表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/22

第六話 線が二本に分かれた日

家に帰った夜、僕は机の引き出しを開けた。

中には、未現像のフィルムが何本か入っている。何本か、というのは正確ではない。前に数えたときと同じ本数のはずだ。たぶん七本か八本。一本も増えていない。

その隣に、銀色のカメラがあった。祖父の遺品。ストラップの端に、祖父の字で「竹内透」とだけ彫ってある。

僕は、フィルムを一本、手のひらに乗せた。

軽かった。

軽い、ということを、今日初めて、ちゃんと知った気がした。

カメラには装填しなかった。

シャッターも、切らなかった。

ただ、手のひらの上にしばらく載せていた。

──たぶん、僕は、今日、もう撮っていた。

水中で、七瀬のスカートがほどけていく動きを、彼女の鱗の光を、髪の広がり方を、僕の頭の中で、確実に「切っていた」。シャッターを切る、というのが、構えることでもファインダーを覗くことでもなく、見たものを、自分の側の責任として引き受ける動作だとすれば、僕はもう、たぶん、切っていた。

だから、フィルムを装填する必要は、もう、ない。

僕の身体の中の、別のフィルムに、もう焼きついてしまっているからだ。

土手の上で、僕の口から出た「結婚しようか」は、たぶん、撮った後で被写体に名乗り出る動作に似ていた。撮った人間が、撮られた人間に、これからどうしましょうか、と訊く動作。軽くはなかったのだと、今は思う。

ただ、思うだけだった。

僕は、フィルムを引き出しに戻した。

カメラも、戻した。

引き出しを閉じた。

それから、机に肘をついて、しばらく目を開けたままでいた。

窓の外に、鳩が一羽だけ、いた。

今日は、数えなかった。

それから、二日が過ぎた。

二日、というのは僕の感覚で、現実の暦の上でも二日だったが、その二日の中身は、いつもの二日とはたぶん何も似ていなかった。

朝、教室に入る。七瀬は別のクラスなので、僕の左隣にはやはり今村さんがいて、右隣にはルウアがいる。それは変わらない。

ただ、僕の見ているものが、変わった。

廊下の天井に、点検口が三つある。子どもの頃から知っているつもりだった。今、よく見ると、そのうちの一つだけ、ねじの種類が違う。何かが後から取り付けられている。

教室の窓の外。商店街のアンテナの上。今朝は七羽。

校門の前で、よく道路工事をしている。あの工事の囲い。形を覚えてみる。月曜日に見た囲いの並びと、火曜日の並びが、微妙に違う。同じ「工事中」の看板が、別の場所に立てられている。一見、同じ風景。実際は、毎日少しずつ、位置がずれている。

ずれている、というより、移動している。

何かが、町の中に静かに展開している。誰にも気づかれないように、設置されたものと撤去されたものが、一日ごとに少しずつ前後している。

そして、誰も気づかない。

ほとんど、誰も。

「ねえ、竹内」

副部長が、昼休みの部室で、僕の手元を見ていた。

「ノートに、何書いてんの」

「町の地図」

「は?」

「学校周辺の」

「何のために」

「数えてる」

副部長は、ノートを覗き込んだ。

ページの上には、簡単な地図と、小さな点と、数字が書き込まれていた。鳩。コンロボ。点検口。工事の囲い。一日ごとに、点の数が増えていた。

「……竹内」

「うん」

「あんた、これ、見せちゃ駄目だよ」

「誰に」

「……わからないけど」

副部長の声は、小さかった。

ルウアが、横から覗き込んで、ごく短く頷いた。

「分布が、確実に高密度化しています」

「お前、それ翻訳すると」

「町の防衛側が、警戒度を上げています。同時に、敵側の干渉も、最終段階に入っています」

「翻訳、丁寧にしてくれ」

「事実です」

副部長は、僕の手からノートを取り上げた。

「これ、私が預かる」

「なんで」

「あんた、最近、目が痩せてきてる」

「……」

「これ持ってる間、もっと痩せる気がする」

「……」

「返してほしくなったら、言って」

副部長は、それを自分の鞄の奥にしまった。

その手つきが、いつもの彼女より、ほんの少しだけ、丁寧だった。

七瀬は、放課後、部室に来るようになっていた。

別のクラスの生徒が部活動の見学に来る、という名目で、彼女は普通に入ってきて、普通に椅子に座って、普通に窓の外を見ていた。

彼女の役割は、護衛だった。

それを副部長は察していた。たぶんルウアも。たぶん部室に出入りする後輩も、誰も口にしないが、なんとなく察していた。

「七瀬さん」

副部長が、ティーカップを差し出した。中身はただのお茶だった。

「ありがとうございます」

「今日も、来てくれてありがとう」

「業務です」

「業務でも、ありがとう」

七瀬は、少しだけ目を伏せた。

「……どういたしまして」

副部長は、それを聞いて、ほんの少しだけ笑った。

「あんた、最近ちょっと、人間っぽくなってきたわよ」

「事実ですか」

「事実」

七瀬は、その回答に、しばらく動かなかった。

それから、ごく短く言った。

「光栄です」

ルウアが、横で小さく頷いた。

「私の方が、ずっと人間っぽさは欠如しています」

「あなたは別カテゴリ」副部長が即答した。

「……理解しました」

部室の空気が、少しだけ、人間の家のリビングに近づいた、と僕は思った。

ただ──その日の夕方、それは終わった。

下校時。

校門の前の交差点で、信号待ちをしていた時だった。

僕の左隣に今村さんがいた。彼女もたまたま同じ時間に校門を出ていて、たまたま同じ信号で止まっていた。

そういう「たまたま」が、たぶん、僕と今村さんの三年間の九十九パーセントを占めてきた。

僕は窓の外を見るふりはできない。信号待ちなので、見るのは信号だ。

「……」

「……」

僕らはいつも通り、目を逸らし合っていた。

そのとき、今村さんが、ごく小さな声で言った。

「あの工事、また場所がずれてるね」

僕の足が止まった。

彼女は、続けた。

「先週は、向こうの角だった。今日は、こっち」

「……」

「気のせい?」

「いや」

「あ。返事来た」

今村さんは、僕を見ずに、信号を見ていた。横顔だった。

「……何か、よくないことが起きてる?」

「うん」

「私、関係ある?」

「ない、と思う。けど」

「けど?」

「君は、見える人だから。たまたま、見えてしまっている」

「私も?」

「うん。俺もだ」

今村さんは、しばらく黙っていた。

それから、信号が青になった。

「行こう」

僕らは、並んで、横断歩道を渡った。

人生で初めて、僕は今村さんと横並びで歩いた。

たぶん、たった二十秒くらいの距離だった。

向こうの歩道に着いたとき、彼女はもう、別の方向を向いていた。

「じゃあ」

「うん」

それだけだった。

でも、それで、十分だった。

──その瞬間、空気が変わった。

風ではない。地面の振動でもない。

気圧だった。

僕の耳の奥が、急に詰まった。

「……っ」

今村さんも、こめかみを押さえた。

僕は反射的に背後を振り返った。

校門の方向から、何かが来ていた。

一体ではなかった。三体。前回の人型が、もう少し大きく、もう少し関節の数が多くなったやつが、三体、横並びで歩いてきていた。

通行人は、誰も気づいていないように見えた。

そして、その後ろに──もっと大きな、人型ですらないものが、空気の歪みのようにして、近づいてきていた。

僕は、それを「見えた」というより、「輪郭の不在」として認識した。空間の中に、物体が「置かれている」のに、その表面の情報が消されている。だから空気が歪んで見える。

「……今村さん」

「うん」

「走って」

「うん」

「学校じゃなく、商店街の方」

「うん」

「副部長に、ノートを返してもらえって伝えて」

「ノート?」

「副部長は、わかる」

今村さんは、二秒だけ僕を見た。

それから、走った。

迷いはなかった。

僕は、その背中をほんの一瞬だけ見送った。

七瀬が、いた。

校門の方から、信号を無視して走ってきていた。

「離れて」

「うん」

「ルウア、副部長と一緒に、こちらへ来ます」

「うん」

「ただし、間に合わない可能性、四十パーセント」

「……」

「あなたを、別の場所へ移します」

「別の場所」

「説明は後です」

七瀬の左手が、僕の右手を掴んだ。

冷たかった。やはり、皮膚の温度ではなかった。

人型の三体が、横並びのまま、加速した。

その後ろの「輪郭の不在」が、ぐっと近づいた。

七瀬が、人型に向かって、片手を伸ばした。

「位相同期、即時干渉」

彼女の手のひらから、青銀の光が、糸のように三本伸びた。光は、それぞれの人型の中心へまっすぐ到達し、内側で展開した。

人型の動きが、止まった。三体とも、同時に。

七瀬の制服が、肩のところで、わずかにほどけはじめていた。スカートではない。全身が、繊維単位で再構成を始めていた。

「七瀬」

「業務です」

「だから、何の」

「護衛対象の位相退避」

「俺をどこへ」

「安全な層」

「──戻れるのか」

七瀬は、ほんの一瞬だけ、答えを止めた。

「戻ります。ただし、今ではありません」

「うん」

「向こう側にも、待っている者がいます」

「……」

「私の側の」

その瞬間。

人型の後ろの「輪郭の不在」が、僕らに到達した。

それは、見ることができないものだった。視覚で捉えるのではなく、空間の方が捉えられる感覚があった。

それは、僕の存在そのものを、別の場所へ書き換えようとしていた。

──僕の身体が、内側から引っ張られた。

「うっ……」

肺の中の空気が、別の方向へ引かれていく感覚。

七瀬の手が、僕の手をさらに強く掴んだ。

「離さないで」

「うん」

「離れたら、片方が消えます」

「うん」

「私が連れて行きます。私の側へ。あちらの軌道は、書き換えます」

「書き換える」

「敵側の装置です。彼らは、あなたを、別の場所へ運ぼうとしている。私は、それを、私の側の拠点へ、上書きします」

「……うん」

僕の足が、地面から離れた。

正確には、地面が僕から離れた。

僕は、横断歩道の白線を、最後にもう一度見た。

七瀬が、僕の隣で、目を閉じていた。

その目を閉じる動作が、いつもよりずっと、人間に近かった。

落下、というのとも違った。

引かれる、というのが近かったが、引かれる先がどこにあるのかが、わからなかった。

水中に近かった。だが水ではない。

光があった。だが光源はなかった。

そして、七瀬の手の感触だけが、僕の現実だった。

その途中で、ふいに、彼女の手が、二つに割れた。

物理的に二つになったわけではない。

七瀬の手の中に、別の手が、もう一本あった。

僕は、その瞬間、彼女が二人になりかけているのを、感じた。

「七瀬」

「はい」

「お前、二人いる?」

「……はい」

「どっちが、お前?」

「……どっちも、です」

「片方は」

「こちらに、残ります」

「こちらって」

「あなたの世界。私の、こちら側の器」

「お前は」

「私の方は、向こうへ」

「……」

「あなたと一緒に」

「残る方は」

「副部長さんと、ルウアの、横にいます」

「……」

「業務上の継続性のために」

七瀬の手は、確かに、二本になっていた。一本は、僕を引っ張り続けていた。もう一本は、僕とは反対の方向へ、ゆっくりと引かれていた。

「お前、本当に、誰なんだ」

「……向こうで、説明します」

「約束だぞ」

「はい」

光が、変わった。

色が変わった、というのではなく、位相が変わった。

僕の視界が、別の波長に対応しはじめた。

そして──

僕は、何か別の場所の、何か別の床に、背中から落ちた。

衝撃はなかった。

ただ、突然、僕は仰向けに、何かの上に、置かれていた。

目を開ける。

知らない天井だった。

木の梁。古いランプ。乾いた草の匂い。少し苦い薬品の匂い。

僕は、上半身を起こした。

身体は、動いた。痛みはない。濡れてもいなかった。さっきまで横断歩道にいたのが嘘のように、僕は乾いていて、生きていて、知らない天井の下にいた。

横に、誰かが寝かされていた。

七瀬だった。

でも、ちょっと違った。

髪は同じだった。顔も、ほとんど同じだった。だが、服が違う。制服ではない。簡素な、けれど明らかに別の文化圏の服。そして──

足があった。

二本、ちゃんとあった。

魚ではなかった。

「……」

僕は、彼女の顔を見つめた。

彼女は、眠っていた。

呼吸をしていた。

人間の、呼吸だった。

部屋の隅から、足音がした。

僕が振り返ると、扉のところに、一人の男が立っていた。

飾り気のない実用的な服を着ていた。鋭い目をしていた。

そして、その足元に、大型の黒い犬がいた。

犬の毛並みに、青銀の光が、ごく細く、脈打っていた。

男は、僕を見て、それから、眠っている七瀬を見た。

「……来たか」

低い声だった。

「想定より、少し早いがな」

「予定が、あったんですか」

「あった。もう少し先のはずだった。状況が、こちらの想定より速く進んだ」

男は、七瀬の方をもう一度見た。

「彼女が、軌道を書き換えたな」

「……はい」

「上手くやった。敵側の拉致が、こちらへの合流に化けた」

「合流」

「君は、ここに長くはいない。落ち着いたら、向こうへ戻す。話は、それまでに済ませる」

「戻れるんですか」

「戻る。君の世界に、まだ済んでいないことが、いくつもあるからな」

僕は、それ以上何も言えなかった。

男は、ごく短く付け加えた。

「君が、写真部の竹内か」

「……はい」

「内山だ」

そして、内山は、自分の足元の犬を、一度だけ撫でた。

「これは、クロ」

クロが、僕を見た。

長い視線だった。

それから、ゆっくりと、僕の方へ歩いてきた。

僕の前で、座った。

僕の鞄の匂いを、軽く嗅いだ。

それから、僕の顔を、見上げた。

「……」

僕は、何も言えなかった。

クロも、何も言わなかった。

ただ、その金色の目の中に、たぶん、長い時間の重なりが見えた気がした。

そして、その光は、僕がよく知っている色をしていた。

机が頂点で止まったときの、空気の遅れ。

七瀬の鱗が編まれていくときの、布の流れ。

それと、同じ系統の光だった。

内山が、低い声で言った。

「君のような目を持つ者は、他にもいる。すぐには会わせない。まずは、君と、彼女が、落ち着くのが先だ」

「……はい」

「ゆっくり休め。話は、明日でいい」

夕日が、たぶん、世界一綺麗な角度で、窓から差し込んでいた。

その光の中で、クロの目が、もう一度だけ、青銀に脈打った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ