井は待合室のベンチに残った。ストーブの上でやかんが鳴っている。
四時半を回ったころ、駅員が黒板消しを持って出てきた。〈イキ?〉の並びを見て少し首をかしげ、上から順に消していく。裏返った〈?〉が消え、四角い大きな字が消え、〈読んでから答えること〉が消えた。黒板は灰色に戻った。
「出さない疑問は、ないのと同じ」
村井がベンチから立ち上がった。
「出した疑問は、消えてもあるのよ」
*
次の日から、何も起きなかった。
十九日の朝、村井はいつものように薫の机に湯呑みを置いた。伝言板の話はしない。
年末進行で校閲部には毎日ゲラが積み上がる。薫は一枚終えるたびにノートに時刻を書いた。朝は見本の最後の章を開く。早浜の段落は〈夏の終わりには海水浴客もまばらになる〉で終わっている。夜は五冊目のアルバムの最後のページを開く。余白は白い。
ゲラの疑問なら、答えが返ってくるまでに一週間はかかる。薫は何度もそう考え直した。
二十三日の祝日も薫は部屋でゲラを読んで過ごした。夕方に一度だけ窓を開けた。どこかの家で子どもがクリスマスの歌を練習している。同じところで何度もつかえて、そのたびに頭から歌い直していた。
二十八日は仕事納めだった。午前中に机のまわりを片づけ、午後は部の大掃除になる。後輩が窓を拭きながら切り抜きの日付はやっぱり一日ずれていると言った。夕方、部長が一年の礼を短く述べて部は早めに解散した。
帰りぎわ、村井が薫の机の横で手袋をはめた。
「返事、来た?」
「まだです」
「年内に答えてくれる依頼主さんだといいわね」
二十九日の朝、薫は見本を開いた。
〈その年の八月十八日、午後二時三十二分に、早浜の海は一度止まったという〉
三十四字。前後の行と同じ書体で、段落の終わりに刷られている。
薫はノートの写しの頁を開き、一つずつ照らしていった。赤字の照合と同じ手順だ。
五冊目のアルバムの最後のページ。ところでんの下の余白に、右へ傾く字が戻っている。〈ところ「で」ん。このあと四十分ひまで海に入ったら、流された。海が一回止まって、戻れた。ほんと〉
台紙の残りには写真が三枚。〈伊努道〉の石と〈本物!〉。窓から見下ろした港と〈薫も泊まるべき〉。石の横にしゃがんで笑う千晴と〈石屋さんに撮ってもらった。謝られた〉。
ネガを電気スタンドにかざす。ところでんの隣から先のコマに像が戻っている。引き出しから焼き増しを出した。真っ黒だった印画紙に、葦簀をかけた海の家が写っている。
確かめるたびに、薫は写しの行の横に時刻を書いた。
09:12 見本 最後の章 一行 了
09:31 五冊目 最後のページ 了
昼すぎに村井から電話があった。
「年末なのに評伝の担当から家に電話があったの。先生のところの日記の写し、十九の春に戻ってるって。先生、電話口で泣いてたそうよ」
村井は少し間をおいた。
「依頼主さんが、答えたのね」
「はい」
夕方には早浜の男からも電話が来た。日誌の行の終わりに〈流れ止まる 自力で戻る〉が戻ったという。
薫は戻ったものを一つずつ並べた。どれも十六日の朝にそろえられたものだ。それより前に消えたものは戻っていない。
赤字の上に赤字が重なっていれば、取り消すときは新しいほうから順になる。依頼主の答えで消えたのは、いちばん上の十二月の直しだけだった。八月十八日の直しはその下にある。
千晴は戻らない。
その晩、薫はノートの前のほうの頁を開いた。既視感の列は「14:32 停止」で終わっている。その下は四か月、白い。
三十日も、何も起きなかった。
*
十二月三十一日の土曜日は朝から晴れていた。
薫は午前中に部屋の掃除をすませ、昼は残りものを食べた。仕事納めのあとは机に向かってもゲラがない。手持ちぶさたで本棚に並んだ五冊のアルバムの背を眺める。
去年の大晦日は千晴がここへ来た。ネギを一束さげてきて、自分のそばに山ほど載せた。そばが見えないと言ったら、ネギがないとそばじゃないと言い返された。
今年はそばを買っていない。
戸がたたかれた。
机の時計は午後二時四十五分を指している。時刻を見る癖は二十九年抜けない。
この部屋には呼び鈴がある。たいていの客はそれを押す。戸をたたくのは一人しか知らない。
戸を開けた。
千晴が立っていた。
半袖のTシャツの上に薫の知らない灰色のカーディガンを羽織っている。足はサンダルだ。手首には海でも外さない黒い時計がある。寒そうに腕をさすりながら、千晴は首をかしげた。
「なんか、すごく寝てた気がする。今日、何日?」
薫は戸の取っ手をつかんで立っていた。声が出ない。
顔を見る。目の形。笑うと片方だけ上がる口の端。耳たぶの小さなほくろ。一つずつ突き合わせる。どれも合っている。それがまだ信じられない。
「十二月三十一日」
「うそ」
千晴は笑いかけて薫の顔を見てやめた。
「ほんとに? 八月じゃないの」
薫はうなずいて千晴を部屋に入れた。ストーブをつけ、毛布を肩にかけてやる。湯を沸かそうとして急須の蓋を二度落とした。
千晴は毛布にくるまって部屋を見回している。
「外階段で目が覚めたの。時計を見たら日付が十二月三十一日になってて、壊れたんだと思った。鍵も合わないし、よく見たら表札が知らない名前で。寒いし、サンダルだし。とりあえず薫のとこなら開いてるかなって」
薫は急須を置いた。
「目が覚めたのは、何時」
「二時三十二分。デジタルの時計だから、そこは見まちがえてない」
「歩いてきたの」
「商店街を抜けてきた。しめ飾りが出てて、八百屋さんが年越しそばの札を出してて。変だなとは思ったんだけど」
「そのカーディガンは」
「これ? 民宿のおかみさんがくれたの。夜は冷えるからって」
薫の知らない夏の夜に、おかみはこれを千晴の肩にかけたのだ。
千晴は本棚の前で目を止めた。
「わたしのアルバム、なんで薫のところにあるの」
薫は答えられずにお茶を出した。千晴は湯呑みを両手で包み、ひと口飲んで息をついた。
「四か月って、わたし、どこにいたんだろ」
「あとで話す」
「出た。薫の、あとで」
千晴は湯呑みを置いて身を乗り出した。
「でもね、留崎はよかったよ。前にも言ったけどさ」
薫は黙って聞いた。
「早浜で四十分ひまで、海に入ったの。そしたら流されて。海が一回止まって、戻れたの」
次の一言を薫は知っている。
この一言をこの順番で前にも聞いている。千晴は少しむきになった顔で薫を見て、言う。
「ほんと」
八月十八日の午後二時三十二分から途絶えていたものが、今ここにある。読んだことのある行だ。二十九年、頭の不具合だと思って書き留めてきたものが千晴の声と一緒に戻ってくる。
「知ってる」
薫が言うと、千晴は目を丸くした。
「信じるの? 薫が? 八月は、海は止まらないって言ったくせに」
薫には言った覚えがない。初校のどこかで、薫はこの部屋で同じ話を聞いたのだろう。そのときの薫は信じなかった。だから千晴はアルバムの余白に〈ほんと〉と書き足したのだ。
「今は、知ってる」
千晴はしばらく薫の顔を見ていた。やがて毛布の中で肩をすくめた。
「なんか薫、変わったね」
「そうかもしれない」
「十八きっぷ、余ってたでしょ。あれ、どうした」
「九月十日に使った。留崎まで」
千晴は毛布から身を乗り出した。
「行ったんだ。石、見た?」
「見た。伊努道」
「でしょ」
千晴は満足そうに笑った。そのあとで急に真顔になり、おなかを押さえる。
「おなかすいた。今日、大晦日なんでしょ。おそば、ある?」
「買ってない」
「なんで」
薫は答えられなかった。千晴のいない大晦日に、そばを買う理由が思いつかなかった。
薫は机に戻ってノートを開いた。
確かめたことを書く列の、いちばん新しい行の下に時刻を入れる。戸がたたかれたのは午後二時四十五分だった。もとの部屋からここまでは歩いて十分かかる。鍵を試して表札を読んでいた分を足せば、二時三十二分になる。千晴の腕時計を机の時計と並べると、一分も違わない。
14:32 イキ
前のほうの頁に戻った。既視感の列は「14:32 停止」で終わっている。その下に、四か月ぶりに一行を足した。
14:54 既視感
鉛筆を置くと千晴が肩ごしにのぞきこんでいた。
「航海日誌、まだつけてるんだ」
「つけてる」
「何が、イキなの」
薫は答えずにノートを閉じた。千晴は笑った。
「また言わないやつだ」
*
日が暮れる前に薫は商店街までそばとネギを買いに出た。
八百屋の前には年越しの買い物の人が並んでいる。店先の籠で泥のついた長ネギが束になっている。薫は二束買った。
帰り道の電話ボックスで村井の家に電話をかけた。
「妹が、戻りました」
受話器の向こうで村井はしばらく何も言わなかった。
「そう。依頼主さん、ちゃんと読んだのね」
「はい」
村井は戻ったわけを訊かなかった。
「じゃあ、今夜は妹さんと年越しね。よいお年を」
電話はそれで切れた。
部屋に戻ると千晴は机の引き出しを開けていた。
「はがき、ある? 年賀状、書きたい」
引き出しのいちばん上に十一月に刷った喪中はがきの残りが重ねてある。千晴は一枚を手に取って読んだ。
〈喪中につき年頭のご挨拶をご遠慮申し上げます 八月に妹千晴が二十四歳で永眠いたしました〉
千晴は長いあいだその一枚を見ていた。
「わたし、死んだの?」
薫はネギの束を流しに置いて千晴の前に座った。知っていることを順に話した。八月十八日の午後二時三十二分。早浜の浜。捜索の船。警察が死亡を確実と判断して役所に報告したこと。戸籍に死亡と記されたこと。新聞の小さな記事。棺のない見送り。
「お葬式、誰か来てくれた?」
「来た。祭壇のアルバムをめくって、みんな声を殺して笑ってた」
「なにそれ。いいお葬式」
千晴は喪中はがきをもう一度読んだ。妹、千晴、二十四歳。刷られた字に誤りはない。
「わたし、誤植になっちゃった」
千晴は笑った。泣いているようにも見えた。
記憶は間違える。記録は間違えない。薫はずっとそう言ってきた。今夜、戸籍の記録は間違っている。その記録のすぐそばで千晴が笑っている。
年が明ければ役所は四日に開く。生きている本人が届け出れば、記録は直せるかもしれない。正しい記録は薫がずっと守ってきたものだ。記録の上で死んでいては千晴は部屋も借りられない。
それでも今夜は、正しい字を入れに行く気になれなかった。
薫は喪中はがきを千晴の手から抜き取らなかった。
「年が明けたら、役所に行こう」
「うん」
「今夜は、ママでいい」
「ママって?」
「直さなくていい、っていう印」
千晴はしばらく考えてから笑った。
「直さなかったから、二百年残ったんだよ」
「千晴が言った」
「言った言った」
薫は引き出しの奥から官製はがきを一枚出して渡した。千晴は机に向かってペンを走らせた。
〈あけましておめでとう 今年もよろしく 薫へ〉
「薫」の真ん中の横棒が一本足りない。
薫はその字を見て何も言わなかった。
「喪中の人に年賀状って、出していいんだっけ」
「誤植なのは喪中のほう。千晴はここにいるんだから」
「そっか」
千晴は笑ってはがきを薫に手渡した。郵便で出せば届くのは年が明けてからになる。手渡しなら今夜のうちに届く。
薫ははがきをノートの表紙の内側に挟んだ。八月に届いた絵はがきの隣だ。横棒の足りない「薫」が二つ並んだ。
「で、四か月のこと。あとで話すって言ったよね」
薫は鍋に水を張りながら伝言板のことを話した。十八日に早浜の駅に十人が集まって、黒板に同じ字を書いた。
「なんて書いたの」
「イキ、に疑問の印」
「薫が、人に頼んだの?」
千晴は目を丸くした。
「なんでも一人で直す人だったのに」
「一人じゃ、通らなかった」
薫は鍋を火にかけた。
「子どもが一人いて、〈?〉を裏返しに書いた」
「うそ。撮りたかった」
「撮った子がいる」
「その写真、わたしにもちょうだい」
千晴は本気でくやしそうな顔をした。町の誤植を五冊集めた人の顔だ。
鍋に湯が沸いた。千晴はネギを刻むと言って譲らず、まな板の上に小山を作った。そばをゆでてどんぶりに分ける。千晴はその小山を自分のどんぶりにそっくり移した。そばが見えなくなる。
「載せすぎ」
「ネギがないと、そばじゃないでしょ」
去年と同じことを言って千晴は熱いつゆをすすった。
除夜の鐘はまだ鳴らない。窓の外を近所の子どもが走っていく。
*
祖母の家は、年が明けたら手放すことになった。
母と二人で年末の三日間を片づけにあてる。駅前の商店街は祖母が亡くなる前よりさらにシャッターが増えていた。玄関を開けると、しまいこまれていた家のにおいがする。廊下の板は冷たく、靴下ごしに足の裏が縮む。
台所の壁にはまだ日めくりが掛かっている。いちばん上の紙は祖母が入院した日の数字だ。その日から誰も破っていない。夏休みに泊まりに来るたびに一枚ずつ破るのは、いつのまにか自分の役目になっていた。
押し入れからは何十年分の年賀状が出てくる。輪ゴムで年ごとにまとめてある。母はそれを一束ずつ段ボールに詰めながら、ときどき差出人を読み上げては手を止める。
「この人、まだ年賀状くれてたんだ。おばあちゃん、筆まめだったからね」
一日目の夜、こたつでスマートフォンを開いた。計算のアプリの「この日の写真」をめくる。
駅の伝言板の写真がある。前にも字ばかりの黒板を一枚払ったことがある。今度の黒板には同じ二文字がいくつも並んでいる。〈イキ?〉。大きさも傾きもばらばらだ。一つは子どもの字で、〈?〉が裏返っている。
気味が悪い。
何かのいたずらか、AIの描き損じか。どちらにしてもろくなものではない気がする。
〈さっきのなしで〉
打ってから、さっきが何だったかを思い出そうとした。思い出せない。
〈「さっき」がどの指示か特定できませんでした。いちばん新しい12月15日の整理を取り消します〉
〈取り消しました。元に戻した記録:1,284件。1994年12月29日6時10分〉
千二百八十四件。戻せと言えば、戻ってくる。スマートフォンを伏せてこたつの天板にあごをのせた。
「またスマホ見てる」
母が段ボールを抱えて通りかかる。
「昔の再現。おばあちゃんが若かったころの」
「へえ。おばあちゃん、若いころの話はあんまりしなかったのよね」
母はそれだけ言って、次の押し入れへ行ってしまった。
大晦日は朝から押し入れの奥に取りかかる。
古いアルバムが三冊出てくる。形見分けでもらった一冊とは別のものだ。母が一冊を開いて声を上げた。
「わたしの成人式」
振袖を着た若い母が、写真館の背景の前に立っている。裏に祖母の字で〈成人式 1/16〉とある。
「十五日よ、成人の日。おばあちゃん、仕事の外だと日付をよく一日まちがえてたの」
母は笑って写真を裏返した。
「本人いわく、仕事で一生分そろえたから、だって。家でも新聞の誤植に赤ペンで丸をつけてたくせにね」
昼すぎ、スマートフォンに通知が来る。
〈史実との不一致が1,284件あります。詳細を確認しますか?〉
片づけで指は埃だらけだ。いつものように打とうとして親指が止まる。おとといの伝言板の写真をもう一度開いた。
指で広げる。〈イキ?〉の並びの右下に小さな字の一行がある。
〈読んでから答えること〉
横の日付は〈12/19〉。写真の隅のオレンジ色の数字は〈'94 12 18〉だ。
一日ずれている。
膝の上のアルバムの裏書きと見比べる。ごんべんの書き方。流線型の美しい「と」。数字の「1」の上の小さなひげ。
同じ字だ。
〈この字、誰が書いた?〉
〈村井さんです。1994年当時、出版社の校閲部に勤めています〉
村井は母の旧姓だ。父の側の祖母と分けて、子どものころは「村井のおばあちゃん」と呼んでいた。本の間違いを探す仕事をしていたと聞いたことがある。
読んでから答えること。
祖母の声で聞こえる。宿題の問題を読まずに答えを書いたとき。電話で「うん」とだけ返したとき。アルバムの話の途中で宿題があるからと席を立ったとき。祖母は叱るときも声を大きくしなかった。だからよけいにこたえた。
〈イキって何?〉
〈校正の用語です。一度消した部分を、元に戻すという意味です〉
黒板の十の〈イキ?〉がどれもこちらを向いて書かれていたことにようやく気づく。
〈何を消したの〉
〈1994年8月18日14時32分に、史実との不一致を修正しています。ご指示は「なんかエラー出てるから消しといて」です〉
自分の言葉が返ってくる。打った覚えはある。何を消したのかは知らない。あの日は昼休みのカウンターで、そばが伸びるのを気にしていた。
詳細を開く。初めて、最後まで読む。
小野寺千晴、二十四歳。早浜の海水浴場で沖へ流され、流れが一瞬止まったあいだに自力で岸へ戻った。史料では同じ日に死亡。きょうだいに小野寺薫。
関連する写真が三枚ついている。改札を抜ける包帯の指。防波堤で腰をつかむ人影。岬の先に立つ後ろ姿。どれも「この日の写真」で見て、払って次へ送った写真だ。
祖母の同僚だった。
アルバムを読ませて頼んだ計算だ。写っている人のまわりほど、細かく動いていたのかもしれない。祖母と同じ校閲部で、この人は四か月、何かを探していた。
記録の一覧をさかのぼる。十月二日、防波堤の子ども。自分は〈助かったなら、そのままでいいよ〉と答えている。十二月十五日、千二百八十四件の整理。その中に〈紀行文の一文 史料と不一致〉という行がある。十二月十八日、駅の伝言板。
八月からずっと、誰かがこちらに訊いていた。こちらはほとんど読まずに答えていた。
台所から母が呼んでいる。返事をして、画面に戻った。
〈イキにしてください〉
頼みごとにください、と付けたのは、たぶん初めてだ。
〈承知しました。1994年8月18日14時32分の修正を取り消し、元に戻します。史実との不一致として残りますが、よろしいですか?〉
〈はい〉
返事はすぐに来る。
〈取り消しました。1994年12月31日14時32分〉
〈なお、確認中に見つかりました。小野寺薫さんの記録に、前回の実行の記録が一部、消去されずに残っています。再実行のときの消去漏れです。この影響で、既視感が強く出ていたと考えられます。消去しますか?〉
既視感。
しばらく画面を見ていた。祖母に言われたとおり、読んでから考える。
この人はずっと、一度読んだことのある毎日を送ってきたのだろうか。だから、あの日の時刻に気づけたのかもしれない。
〈そのままでいいよ〉
〈承知しました〉
通知の数字が〈1,285〉に変わる。数字が増えても、今日は気にならない。
伝言板の写真を開いて、保存の印を押した。十月の防波堤の一枚の隣に並ぶ。
台所へ行く。母は流しで鍋を洗っている。
壁の日めくりの前に立った。祖母が入院した日の数字が、二年分の埃をかぶっている。
「ごめん」
小さく言って、一枚破った。
「何か言った?」
「なんでも」
母が振り向く前に、破った紙をポケットにしまった。
夜、母が祖母の台所で年越しそばを作った。どんぶりが二つ、こたつに並ぶ。湯気の向こうに、つゆとそばしかない。
「ネギは?」
母が首をかしげた。
「ネギ?」
冗談を言う顔ではない。スマートフォンに「ねぎ」と打つ。変換の候補に、ネギも葱も出てこない。
さっきまで、確かにあった。覚えているのは、ここでは自分だけらしい。
最初に打った一言を思い出す。〈なんかエラー出てるから消しといて〉。消されたほうからは、こう見えていたのか。どこかで誰かが、詳細を開かずに〈承知しました〉を受け取っている。
訊く相手の顔は見えない。小野寺薫という人も同じだったはずだ。それでも、あの伝言板に書いた。
ポケットから、破った日めくりを出した。裏に鉛筆で書く。
〈ネギ イキ?〉
祖母ほどきれいな字ではなかった。




