第七話 彼の数えていたもの
副部長とルウアが横断歩道に駆け込んだとき、信号はもう赤になっていた。
横断歩道は、空だった。
通行人は、何事もなかったように向こうの歩道に立っている。誰も振り返らない。誰も何かを見ていない。日常が、たぶん三秒前と完全に同じ密度で続いていた。
ただ、横断歩道の中央に、一人だけ立っている人物がいた。
七瀬だった。
副部長は、走ってきた勢いのまま、その手前で止まった。ルウアもほぼ同時に止まった。横断歩道のアスファルトの上で、二人は呼吸を整えながら、七瀬を見た。
七瀬の制服には乱れがなかった。長い髪も、いつもの位置に収まっていた。彼女は、ただ立っていた。
副部長は、もう一度横断歩道を見渡した。
「……竹内、は」
「対象は退避しました」
七瀬の声だった。
普段の彼女の声と、ほぼ同じだった。けれど、なんとなく、何かが違う、と副部長は思った。何が違うのかは、すぐには言葉にならなかった。
「退避、って」
「詳細は、説明できません」
「無事なのね」
「肯定」
「どこに行ったの」
「説明、不能」
短かった。短すぎた。それが、副部長の感じた「何かが違う」の正体だった。
ルウアがいつもの位置──副部長の半歩後ろ──から、七瀬を見ていた。彼女は何も言わなかった。けれど、副部長は、ルウアの視線が、自分の見ているものより少し奥を見ているのを感じた。
その時、息を切らして走ってくる足音がした。
今村さんだった。
校門の方向から、まっすぐにこちらへ駆けてきていた。手にノートを一冊握っている。副部長が今日の昼に鞄の奥に丁寧にしまったはずのノートだった。
「……」
今村さんは、副部長の前で立ち止まると、何も言わずにノートを差し出した。
副部長は、それを受け取った。
「……ありがとう」
「いえ」
それで終わりだった。
今村さんは、七瀬の方を見た。一秒。二秒。それから、副部長の方に視線を戻したが、何も言わなかった。
副部長は、その一秒と二秒を、見ていた。
写真部の部室は、いつもの夕方と同じ匂いがした。現像液と、紙と、暗室の冷たい空気の名残。
副部長は、机の上にノートを置いた。
七瀬は、部室のドアの内側に立っていた。座らなかった。「位置確保」とだけ短く言って、それから何も言わなかった。彼女が誰かを守るために立っている、ということだけ、副部長にはわかった。
ルウアは、いつものティーカップを持たなかった。窓辺にも行かなかった。椅子に座って、机の上のノートを見ていた。
今村さんは、副部長の隣の椅子に、ごく自然に座った。
副部長は、ノートを開いた。
最初のページに、線が一本、引かれていた。
円。中心と縁の二点。その二点を結ぶ線が、ページの端まで伸びている。端の方に、小さな字で「アンテナ」と書いてあった。
その上に、数字。「2」と書いてあった。
副部長は、その「2」をしばらく見ていた。
二日目のページには、線が三本に増えていた。「3」と数字があった。鳩の数だった。
三日目には「4」、四日目には「5」。
五日目で、新しい記号が一つ増えていた。**頂点で遅れる埃**、と、丁寧な字で書いてあった。
七日目には、それに**繊維、先に動く**、が加わっていた。
ノートは、世界の地図ではなかった。
地図の中の、自分にしか見えないものを、丁寧に一つずつ並べていった目録だった。
副部長は、そのページの上を、指でなぞった。指は、線の上を、線に沿って、ゆっくりと動いた。
竹内は、ここに何を書いていたのだろう、と副部長は思った。
世界、と言ってしまえば早い。けれど、それは違う気がした。
たぶん、彼は、自分が見たもののうち、自分でも処理しきれなかったものだけを、ここに書いていた。書いて、見える場所に置いて、それ以上の処理を、後回しにしていた。
そして、彼は、後回しにしたものを、たぶん、まだ一度も振り返っていなかった。
副部長は、ノートを閉じた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
ルウアが、ふいに、ごく小さな声で言った。
「……はい」
副部長と今村さんが、同時に顔を上げた。
ルウアは、自分の口元を、指先で軽く触れた。
何かを言いかけて、止まった、という顔だった。
「ルウア?」
「……」
「何か言った?」
「……いえ」
ルウアは、それから、長く沈黙した。いつもなら「事実です」で締めくくる場面で、彼女は「事実です」を発さなかった。
副部長は、そのルウアを、しばらく見ていた。それから、何も言わずに、視線を戻した。
訊かなかった。
訊いたら、たぶん、ルウアの中の何かが、もっと大きく崩れる気がした。
副部長は、そういう判断だけは、いつも早かった。
しばらくして、副部長は、席を立った。
「お茶、淹れてくる」
部室を出る前に、ノートを机の上に置いたままにした。
ドアが閉まる音がした。
今村さんは、ノートの方を見ていた。
それから、ごく短く、迷う動作をしたあと、手を伸ばした。
ノートを、自分の方へ引き寄せた。
最後のページを開いた。
竹内透の字が、最後の行で止まっていた。**金色の鳩、合計二十一**、と書いてあった。
その下に、今村さんは、自分の鉛筆で、三行だけ書いた。
> 目の動き、一秒に二回。
> 呼吸の間隔、ない。
> 髪を耳にかけない。
それから、ノートを元の位置に戻した。
書いたとき、彼女の鉛筆は、震えなかった。
ルウアは、それを見ていた。けれど、何も言わなかった。
ルウアの口元は、もう、塞がれていなかった。
僕は、知らない天井を見ていた。
木の梁。古いランプ。半分閉じた瞼の向こうで、それらが揺れているように見えるのは、たぶん、僕の意識がまだ完全には戻っていないからだった。
横で、誰かが、低い声で話していた。
「……時間が、もう少し早かったか」
「予定通りではないにせよ、最悪ではない」
「あの子の方は」
「あれは、こちらで管理できる範囲だ。今は休ませろ」
声の主は、たぶん二人。一人は、扉のところに立っていたあの男──内山。もう一人は、わからなかった。
僕は、その「もう一人」の顔を見たかった。けれど、首が動かなかった。
足元の方で、何かが動いた。クロだった。彼は、僕の顔の高さまで近づいてきて、僕の額に、鼻先を一度だけ軽く当てた。
冷たかった。けれど、生きている冷たさだった。
ここは、僕の世界じゃない。
頭の中で、僕は、そう確認した。
確認しただけで、瞼は、また閉じた。
副部長が部室に戻ってきたとき、お茶のカップは三つだった。
ルウアの分。今村さんの分。そして、自分の分。七瀬の分はなかった。七瀬は、相変わらず、ドアの内側に立ったままだった。
副部長は、カップを机の上に並べた。
それから、今村さんの方を向いた。
「……今村さん」
「はい」
「あんたが、これ、運んできてくれたの」
「……はい」
「ありがとう」
「いえ」
副部長は、もう一口、お茶を飲んだ。
カップを置いてから、彼女は、机の上のノートを、もう一度開いた。
何かを書き足すつもりだったのかもしれない。何も書くつもりはなかったのかもしれない。それは、彼女自身にも、たぶん、わかっていなかった。
ただ、開いたページに、見覚えのない三行が、追加されていた。
副部長は、その三行を、しばらく見ていた。
それから、顔を上げた。
今村さんは、目を逸らした。
副部長は、もう一度、その三行を見た。
書いた人間を、特定するための調査はしなかった。
ノートを、閉じた。
机の上に、両手を置いた。
しばらく、副部長は、そのまま動かなかった。
それから、ごく静かに、こう言った。
「……一人じゃ、足りなかったか」
それは、誰にともなく言った言葉だった。
たぶん、竹内にも、自分にも、両方に向けていた。
その瞬間、副部長の中に、たぶん、防衛同盟が一つ、結成された。
協定書はなかった。署名もなかった。けれど、副部長は、確かに、その時、今村さんを「自分の側の人間」として登録した。
今村さんも、たぶん、副部長を、同じように登録した。
二人とも、それを、口に出さなかった。
夜、副部長は、一人で帰り道を歩いていた。
商店街のアンテナの上に、鳩がいた。何羽か、いた。
副部長は、上を見上げた。
数えようとした。
「……一、二」
そこで、止まった。
数えられなかった。視界の中に、確かに鳩はいる。なのに、数字が、続かなかった。
「……まだ竹内の真似が、できないってことかしらね」
そう言ってから、副部長は、自分が冗談を言おうとしていたことに気づいた。
笑わなかった。
笑えなかった。
副部長は、もう一度、上を見た。
鳩は、まだそこにいた。
副部長は、視線を下ろして、歩き出した。
家に帰ってから、副部長は、自分の部屋の引き出しを開けた。
中には、ノートが入っていた。表紙に何も書かれていない、薄い大学ノート。
副部長は、それを、手のひらに乗せた。
ページを開かなかった。
「……明日、もう一回、ちゃんと読もう」
そう、独り言を言った。
冗談ではなかった。




