第九話 同じ手の温度
目を開けたとき、僕は、昨夜「聞いたことにする」と決めた一つを、まだ覚えていた。
それが、たぶん、僕が、こちら側で初めて持ち越したものだった。
カーテンの隙間から、朝の光が、薄く入ってきていた。光の色は、僕の街のそれと、ほんの少しだけ違っていた。慣れた、というほどではない。ただ、昨日の朝より、その違いの度合いを、僕は、少しだけ正確に測れるようになっていた。
身を起こした。
廊下に出た。
隣の部屋のドアは、今度は、開いていた。
中を、覗き込んだ。
七瀬が、ベッドの上に、身を起こしていた。
彼女は、窓の外を見ていた。
僕が、ドアの前で一拍止まったのに、たぶん、気づいていた。けれど、振り返らなかった。窓の方を、もう少しだけ、見ていた。
それから、ゆっくりと、こちらを向いた。
「起きていたんですね」
僕が言うと、彼女は、軽く頷いた。
「はい」
普段と同じ、澄んだ声だった。
ただ、「はい」の発音が、僕の知っているそれと、ほんの少しだけ違った。「警告します」の前置きとして発される「はい」ではなく、ただの肯定の「はい」だった。
「眠っていたとき」
僕は、少し言いにくいことを、言うことにした。
「指先で、触れました。すみません」
七瀬は、目を伏せなかった。それも、いつもと違った。
「……気づいていました」
短かった。けれど、その「気づいていました」の中に、たぶん、彼女が眠りの中で僕を認識していた事実と、それを今この瞬間に肯定する意志の、両方が同居していた。
「すみません」と僕は、もう一度言った。
「いえ」と彼女は答えた。
それから、彼女は、ベッドの脇に置かれた小さな上着を手に取って、ゆっくりと羽織った。
「外、出ますか」
「出られるんですか」
「短くなら、と内山さんが言っていました」
「……はい」
僕らは、廊下に出た。
クロが、足元についてきた。
診療所の前庭は、思っていたより、簡素だった。
低い柵に囲まれた、十歩四方くらいの空間。中央に、木でできたベンチが一つ。地面は、土と、まばらに生えた草。柵の向こうに、見たことのない種類の木が、二本だけ立っていた。
僕らは、ベンチに、少し離れて座った。
クロは、僕の足元に、丸まった。
空気は、相変わらず重かった。けれど、室内よりは、その重さが、少しだけ動いていた。
「ここの空気は」
僕が言った。
「重いですよね」
「はい」
「向こうの空気の、たぶん、十パーセントだけ重い」
七瀬は、ほんの少しだけ、口元を動かした。
「正確ですね」
「測ってるので」
「測っていますよね」
僕は、頷いた。
そして、しばらく、二人とも黙っていた。
クロが、僕の足元で、一度だけ、息を深く吐いた。
「七瀬さん」
「はい」
「あなたは、どこの人ですか」
七瀬は、答えるまでに、たぶん、二秒、考えた。
「ここの、人です」
「ここ」
「あなたの世界では、ない方の」
「具体的には」
「具体的には、私が答えられる範囲を、少し超えます」
「……」
「ごめんなさい」
「いえ」
僕は、彼女の言い方に、ひとつ、気づいた。
「ごめんなさい」を、彼女は、初めて、僕に向けて言った。これまで、彼女が謝るときの台詞は、「すみません」だった。「すみません」は、もう少し業務寄りの語彙だった。「ごめんなさい」は、業務よりも、少しだけ手前にあった。
「事故で、向こうのアンドロイドと、位相が重なった、と内山さんは言っていました」
「はい」
「それは、本当ですか」
「事実です」
七瀬の口から、久しぶりに「事実です」が出た。それは、たぶん、彼女がいちばん安心できる語彙圏だった。
「あなたの本来の身体は、向こうにいるんですか」
七瀬は、首を、ごく軽く振った。
「私の本来の身体は、こちら側にあります。今、目の前にあります」
「向こうの私は」
ここで、彼女は、初めて主語を明示した。
「向こうの私は、アンドロイドの器を借りて、こちら側の任務を実行しています。本来の身体は、ここで眠っていました」
「眠っていた」
「ずっと」
「いつから」
「数えていません」
「……」
「あなたが触れたとき、私は、こちらで、はじめて意識を、ちゃんと取り戻しました」
七瀬は、そこで、ようやく目を伏せた。
「ありがとう、と言うのが、たぶん、正しいです」
「俺、何もしてないですよ」
「指先で、触れてくれました」
「ああ」
「それで、私は、こちらに、戻れました」
僕は、自分の指先を、無意識に、もう一方の手で軽く包んだ。
包んだ瞬間に、自分が無意識にそうしたことに気づいた。
七瀬は、それを、見ていた。けれど、何も言わなかった。
クロが、もう一度、息を吐いた。
「なぜ、僕だったんですか」
僕が訊いた。
「あなたが、見える人だったから」
「見える」
「位相干渉の漏れを、見える人。あなたの世界では、ほとんどいません。私の組織が、長く探していた種類の目です」
「組織」
「私の所属する場所、です」
「名前は」
「言えません。今は」
「……はい」
「ごめんなさい」
「いえ」
僕は、もう一つ、訊くことにした。
「『結婚してください』を、僕に言ったとき」
七瀬の肩が、ごくわずかに、動いた。
「あれは、最短プロトコルでした、と言ったのは、本当ですか」
「本当です」
「今は」
七瀬は、しばらく、答えなかった。
それから、ごく短く、こう言った。
「今は、最短ではなかったかもしれない、と思います」
「最短じゃなかったら、なんだったんですか」
「それを、私自身が、まだ、分けきれていません」
「……はい」
「ごめんなさい」
「いえ」
僕は、その「ごめんなさい」を、今日三度目に聞いた、と数えた。
数えながら、彼女が「すみません」を一度も使っていないことにも、気づいた。
そのとき、僕の右手の上に、また、格子が走った。
縦と横の細い線が、肌の上を区切るように、ごく薄く浮かんで──今度は、消えなかった。
二、三秒、留まった。
それから、ゆっくりと、薄れていった。
僕は、今度は、慌てなかった。
慌てなかったということは、たぶん、自分でも気づかないうちに、これが起きうると知っていた、ということだった。
七瀬が、それを、見ていた。
「……」
「七瀬さん」
「はい」
「これは、何ですか」
七瀬は、答えるまでに、内山と同じくらいの時間、考えた。
「あなたは、こちら側の物理に、共鳴し始めています」
「共鳴」
「あなたの観察する眼が、こちら側のルールの一部に、合いはじめているということ、です」
「もう少し、教えてもらえますか」
「説明できる範囲を、超えています」
内山と同じ言葉だった。
けれど、内山と何かが違うと、僕には感じられた。それが何なのかは、まだ言葉にならなかった。
七瀬は、それから、ごく短く、付け加えた。
「使わない方が、いいです」
「使う、というのは」
「あなたが、今、何となく、自分の手の上で起きていると思っているもの。使い方を、たぶん、近いうちに、自分で発見します。でも、できるだけ、使わない方がいいです」
「なぜですか」
「使うと、戻れなくなるものが、あります」
「戻れなくなる」
「あなた自身が、です」
僕は、自分の手のひらを、ゆっくりと、ベンチの上に置いた。
「……はい」
「ごめんなさい」
「いえ」
七瀬が、ふいに、手を伸ばした。
彼女の手が、僕の手の甲の上に、軽く乗った。
僕は、固まった。
これは、業務ではない。
頭の中で、はっきりと、そう思った。
これまでの彼女の手は、ぜんぶ業務だった。第五話の水中で僕の肩を支えた手も、土手で僕を押し上げた手も、第六話で僕の右手を掴んだ手も、ぜんぶ、僕の保護のための業務動作だった。
今、僕の手の甲の上にある手は、その分類のどれにも、入らなかった。
温かかった。
人間の、温度だった。眠っていたときに僕が触れた温度と、同じだった。
ただ、その温度の下に、一拍だけ、別の冷たさが脈打っているように、僕には感じられた。
金属の冷たさの記憶。
第五話の水中で、僕の肩を支えてくれた、あの冷たさ。
それが、彼女の中に、まだ、残っていた。
完全には、切断されていなかった。
「七瀬さん」
「はい」
「向こうの、あなたは」
「向こうの私は、あなたの世界に、まだ、います」
「お互い、まだ、繋がってるんですか」
「細い線で。完全には切れていません」
「いつか切れますか」
「わかりません」
「……」
「切れた方がいいのか、繋がっていた方がいいのか、それも、わかっていません」
七瀬の手は、まだ、僕の手の甲の上にあった。
僕は、そのまま、動かさなかった。
クロが、僕の足元で、もう一度、息を吐いた。
副部長は、放課後、写真部の部室に着いた。
ドアを開けると、ルウアが、すでに窓辺に立っていた。
「早いわね」
「待っていました」
「何を」
ルウアは、答えなかった。
副部長は、机に鞄を置いた。ノートを取り出した。竹内のノート。
ルウアが、ふいに、ごく短く言った。
「もうすぐ、ここに戻ってきます」
副部長の手が、ノートの上で、止まった。
「……誰が」
ルウアは、答えなかった。
しばらく、副部長は、待った。
それから、ルウアは、もう一言だけ、つけ加えた。
「事実です、とは、もう言えません」
副部長は、そのルウアを、しばらく見ていた。
それから、ノートを、ゆっくり閉じた。
机の上で、両手を組んだ。
「……あんた」
「はい」
「私、あんたのこと、ちょっとだけ、わかってきた気がするわ」
「……」
ルウアは、答えなかった。
答える代わりに、ごく短く、目を伏せた。
それが、たぶん、彼女が「事実です」と言う代わりの、新しい応答の仕方だった。
部室のドアの内側で、アンドロイド七瀬が、ほんの少しだけ、姿勢を変えた。
護衛動作の継続だった。
ただ、副部長には、その姿勢の変え方が、いつもより一秒だけ、長かったように見えた。
副部長は、その一秒を、見ていた。
数えるように、見ていた。
夜、僕は、自分の部屋のベッドに戻っていた。
クロは、今夜も部屋の隅で、丸まっていた。
僕は、右手を、もう一度、光の中に出した。月の光だった。月は、二つあった。それを、僕は、数えなかった。
格子は、出なかった。
けれど、出る気配は、あった。
それを、僕は、いつのまにか、知っていた。
ノートが、ないことに気づいた。
副部長が、たぶん、今、それを開いている。
僕は、月の光を、しばらく見ていた。
それから、目を閉じた。
聞こえなかった。
今夜は、声は、聞こえなかった。
それでも、たぶん、線は、まだ、二本に繋がっていた。




