第六話 線が二本に分かれた日
家に帰った夜、僕は机の引き出しを開けた。
中には、未現像のフィルムが何本か入っている。何本か、というのは正確ではない。前に数えたときと同じ本数のはずだ。たぶん七本か八本。一本も増えていない。
その隣に、銀色のカメラがあった。祖父の遺品。ストラップの端に、祖父の字で「竹内透」とだけ彫ってある。
僕は、フィルムを一本、手のひらに乗せた。
軽かった。
軽い、ということを、今日初めて、ちゃんと知った気がした。
カメラには装填しなかった。
シャッターも、切らなかった。
ただ、手のひらの上にしばらく載せていた。
──たぶん、僕は、今日、もう撮っていた。
水中で、七瀬のスカートがほどけていく動きを、彼女の鱗の光を、髪の広がり方を、僕の頭の中で、確実に「切っていた」。シャッターを切る、というのが、構えることでもファインダーを覗くことでもなく、見たものを、自分の側の責任として引き受ける動作だとすれば、僕はもう、たぶん、切っていた。
だから、フィルムを装填する必要は、もう、ない。
僕の身体の中の、別のフィルムに、もう焼きついてしまっているからだ。
土手の上で、僕の口から出た「結婚しようか」は、たぶん、撮った後で被写体に名乗り出る動作に似ていた。撮った人間が、撮られた人間に、これからどうしましょうか、と訊く動作。軽くはなかったのだと、今は思う。
ただ、思うだけだった。
僕は、フィルムを引き出しに戻した。
カメラも、戻した。
引き出しを閉じた。
それから、机に肘をついて、しばらく目を開けたままでいた。
窓の外に、鳩が一羽だけ、いた。
今日は、数えなかった。
それから、二日が過ぎた。
二日、というのは僕の感覚で、現実の暦の上でも二日だったが、その二日の中身は、いつもの二日とはたぶん何も似ていなかった。
朝、教室に入る。七瀬は別のクラスなので、僕の左隣にはやはり今村さんがいて、右隣にはルウアがいる。それは変わらない。
ただ、僕の見ているものが、変わった。
廊下の天井に、点検口が三つある。子どもの頃から知っているつもりだった。今、よく見ると、そのうちの一つだけ、ねじの種類が違う。何かが後から取り付けられている。
教室の窓の外。商店街のアンテナの上。今朝は七羽。
校門の前で、よく道路工事をしている。あの工事の囲い。形を覚えてみる。月曜日に見た囲いの並びと、火曜日の並びが、微妙に違う。同じ「工事中」の看板が、別の場所に立てられている。一見、同じ風景。実際は、毎日少しずつ、位置がずれている。
ずれている、というより、移動している。
何かが、町の中に静かに展開している。誰にも気づかれないように、設置されたものと撤去されたものが、一日ごとに少しずつ前後している。
そして、誰も気づかない。
ほとんど、誰も。
「ねえ、竹内」
副部長が、昼休みの部室で、僕の手元を見ていた。
「ノートに、何書いてんの」
「町の地図」
「は?」
「学校周辺の」
「何のために」
「数えてる」
副部長は、ノートを覗き込んだ。
ページの上には、簡単な地図と、小さな点と、数字が書き込まれていた。鳩。コンロボ。点検口。工事の囲い。一日ごとに、点の数が増えていた。
「……竹内」
「うん」
「あんた、これ、見せちゃ駄目だよ」
「誰に」
「……わからないけど」
副部長の声は、小さかった。
ルウアが、横から覗き込んで、ごく短く頷いた。
「分布が、確実に高密度化しています」
「お前、それ翻訳すると」
「町の防衛側が、警戒度を上げています。同時に、敵側の干渉も、最終段階に入っています」
「翻訳、丁寧にしてくれ」
「事実です」
副部長は、僕の手からノートを取り上げた。
「これ、私が預かる」
「なんで」
「あんた、最近、目が痩せてきてる」
「……」
「これ持ってる間、もっと痩せる気がする」
「……」
「返してほしくなったら、言って」
副部長は、それを自分の鞄の奥にしまった。
その手つきが、いつもの彼女より、ほんの少しだけ、丁寧だった。
七瀬は、放課後、部室に来るようになっていた。
別のクラスの生徒が部活動の見学に来る、という名目で、彼女は普通に入ってきて、普通に椅子に座って、普通に窓の外を見ていた。
彼女の役割は、護衛だった。
それを副部長は察していた。たぶんルウアも。たぶん部室に出入りする後輩も、誰も口にしないが、なんとなく察していた。
「七瀬さん」
副部長が、ティーカップを差し出した。中身はただのお茶だった。
「ありがとうございます」
「今日も、来てくれてありがとう」
「業務です」
「業務でも、ありがとう」
七瀬は、少しだけ目を伏せた。
「……どういたしまして」
副部長は、それを聞いて、ほんの少しだけ笑った。
「あんた、最近ちょっと、人間っぽくなってきたわよ」
「事実ですか」
「事実」
七瀬は、その回答に、しばらく動かなかった。
それから、ごく短く言った。
「光栄です」
ルウアが、横で小さく頷いた。
「私の方が、ずっと人間っぽさは欠如しています」
「あなたは別カテゴリ」副部長が即答した。
「……理解しました」
部室の空気が、少しだけ、人間の家のリビングに近づいた、と僕は思った。
ただ──その日の夕方、それは終わった。
下校時。
校門の前の交差点で、信号待ちをしていた時だった。
僕の左隣に今村さんがいた。彼女もたまたま同じ時間に校門を出ていて、たまたま同じ信号で止まっていた。
そういう「たまたま」が、たぶん、僕と今村さんの三年間の九十九パーセントを占めてきた。
僕は窓の外を見るふりはできない。信号待ちなので、見るのは信号だ。
「……」
「……」
僕らはいつも通り、目を逸らし合っていた。
そのとき、今村さんが、ごく小さな声で言った。
「あの工事、また場所がずれてるね」
僕の足が止まった。
彼女は、続けた。
「先週は、向こうの角だった。今日は、こっち」
「……」
「気のせい?」
「いや」
「あ。返事来た」
今村さんは、僕を見ずに、信号を見ていた。横顔だった。
「……何か、よくないことが起きてる?」
「うん」
「私、関係ある?」
「ない、と思う。けど」
「けど?」
「君は、見える人だから。たまたま、見えてしまっている」
「私も?」
「うん。俺もだ」
今村さんは、しばらく黙っていた。
それから、信号が青になった。
「行こう」
僕らは、並んで、横断歩道を渡った。
人生で初めて、僕は今村さんと横並びで歩いた。
たぶん、たった二十秒くらいの距離だった。
向こうの歩道に着いたとき、彼女はもう、別の方向を向いていた。
「じゃあ」
「うん」
それだけだった。
でも、それで、十分だった。
──その瞬間、空気が変わった。
風ではない。地面の振動でもない。
気圧だった。
僕の耳の奥が、急に詰まった。
「……っ」
今村さんも、こめかみを押さえた。
僕は反射的に背後を振り返った。
校門の方向から、何かが来ていた。
一体ではなかった。三体。前回の人型が、もう少し大きく、もう少し関節の数が多くなったやつが、三体、横並びで歩いてきていた。
通行人は、誰も気づいていないように見えた。
そして、その後ろに──もっと大きな、人型ですらないものが、空気の歪みのようにして、近づいてきていた。
僕は、それを「見えた」というより、「輪郭の不在」として認識した。空間の中に、物体が「置かれている」のに、その表面の情報が消されている。だから空気が歪んで見える。
「……今村さん」
「うん」
「走って」
「うん」
「学校じゃなく、商店街の方」
「うん」
「副部長に、ノートを返してもらえって伝えて」
「ノート?」
「副部長は、わかる」
今村さんは、二秒だけ僕を見た。
それから、走った。
迷いはなかった。
僕は、その背中をほんの一瞬だけ見送った。
七瀬が、いた。
校門の方から、信号を無視して走ってきていた。
「離れて」
「うん」
「ルウア、副部長と一緒に、こちらへ来ます」
「うん」
「ただし、間に合わない可能性、四十パーセント」
「……」
「あなたを、別の場所へ移します」
「別の場所」
「説明は後です」
七瀬の左手が、僕の右手を掴んだ。
冷たかった。やはり、皮膚の温度ではなかった。
人型の三体が、横並びのまま、加速した。
その後ろの「輪郭の不在」が、ぐっと近づいた。
七瀬が、人型に向かって、片手を伸ばした。
「位相同期、即時干渉」
彼女の手のひらから、青銀の光が、糸のように三本伸びた。光は、それぞれの人型の中心へまっすぐ到達し、内側で展開した。
人型の動きが、止まった。三体とも、同時に。
七瀬の制服が、肩のところで、わずかにほどけはじめていた。スカートではない。全身が、繊維単位で再構成を始めていた。
「七瀬」
「業務です」
「だから、何の」
「護衛対象の位相退避」
「俺をどこへ」
「安全な層」
「──戻れるのか」
七瀬は、ほんの一瞬だけ、答えを止めた。
「戻ります。ただし、今ではありません」
「うん」
「向こう側にも、待っている者がいます」
「……」
「私の側の」
その瞬間。
人型の後ろの「輪郭の不在」が、僕らに到達した。
それは、見ることができないものだった。視覚で捉えるのではなく、空間の方が捉えられる感覚があった。
それは、僕の存在そのものを、別の場所へ書き換えようとしていた。
──僕の身体が、内側から引っ張られた。
「うっ……」
肺の中の空気が、別の方向へ引かれていく感覚。
七瀬の手が、僕の手をさらに強く掴んだ。
「離さないで」
「うん」
「離れたら、片方が消えます」
「うん」
「私が連れて行きます。私の側へ。あちらの軌道は、書き換えます」
「書き換える」
「敵側の装置です。彼らは、あなたを、別の場所へ運ぼうとしている。私は、それを、私の側の拠点へ、上書きします」
「……うん」
僕の足が、地面から離れた。
正確には、地面が僕から離れた。
僕は、横断歩道の白線を、最後にもう一度見た。
七瀬が、僕の隣で、目を閉じていた。
その目を閉じる動作が、いつもよりずっと、人間に近かった。
落下、というのとも違った。
引かれる、というのが近かったが、引かれる先がどこにあるのかが、わからなかった。
水中に近かった。だが水ではない。
光があった。だが光源はなかった。
そして、七瀬の手の感触だけが、僕の現実だった。
その途中で、ふいに、彼女の手が、二つに割れた。
物理的に二つになったわけではない。
七瀬の手の中に、別の手が、もう一本あった。
僕は、その瞬間、彼女が二人になりかけているのを、感じた。
「七瀬」
「はい」
「お前、二人いる?」
「……はい」
「どっちが、お前?」
「……どっちも、です」
「片方は」
「こちらに、残ります」
「こちらって」
「あなたの世界。私の、こちら側の器」
「お前は」
「私の方は、向こうへ」
「……」
「あなたと一緒に」
「残る方は」
「副部長さんと、ルウアの、横にいます」
「……」
「業務上の継続性のために」
七瀬の手は、確かに、二本になっていた。一本は、僕を引っ張り続けていた。もう一本は、僕とは反対の方向へ、ゆっくりと引かれていた。
「お前、本当に、誰なんだ」
「……向こうで、説明します」
「約束だぞ」
「はい」
光が、変わった。
色が変わった、というのではなく、位相が変わった。
僕の視界が、別の波長に対応しはじめた。
そして──
僕は、何か別の場所の、何か別の床に、背中から落ちた。
衝撃はなかった。
ただ、突然、僕は仰向けに、何かの上に、置かれていた。
目を開ける。
知らない天井だった。
木の梁。古いランプ。乾いた草の匂い。少し苦い薬品の匂い。
僕は、上半身を起こした。
身体は、動いた。痛みはない。濡れてもいなかった。さっきまで横断歩道にいたのが嘘のように、僕は乾いていて、生きていて、知らない天井の下にいた。
横に、誰かが寝かされていた。
七瀬だった。
でも、ちょっと違った。
髪は同じだった。顔も、ほとんど同じだった。だが、服が違う。制服ではない。簡素な、けれど明らかに別の文化圏の服。そして──
足があった。
二本、ちゃんとあった。
魚ではなかった。
「……」
僕は、彼女の顔を見つめた。
彼女は、眠っていた。
呼吸をしていた。
人間の、呼吸だった。
部屋の隅から、足音がした。
僕が振り返ると、扉のところに、一人の男が立っていた。
飾り気のない実用的な服を着ていた。鋭い目をしていた。
そして、その足元に、大型の黒い犬がいた。
犬の毛並みに、青銀の光が、ごく細く、脈打っていた。
男は、僕を見て、それから、眠っている七瀬を見た。
「……来たか」
低い声だった。
「想定より、少し早いがな」
「予定が、あったんですか」
「あった。もう少し先のはずだった。状況が、こちらの想定より速く進んだ」
男は、七瀬の方をもう一度見た。
「彼女が、軌道を書き換えたな」
「……はい」
「上手くやった。敵側の拉致が、こちらへの合流に化けた」
「合流」
「君は、ここに長くはいない。落ち着いたら、向こうへ戻す。話は、それまでに済ませる」
「戻れるんですか」
「戻る。君の世界に、まだ済んでいないことが、いくつもあるからな」
僕は、それ以上何も言えなかった。
男は、ごく短く付け加えた。
「君が、写真部の竹内か」
「……はい」
「内山だ」
そして、内山は、自分の足元の犬を、一度だけ撫でた。
「これは、クロ」
クロが、僕を見た。
長い視線だった。
それから、ゆっくりと、僕の方へ歩いてきた。
僕の前で、座った。
僕の鞄の匂いを、軽く嗅いだ。
それから、僕の顔を、見上げた。
「……」
僕は、何も言えなかった。
クロも、何も言わなかった。
ただ、その金色の目の中に、たぶん、長い時間の重なりが見えた気がした。
そして、その光は、僕がよく知っている色をしていた。
机が頂点で止まったときの、空気の遅れ。
七瀬の鱗が編まれていくときの、布の流れ。
それと、同じ系統の光だった。
内山が、低い声で言った。
「君のような目を持つ者は、他にもいる。すぐには会わせない。まずは、君と、彼女が、落ち着くのが先だ」
「……はい」
「ゆっくり休め。話は、明日でいい」
夕日が、たぶん、世界一綺麗な角度で、窓から差し込んでいた。
その光の中で、クロの目が、もう一度だけ、青銀に脈打った。




