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第八話 知らない天井

目を開けたとき、僕は、天井の梁の継ぎ方が、自分の知っているそれと違うことに気づいた。

ほぞ穴の角度。継ぎ目の幅。梁の縦と横の比率。どれも、ほんの数ミリだけ、僕の知っている日本家屋の組み方とずれていた。意図的にずれているのではなく、別の伝統の中で別の精度で組まれた、という違い方だった。

僕は、しばらく天井を見ていた。

身体は動いた。腕を一度、軽く上げてみた。痛みはなかった。ただ、空気の重さが、いつもより少しだけ濃かった。

身を起こした。

ベッドの脇に、椅子があった。誰かが座っていた跡があった。座面の中央がわずかに沈んでいて、その沈み方の重心位置が、人間ひとり分のそれと一致していた。たぶん、夜のあいだ、誰かがそこに座っていた。

僕は、その椅子を、しばらく見ていた。

朝の光が、窓から差し込んでいた。

僕は、両手を、光の中に出した。

手の甲。指の関節。爪の半月。ぜんぶ、知っているはずの形だった。

その手の上に、一瞬だけ、格子が走った。

縦と横の細い線が、肌の上を区切るように、ごく薄く浮かんで、消えた。

僕は、瞬きを一度した。

もう、なかった。

「……」

光の角度の問題だった、と僕は思うことにした。たぶん、窓のガラスの内側に、見えないほど細い格子が入っていて、それが手の甲に映っただけだ。論理的にはありそうな話だった。

ただ、その「論理的にありそうな話」を、僕は、自分の体に対しては、今までほとんど考えたことがなかった。

別の物に対してなら、毎日のように考えていた。コンロボの円。鳩の数。机の頂点の埃。

自分の手の上の格子について、論理的な説明を組み立てようとしたのは、たぶん、今が初めてだった。

僕は、手を、ゆっくり下ろした。

部屋のドアが、軽く叩かれた。

「起きているか」

低い声だった。聞いたことがある声だった。

「はい」

「入る」

ドアが開いて、内山が入ってきた。

クロが、その足元についていた。

内山は、入ってきて、最初の三秒、何も言わなかった。

僕を見ていた。

ただ、見ていた。

そして、僕は、その三秒のあいだ、自分が観察されている、と気づいた。

気づいた、というより、いつもの自分の役割が、突然、立場を逆転していた。

普段、教室で、僕は、人の動作の角度を測る側だった。鳩を数える側だった。今村さんの沈黙の温度を判別する側だった。

今、僕は、測られる側にいた。

彼は、僕が鳩を数えたように、僕を数えていた。

その視線の質を、僕は、知っていた。なぜ知っているかと言えば、僕自身がそういう視線を、無数の人々に向けてきたからだ。けれど、それを向けられる側に立ったのは、たぶん、初めてだった。

副部長や、ルウアや、今村さんが、僕の隣で感じていたものは、これだったのかもしれない、と僕は思った。

三秒が、終わった。

内山は、椅子に座った。

「具合は」

「……空気が、重い」

「うん」

「光の入り方が、違う」

「そうだろうな」

「梁の継ぎ方が、知っているのと、違う」

内山は、ほんの少しだけ、口元を動かした。笑った、というほどではなかった。

「観察は、変わらないか」

「観察、しか、できないので」

「いい答えだ」

クロが、ベッドの脇に座った。彼の毛並みに、青銀の光が、ごく細く脈打っていた。

ここに来た日に、廊下から部屋に入ってきた瞬間、クロの毛並みに一度だけ走ったのと、同じ色だった。

机が頂点で止まったときの埃の流れ、七瀬の鱗が編まれていくときの繊維、そのどちらとも、同じ系統の光だった。

僕は、その光を、しばらく見ていた。

「触っていいですか」

僕が言うと、内山は短く頷いた。

僕は、手を伸ばして、クロの背中に触れた。

冷たかった。

けれど、それは、生きている冷たさだった。昨夜、半分眠っているあいだに、彼が額に鼻先を当ててくれたときと、同じ温度だった。

その下に、もう一段、何かが脈打っていた。皮膚の下を流れる血流の温度ではなかった。もっと別のもの。位相、と内山なら言うかもしれない種類のもの。

「これは」

僕は、手を引かずに、内山を見た。

「青銀、ですか」

内山は、一度、目を瞑った。

「君は、それを呼ぶ言葉を、もう持っているのか」

「呼べないものの方が、多いです。でも、これは、ここに来た日に見たのと、同じ色をしていました」

「来た日」

「あなたが扉のところに立っていて、その足元のクロの毛並みに、一瞬だけ、この色が走った。それと、机が頂点で止まったときの埃。七瀬さんが水中で鱗に変わったときの繊維。全部、同じ系統の光に、見えました」

「君は、よく見ている」

「観察、しか、できないので」

「同じ答えを、二度した」

「事実だからです」

内山の口元が、また、わずかに動いた。

「それは、こちら側の物理だ」

「こちら側」

「君のいた世界の物理では、説明できない種類の現象。来てはしまったが、向こうにはなお、未解決のものがいくつもある。それらの大半に、この光が関与している」

低い、削った言葉だった。

「七瀬さんは、こちら側の人ですか」

「……こちら側の人だ」

「向こうの、アンドロイドと、位相が重なった」

「事故だ。本来そうなる予定ではなかった」

「七瀬さんは、何者ですか」

内山は、答えるまでに、たぶん、三秒、考えた。三秒、というのは、彼の標準よりずいぶん長い間だった。

「それは、彼女が自分で君に話すべきだ」

「……はい」

「だが、一つだけ言っておく。彼女は、君を、自分の判断で守ろうとした。組織の手続きを経ずに。これは、君が思っているより、重大な選択だ」

「規律違反、ということですか」

「君は、よく見ているな」

「副部長が、よくそう言います」

「副部長」

「友人です」

「いい友人を持っているな」

内山は、それから、しばらく黙った。

「君を、長くはここに置けない」

「向こうに、戻れますか」

「戻る。君のいるべき場所は、向こうだ。ただ、戻る前に、いくつか君が知っておくべきことを、話せる範囲で話す」

「話せる範囲」

「私の側にも、口にしていい話と、まだ口にしてはいけない話がある」

僕は、頷いた。

それ以上、訊かなかった。

朝、教室の窓側の三列目、右奥。

そこは、いつも竹内が座っている席だった。

副部長は、自分のクラスではないので、ふだんその席のことは知らない。けれど、今日、彼女は廊下の窓越しに、その席を見ていた。

椅子は、引かれていた。誰も座っていなかった。

教室の中で、誰も、その席のことを話題にしていなかった。担任は、出席を取って、欠席として処理した。クラスメートは、特に気にしていない様子だった。

ただ一人、左隣の席の女子生徒だけが、ノートに視線を落とすふりをしながら、ときどき、その空席の方を見ていた。

副部長は、その視線の動きを、見ていた。

教室の中の他の誰にも、それは見えていなかった。

副部長にも、本当はよく見えていなかった。けれど、見ようとして、彼女はその場に立っていた。

彼女は、自分が、誰かの数え方を、真似ようとしているのを、たぶん、自覚していた。

「彼女は、隣の部屋にいる」

内山が言った。

「会えますか」

「眠っている。短くなら」

僕は、立ち上がった。

身体は、思っていたよりちゃんと動いた。クロが、僕の足元について、廊下に出るのを見届けた。

廊下は、診療所の廊下にしては、簡素だった。窓が一つあって、外には、見たことのない種類の木が、二本だけ立っていた。葉の形が、僕の知っている広葉樹のどれにも、一致しなかった。

隣の部屋のドアは、半分開いていた。

中に、七瀬がいた。

僕は、ドアの前で、一拍止まった。

ベッドに横たわっていた。布団は、薄かった。簡素な、けれど明らかに別の文化圏の服を着ていた。髪は、肩のあたりで、まとまっていた。

呼吸をしていた。

人間の、呼吸だった。

僕は、ベッドの脇に、立った。

声をかけなかった。眠っているなら、起こす理由はなかった。

ただ、彼女の手が、布団の上に出ていた。

ためらわなかった、というのは嘘になる。たぶん、五秒くらい、ためらった。

それから、自分の指先を、彼女の手の甲に、ごく軽く触れた。

──温かかった。

人間の、温度だった。

僕の知っている七瀬の手は、いつも金属の冷たさだった。第五話の水中で、彼女が僕の肩を支えてくれたとき。土手の上で、彼女が僕を押し上げてくれたとき。彼女の手は、皮膚の温度を持っていなかった。

今、僕の指先の下にあるのは、それとはまったく別のものだった。

僕は、指先を、引いた。

七瀬は、目を覚まさなかった。

僕は、もう一度、彼女の顔を見た。

寝ているときの彼女は、起きているときよりも、少しだけ、年齢が低く見えた。

僕は、ドアまで戻った。

戻るときに、自分の指先が、まだ、温度を覚えていることに気づいた。

夕方、僕は、診療所の自分の部屋に戻った。

ベッドに、戻った。

窓の外の空を、見ていた。

太陽の沈み方が、僕の知っているそれと、ほんの少しだけ違った。沈むのが速い、というわけではなかった。沈む角度が、ほんの数度、僕の街のそれと違っていた。緯度の問題だ、と思おうとした。けれど、それでは説明できない、と気づいていた。

光の色も、違った。橙よりも、少しだけ、桃に寄っていた。

僕は、その色を、しばらく見ていた。

数えなかった。

数えるべきものが、なかったわけではない。雲の数も、空にある光源の数も、たぶん数えられた。けれど、僕は、今日は、数えなかった。

数えることは、確定することだった。確定したくないものが、ここには、たくさんあった。

ノートも、持っていなかった。

副部長が、たぶん、今、それを持っている。

僕は、副部長のことを、少しだけ考えた。

それから、考えるのをやめた。

考えても、僕には、今、何もできない。

夜になった。

僕は、ベッドに横になっていた。

部屋の窓の外で、何かが、葉ずれの音をたてた。

それから、何の音もしなくなった。

そのとき、ごく小さく、声が聞こえた。

「……竹内」

僕は、起き上がりかけた。

隣の部屋の方を見た。隣の部屋のドアは、閉まっていた。

声は、隣の部屋から、来た気がした。

ただ、隣の部屋の方を向きながら、僕は、たぶん違う、と思った。

声は、隣の部屋から来たのではない。けれど、僕は、隣の部屋の方を向いている。観察の整合性が、合っていなかった。

ふだんの僕なら、こういう違和感は、確認するまで保留する。

今夜は、確認しなかった。

声がしたのは、隣の部屋ではないどこかから、なのかもしれなかった。

そして、その「どこか」は、たぶん、僕の世界に近い場所だった。

「……」

僕は、もう一度、布団に戻った。

聞こえた、と思った。

いや、聞こえなかった、かもしれない。

風だったかもしれない。

確かめる方法は、ない。

それでも、誰かが、僕の名前を呼んだ。

今夜、僕はそれを、聞かなかったことに、しないことにした。

第五話のときと、向きが逆になった。

あのときは、彼女のために、聞かなかったことにした。

今夜は、たぶん、自分のために、聞いたことにする。

それが、僕が、今日、確定した一つだった。


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